「ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1555年リヨン)」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら
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1555年に[[リヨン]]で出版された『[[ミシェル・ノストラダムス師の予言集]]』は、すでに世界で220種以上の版が出されている占星術師[[ノストラダムス]]による四行詩集の初版である。その存在は知られていたものの、1980年代までは紛失と再発見を繰り返していた。
#ref(Centuries_1555.JPG)
【画像】1555年版の扉((画像の出典:[[http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nostradamus_Centuries_1555.jpg]]))
*構成
版型は八つ折版(Octavo)である。正確な寸法は資料によって若干のばらつきはあるものの、ブナズラの書誌では80 x 130 mmとあるので、日本でいえば文庫本とそう変わらないサイズである。全46葉(folios)で、ページ数は振られていない。
**タイトルページ
タイトルは、「ミシェル・ノストラダムス師の予言集」(Les Prophéties de M. Michel Nostradamus)である。タイトルの下には、書斎に座って窓から星を見るノストラダムスの姿が描かれ、その下に「[[リヨン]]の[[マセ・ボノム]]出版社にて、1555年」(À Lyon, Chez Macé Bonhomme. 1555)と書かれている。
**特認
タイトルページの裏面に特認の抜粋が収録されている。この特認には、王附顧問にしてリヨン地方裁判所(La Sénéchaussée de Lyon)で代理官を務めるラ・モットの領主ユーグ・デュ・ピュイ(Hugues Du Puys)の署名があり、『予言集』が異端でないことを認めた上でボノムに2年間の出版独占権を与えるものとなっている。特認の発行日は「1555年4月末日」となっている。
2年間という期間設定は、同時代の有名な本の特認に比べて短いものだとも指摘されている((宮下 [2000] p. 141))。
**序文
特認の後に、息子[[セザール>セザール・ド・ノートルダム]]にあてた書簡の形をとった序文(「[[セザールへの手紙]]」)が続いている。この序文の最後には、「[[サロン>サロン=ド=プロヴァンス]]、1555年3月1日」と記されている。
**百詩篇集
序文の後に、予言集の本編といえる四行詩集が収められている。四行詩集は「サンチュリ」([[詩百篇>百詩篇集]])と銘打たれた巻ごとにまとめられ、1巻につき100篇の四行詩から構成されている。1555年の初版には、3巻までと4巻の53番目の四行詩までの、計353篇が収められている。
第4巻53番の後には、「本書は1555年5月4日に印刷完了した。」という言葉が添えられ、全体が締めくくられている。
*特色
後に追補された[[第4巻54番>百詩篇第4巻54番]]以降と比べて、フランス語以外の言語の使用が際立っている。4巻の[[26番>百詩篇第4巻26番]]と[[44番>百詩篇第4巻44番]]は四行全てがプロヴァンス語で書かれているが、このような例は4巻54番以降には見られない([[百詩篇第6巻ラテン語詩>愚かな批評家に対する法の警句]]は例外的な存在である)。また、ギリシア語をちりばめており、後の版と違い、それらにはギリシア文字をそのまま使っている([[第4巻32番>百詩篇第4巻32番]]の "πάντα κοίνα φιλών" など。これは後の版では "Pánta Choina Philòn" といった具合にローマ式アルファベットに直されている)。
これらの特殊性は4巻に多く見られるが、他の巻を通した点として、大文字で書かれた単語の多さも際立っている。シラン([[CHIREN>Chyren]])などのような特殊な語だけでなく、GRAND(大きな)のような一般的な語にもこのような扱いを受けている例が見られる((以上、この節はBenazra [1984] pp.12-13に基づく。))。
*反響
ノストラダムスの秘書[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]による伝記(1594年)には、「出版されるや、国の内外を問わず非常に大きな驚嘆を伴って評判になった」とある。また、息子[[セザール・ド・ノートルダム]]の『プロヴァンスの歴史と年代記』(1614年)でもほぼ同様に、「その本の名は飛ぶように広まり、誰もがここには書けないような大きな驚嘆とともにその話を聞いた」とある((Chavigny [1594] p.3, Nostredame [1614] p.776 ))。こうした記述を裏付けるような同時代の記録は確認されていないが、現在でも良く売れて評判になったとはされている((Leoni [1982] p.26, Bracop [2000] p.152))。
好意的とはいえない反応としては、1556年に作家[[アントワーヌ・クイヤール]]がパロディ本『パヴィヨン・レ・ロリ殿の予言集』を出したことが挙げられる。この本は散文による予言集の体裁をとっているが、例えばこんなことを述べている。
-私は3797年までの永続的な予言などは語りたくない。何故ならば悪魔が私に対して世界はもっと前に終わると教えてくれたからだ((Couillard [1556] f.B4verso))
これは、ノストラダムスが序文において、
-(この予言集は)現在から3797年までの永続的な予言なのである。かくも長い(予言範囲の)拡張に眉をひそめる人々もいるだろう。しかし、月の窪みの下の至る所で(予言した通りの)事件が起こって認識されるであろうし、それによって全地上であまねく理解されるのだ、わが息子よ。
と語ったことを揶揄したものである。
*「発見」の歴史
**行方不明になった版
19世紀の段階で、この版は非常に稀少なものであると認識されていた。そんな中、[[ウジェーヌ・バレスト]]が、著書『ノストラダムス』(1840年)の中で、ボノム版の原文をかなり忠実に転記した。この時に使われた版は、アンリ・デュジャルダン(Henri Dujardin)の筆名でエッセイストとして活動していた神父ジャム(l'abbé James)の蔵書を借り受けたものだと、バレスト自身が明記している((Bareste [1840] p.253))。
その後、19世紀後半にはパリ市庁舎に当時あった市立図書館に所蔵されていたらしいが、1871年のパリ・コミューンで市庁舎が焼失した際に、この版も行方不明となった((Benazra [1984] p.11, Wilson [2003] p.108))。また、パリの[[マザラン図書館]]にもあったが、これも1887年6月に確認されたのを最後に行方不明になった(盗まれたとする説もある)((Chomarat [1989] pp.15-16, Wilson [2003] p.109))。他に、[[オルレアン市立図書館]]にもあったらしいが、これも[[アンリ・ボードリエ]]が調査した19世紀末の時点で既に失われていた((Baudrier, &italic(){op.cit.}, Tome X, p.246))。
書誌学者デルピーは、1906年に刊行した書誌のなかで、ド・ラ・ヴァリエールという私人の蔵書だったものが7リーヴル10ソルで販売されたことに言及しているが、これもその後の状況は不明である。
歴史学者[[ユージン・パーカー]]は、1920年に[[ハーバード大学]]に提出した博士論文のなかで、リヨンの書店からアメリカの私人に売られたことに言及しているが、この言及については、何らかの誤認の可能性も指摘されている((Leoni [1982] p.42))。
ジャム神父の蔵書は、1889年10月15日に[[エクトール・リゴー]]の手に渡っていたが((Ruzo [1997] p.374))、リゴーの死後の蔵書清算オークション(パリのドルオ館、1931年6月17日)で12310フランで競り落とされた((Benazra [1990] p.10))。
**チエボー未亡人の版
1950年代には、[[ダニエル・ルソ]]が、パリの書籍商ジュール・チエボー(Jules Thiébaud)未亡人の手許に1冊私蔵されていることを知り、全ページのフォトコピーをとらせてもらっている((Klinckowstroem [1963] Column 1609 , Ruzo [1997] p.269))。このフォトコピーは、2007年4月21日のオークションで、90ドルで競り落とされたことが分かっている((http://www.swanngalleries.com/ (オークションの公式サイト)。"SALES RESULTS" のSale2111(2007年4月21日)のLot 3 がそれである。))。
チエボーの蔵書自体がその後どうなったのかはよく分かっていなかったが、2010年にパリで開催された古美術ビエンナーレにあわせて刊行された書肆トマ=シュレル(Thomas-Sheler)の目録で明らかになった。
それによると、チエボーの蔵書はエクトール・リゴーの旧蔵書であり、1931年のオークションのあと、書肆エミール・ヌリ(Emile Nourry, 1935年没)の手に渡り、ヌリの死後、その後継者であったチエボーの手に渡っていたのだという((Thomas-Sheler [2010] pp.18-20))。トマ=シュレルの目録には、実物の写真及びいくつかのページのコピーなどが掲載されているが、現在の所有者は不明である。
**公共図書館での発見
公共図書館の所蔵は長らく確認されていなかったが、1980年代初頭に[[ロベール・ブナズラ]]がヨーロッパ各地の図書館を調査した結果、1982年9月にウィーンの[[オーストリア国立図書館]]で、1983年7月にフランスの[[アルビ市立図書館]]のロシュギュード文庫で、それぞれ発見した((Benazra [1984] p.10.))。なお、アルビでの発見については、ブナズラの照会に基づいて当時の図書館長ジャック・ポン(Jacques Pons)が確認した結果、発見したもののようである((cf. Les Amis de Michel Nostradamus [1985] p.33))。このアルビの初版本は、[[イアン・ウィルソン]]夫妻が同図書館を2001年10月に訪れた際に、館長マリエル・ムランシュ(Marielle Mouranche)が答えた内容によれば、18世紀にアンリ・パスカル(パシャル)・ド・ロシュギュード(Henri Paschal de Rochegude)が蒐集したものに元々含まれていたという((Wilson [2003] p.109.))。
2016年現在、現存はこの2冊および前述のトマ=シュレルの目録に掲載された版の計3冊しか確認されていない。
*復刻版と校定版
ブナズラの調査には、[[ミシェル・ショマラ]]らも協力しており、彼らはアルビ市立図書館の許可を得た上で1984年7月に影印本を出版した((Les Amis de Michel Nostradamus [1984]))。この発見と復刻の経緯については、同年10月3日付けでAFPが配信し、リベラシオン紙やプログレ・ディマンシュ紙など複数の新聞が報じた((Les Amis de Michel Nostradamus [1985] pp.32-33))。
**アルビとウイーン
ブナズラは復刻版に寄せた序文のなかで、ウィーンの蔵書とアルビの蔵書の原文には、様々な食い違いがあることを初めて確認した。彼がリストアップした食い違いは77箇所にも及ぶ((Benazra [1984] pp.14-16))。その多くはちょっとした綴り方の違いに過ぎないものであるが、一部で異なる単語になっているものもある。
内容上の比較から、アルビの初版本がまず出版され、それを校正したのがウイーンの蔵書であると見なされている。そして、その校正には、ノストラダムス自身が介在したのではないかとする見解も存在する。ノストラダムスは、予言集出版の1年半ほど前に、不誠実な形で[[暦書]]の出版を手がけた業者に対する訴訟を起こしており、自身の原稿の出版のされ方に、相応の注意を払っていたと考えられるためである((Brind'Amour [1996] p.XXII))。
なお、行方不明になっている初版本のうち、エクトール・リゴーの手許にあったものは、タイトルページ、特認、最終ページの3ページ分の写真が、1931年のオークションカタログに掲載されていた((Giard [1931] p.22とp.23の間に挿入されている。))。また、チエボー未亡人の版はタイトルページなどの写真はクリンコフシュトレムの論文やルソの著書に掲載されていた。
パトリス・ギナールはこれらを比較した結果、2006年の時点で、リゴーの蔵書とチエボー未亡人の蔵書はウィーンの蔵書とほぼ同じものではないかと推測していた((Guinard [2006]))。上述したように、2010年にトマ=シュレルの目録でリゴーの蔵書とチエボー未亡人の蔵書が同じものであったことが明らかになり、しかもその特色がウィーンの蔵書と一致すると断定されたことで、ギナールの推論の正しさは裏書された。
しかしながら、リゴーの蔵書はバレストが忠実に転記するのに使ったはずだが、バレストの転記はウィーンではなくアルビに一致するものを含んでいる([[百詩篇第1巻87番]]、[[百詩篇第2巻1番]]・[[19番>百詩篇第2巻19番]]・[[44番>百詩篇第2巻44番]]・[[45番>百詩篇第2巻45番]]・[[52番>百詩篇第2巻52番]])。このあたりの整合性については、今後の研究の深化が望まれる。
**校定版
1996年には、オタワ大学教授だった[[ピエール・ブランダムール]]がアルビとウィーンの版を底本として、初版に収録されていた序文と353篇の四行詩についての校定版を出版した((Brind'Amour [1996] ))。日本でも、この本の抄訳を元にする形で、[[高田勇]]と[[伊藤進]]による『ノストラダムス予言集』が、日本でも1999年に出版された。
**日本での受容
日本では、1990年代初めにオウム真理教の[[麻原彰晃]]の著書(1991年)や、テレビ番組とタイアップして[[講談社]]が出版したムック(1992年)の中で、原本や復刻版の写真が紹介されたことはあった((麻原彰晃『ノストラダムス秘密の大予言』オウム出版、1991年。クオーク編集部(編)、[[飛鳥昭雄]](文)、[[大野心作]](写真)『ノストラダムスの謎』講談社、1994年。))。ただし、それらには書誌上の踏み込んだ分析はなく、また、まとまった量の紹介が行われることもなかった。
それが実現したのは1998年のことである。この年に日本語版が刊行された[[ピーター・ラメジャラー]]の著書の中では、「セザールへの手紙」と第4巻53番までの四行詩は、アルビの蔵書からほぼ忠実に転記された原文が収録された。これは、同書の訳者らが原文の価値を斟酌して、邦訳よりも原文の紹介に力点を置いたためである。
*偽作説
フランス史上の占星術関連テクストの分析で博士号を取得した[[ジャック・アルブロン]]は、ノストラダムスの予言集で本物といえるのは序文(「セザールへの手紙」)の大部分だけで、四行詩集は全てノストラダムスの死後に、カトリック同盟に関連した政治的意図で捏造された偽書に過ぎないという大胆な仮説を提示した((Halbronn [1998], Halbronn [2002] etc.))。
彼の仮説では、マセ・ボノムによる1555年版は1570年頃に捏造されたもので、ノストラダムスもボノムも一切関与していないものということになる。
彼の仮説は大きな論争を巻き起こしたが、実証的な立場からも様々な批判が寄せられており((公刊されたものとしてはMorisse [2004] など。))、広く支持されるには至っていない。
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#comment
1555年に[[リヨン]]で出版された『[[ミシェル・ノストラダムス師の予言集]]』は、すでに世界で220種以上の版が出されている占星術師[[ノストラダムス]]による四行詩集の初版である。その存在は知られていたものの、1980年代までは紛失と再発見を繰り返していた。
#ref(Centuries_1555.JPG)
【画像】1555年版の扉((画像の出典:[[http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nostradamus_Centuries_1555.jpg]]))
*構成
版型は八つ折版(Octavo)である。正確な寸法は資料によって若干のばらつきはあるものの、ブナズラの書誌では80 x 130 mmとあるので、日本でいえば文庫本とそう変わらないサイズである。全46葉(folios)で、ページ数は振られていない。
**タイトルページ
タイトルは、「ミシェル・ノストラダムス師の予言集」(Les Prophéties de M. Michel Nostradamus)である。タイトルの下には、書斎に座って窓から星を見るノストラダムスの姿が描かれ、その下に「[[リヨン]]の[[マセ・ボノム]]出版社にて、1555年」(À Lyon, Chez Macé Bonhomme. 1555)と書かれている。
**特認
タイトルページの裏面に特認の抜粋が収録されている。この特認には、王附顧問にしてリヨン地方裁判所(La Sénéchaussée de Lyon)で代理官を務めるラ・モットの領主ユーグ・デュ・ピュイ(Hugues Du Puys)の署名があり、『予言集』が異端でないことを認めた上でボノムに2年間の出版独占権を与えるものとなっている。特認の発行日は「1555年4月末日」となっている。
2年間という期間設定は、同時代の有名な本の特認に比べて短いものだとも指摘されている((宮下 [2000] p. 141))。
**序文
特認の後に、息子[[セザール>セザール・ド・ノートルダム]]にあてた書簡の形をとった序文(「[[セザールへの手紙]]」)が続いている。この序文の最後には、「[[サロン>サロン=ド=プロヴァンス]]、1555年3月1日」と記されている。
**百詩篇集
序文の後に、予言集の本編といえる四行詩集が収められている。四行詩集は「サンチュリ」([[詩百篇>百詩篇集]])と銘打たれた巻ごとにまとめられ、1巻につき100篇の四行詩から構成されている。1555年の初版には、3巻までと4巻の53番目の四行詩までの、計353篇が収められている。
第4巻53番の後には、「本書は1555年5月4日に印刷完了した。」という言葉が添えられ、全体が締めくくられている。
*特色
後に追補された[[第4巻54番>百詩篇第4巻54番]]以降と比べて、フランス語以外の言語の使用が際立っている。4巻の[[26番>百詩篇第4巻26番]]と[[44番>百詩篇第4巻44番]]は四行全てがプロヴァンス語で書かれているが、このような例は4巻54番以降には見られない([[百詩篇第6巻ラテン語詩>愚かな批評家に対する法の警句]]は例外的な存在である)。また、ギリシア語をちりばめており、後の版と違い、それらにはギリシア文字をそのまま使っている([[第4巻32番>百詩篇第4巻32番]]の "πάντα κοίνα φιλών" など。これは後の版では "Pánta Choina Philòn" といった具合にローマ式アルファベットに直されている)。
これらの特殊性は4巻に多く見られるが、他の巻を通した点として、大文字で書かれた単語の多さも際立っている。シラン([[CHIREN>Chyren]])などのような特殊な語だけでなく、GRAND(大きな)のような一般的な語にもこのような扱いを受けている例が見られる((以上、この節はBenazra [1984] pp.12-13に基づく。))。
*反響
ノストラダムスの秘書[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]による伝記(1594年)には、「出版されるや、国の内外を問わず非常に大きな驚嘆を伴って評判になった」とある。また、息子[[セザール・ド・ノートルダム]]の『プロヴァンスの歴史と年代記』(1614年)でもほぼ同様に、「その本の名は飛ぶように広まり、誰もがここには書けないような大きな驚嘆とともにその話を聞いた」とある((Chavigny [1594] p.3, Nostredame [1614] p.776 ))。こうした記述を裏付けるような同時代の記録は確認されていないが、現在でも良く売れて評判になったとはされている((Leoni [1982] p.26, Bracop [2000] p.152))。
好意的とはいえない反応としては、1556年に作家[[アントワーヌ・クイヤール]]がパロディ本『パヴィヨン・レ・ロリ殿の予言集』を出したことが挙げられる。この本は散文による予言集の体裁をとっているが、例えばこんなことを述べている。
-私は3797年までの永続的な予言などは語りたくない。何故ならば悪魔が私に対して世界はもっと前に終わると教えてくれたからだ((Couillard [1556] f.B4verso))
これは、ノストラダムスが序文において、
-(この予言集は)現在から3797年までの永続的な予言なのである。かくも長い(予言範囲の)拡張に眉をひそめる人々もいるだろう。しかし、月の窪みの下の至る所で(予言した通りの)事件が起こって認識されるであろうし、それによって全地上であまねく理解されるのだ、わが息子よ。
と語ったことを揶揄したものである。
*「発見」の歴史
(この節は一定期間非公開とします)
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**行方不明になった版
19世紀の段階で、この版は非常に稀少なものであると認識されていた。そんな中、[[ウジェーヌ・バレスト]]が、著書『ノストラダムス』(1840年)の中で、ボノム版の原文をかなり忠実に転記した。この時に使われた版は、アンリ・デュジャルダン(Henri Dujardin)の筆名でエッセイストとして活動していた神父ジャム(l'abbé James)の蔵書を借り受けたものだと、バレスト自身が明記している((Bareste [1840] p.253))。
その後、19世紀後半にはパリ市庁舎に当時あった市立図書館に所蔵されていたらしいが、1871年のパリ・コミューンで市庁舎が焼失した際に、この版も行方不明となった((Benazra [1984] p.11, Wilson [2003] p.108))。また、パリの[[マザラン図書館]]にもあったが、これも1887年6月に確認されたのを最後に行方不明になった(盗まれたとする説もある)((Chomarat [1989] pp.15-16, Wilson [2003] p.109))。他に、[[オルレアン市立図書館]]にもあったらしいが、これも[[アンリ・ボードリエ]]が調査した19世紀末の時点で既に失われていた((Baudrier, &italic(){op.cit.}, Tome X, p.246))。
書誌学者デルピーは、1906年に刊行した書誌のなかで、ド・ラ・ヴァリエールという私人の蔵書だったものが7リーヴル10ソルで販売されたことに言及しているが、これもその後の状況は不明である。
歴史学者[[ユージン・パーカー]]は、1920年に[[ハーバード大学]]に提出した博士論文のなかで、リヨンの書店からアメリカの私人に売られたことに言及しているが、この言及については、何らかの誤認の可能性も指摘されている((Leoni [1982] p.42))。
ジャム神父の蔵書は、1889年10月15日に[[エクトール・リゴー]]の手に渡っていたが((Ruzo [1997] p.374))、リゴーの死後の蔵書清算オークション(パリのドルオ館、1931年6月17日)で12310フランで競り落とされた((Benazra [1990] p.10))。
**チエボー未亡人の版
1950年代には、[[ダニエル・ルソ]]が、パリの書籍商ジュール・チエボー(Jules Thiébaud)未亡人の手許に1冊私蔵されていることを知り、全ページのフォトコピーをとらせてもらっている((Klinckowstroem [1963] Column 1609 , Ruzo [1997] p.269))。このフォトコピーは、2007年4月21日のオークションで、90ドルで競り落とされたことが分かっている((http://www.swanngalleries.com/ (オークションの公式サイト)。"SALES RESULTS" のSale2111(2007年4月21日)のLot 3 がそれである。))。
チエボーの蔵書自体がその後どうなったのかはよく分かっていなかったが、2010年にパリで開催された古美術ビエンナーレにあわせて刊行された書肆トマ=シュレル(Thomas-Sheler)の目録で明らかになった。
それによると、チエボーの蔵書はエクトール・リゴーの旧蔵書であり、1931年のオークションのあと、書肆エミール・ヌリ(Emile Nourry, 1935年没)の手に渡り、ヌリの死後、その後継者であったチエボーの手に渡っていたのだという((Thomas-Sheler [2010] pp.18-20))。トマ=シュレルの目録には、実物の写真及びいくつかのページのコピーなどが掲載されているが、現在の所有者は不明である。
**公共図書館での発見
公共図書館の所蔵は長らく確認されていなかったが、1980年代初頭に[[ロベール・ブナズラ]]がヨーロッパ各地の図書館を調査した結果、1982年9月にウィーンの[[オーストリア国立図書館]]で、1983年7月にフランスの[[アルビ市立図書館]]のロシュギュード文庫で、それぞれ発見した((Benazra [1984] p.10.))。なお、アルビでの発見については、ブナズラの照会に基づいて当時の図書館長ジャック・ポン(Jacques Pons)が確認した結果、発見したもののようである((cf. Les Amis de Michel Nostradamus [1985] p.33))。このアルビの初版本は、[[イアン・ウィルソン]]夫妻が同図書館を2001年10月に訪れた際に、館長マリエル・ムランシュ(Marielle Mouranche)が答えた内容によれば、18世紀にアンリ・パスカル(パシャル)・ド・ロシュギュード(Henri Paschal de Rochegude)が蒐集したものに元々含まれていたという((Wilson [2003] p.109.))。
2016年現在、現存はこの2冊および前述のトマ=シュレルの目録に掲載された版の計3冊しか確認されていない。
*復刻版と校定版
ブナズラの調査には、[[ミシェル・ショマラ]]らも協力しており、彼らはアルビ市立図書館の許可を得た上で1984年7月に影印本を出版した((Les Amis de Michel Nostradamus [1984]))。この発見と復刻の経緯については、同年10月3日付けでAFPが配信し、リベラシオン紙やプログレ・ディマンシュ紙など複数の新聞が報じた((Les Amis de Michel Nostradamus [1985] pp.32-33))。
**アルビとウイーン
ブナズラは復刻版に寄せた序文のなかで、ウィーンの蔵書とアルビの蔵書の原文には、様々な食い違いがあることを初めて確認した。彼がリストアップした食い違いは77箇所にも及ぶ((Benazra [1984] pp.14-16))。その多くはちょっとした綴り方の違いに過ぎないものであるが、一部で異なる単語になっているものもある。
内容上の比較から、アルビの初版本がまず出版され、それを校正したのがウイーンの蔵書であると見なされている。そして、その校正には、ノストラダムス自身が介在したのではないかとする見解も存在する。ノストラダムスは、予言集出版の1年半ほど前に、不誠実な形で[[暦書]]の出版を手がけた業者に対する訴訟を起こしており、自身の原稿の出版のされ方に、相応の注意を払っていたと考えられるためである((Brind'Amour [1996] p.XXII))。
なお、行方不明になっている初版本のうち、エクトール・リゴーの手許にあったものは、タイトルページ、特認、最終ページの3ページ分の写真が、1931年のオークションカタログに掲載されていた((Giard [1931] p.22とp.23の間に挿入されている。))。また、チエボー未亡人の版はタイトルページなどの写真はクリンコフシュトレムの論文やルソの著書に掲載されていた。
パトリス・ギナールはこれらを比較した結果、2006年の時点で、リゴーの蔵書とチエボー未亡人の蔵書はウィーンの蔵書とほぼ同じものではないかと推測していた((Guinard [2006]))。上述したように、2010年にトマ=シュレルの目録でリゴーの蔵書とチエボー未亡人の蔵書が同じものであったことが明らかになり、しかもその特色がウィーンの蔵書と一致すると断定されたことで、ギナールの推論の正しさは裏書された。
しかしながら、リゴーの蔵書はバレストが忠実に転記するのに使ったはずだが、バレストの転記はウィーンではなくアルビに一致するものを含んでいる([[百詩篇第1巻87番]]、[[百詩篇第2巻1番]]・[[19番>百詩篇第2巻19番]]・[[44番>百詩篇第2巻44番]]・[[45番>百詩篇第2巻45番]]・[[52番>百詩篇第2巻52番]])。このあたりの整合性については、今後の研究の深化が望まれる。
**校定版
1996年には、オタワ大学教授だった[[ピエール・ブランダムール]]がアルビとウィーンの版を底本として、初版に収録されていた序文と353篇の四行詩についての校定版を出版した((Brind'Amour [1996] ))。日本でも、この本の抄訳を元にする形で、[[高田勇]]と[[伊藤進]]による『ノストラダムス予言集』が、日本でも1999年に出版された。
**日本での受容
日本では、1990年代初めにオウム真理教の[[麻原彰晃]]の著書(1991年)や、テレビ番組とタイアップして[[講談社]]が出版したムック(1992年)の中で、原本や復刻版の写真が紹介されたことはあった((麻原彰晃『ノストラダムス秘密の大予言』オウム出版、1991年。クオーク編集部(編)、[[飛鳥昭雄]](文)、[[大野心作]](写真)『ノストラダムスの謎』講談社、1994年。))。ただし、それらには書誌上の踏み込んだ分析はなく、また、まとまった量の紹介が行われることもなかった。
それが実現したのは1998年のことである。この年に日本語版が刊行された[[ピーター・ラメジャラー]]の著書の中では、「セザールへの手紙」と第4巻53番までの四行詩は、アルビの蔵書からほぼ忠実に転記された原文が収録された。これは、同書の訳者らが原文の価値を斟酌して、邦訳よりも原文の紹介に力点を置いたためである。
}
*偽作説
フランス史上の占星術関連テクストの分析で博士号を取得した[[ジャック・アルブロン]]は、ノストラダムスの予言集で本物といえるのは序文(「セザールへの手紙」)の大部分だけで、四行詩集は全てノストラダムスの死後に、カトリック同盟に関連した政治的意図で捏造された偽書に過ぎないという大胆な仮説を提示した((Halbronn [1998], Halbronn [2002] etc.))。
彼の仮説では、マセ・ボノムによる1555年版は1570年頃に捏造されたもので、ノストラダムスもボノムも一切関与していないものということになる。
彼の仮説は大きな論争を巻き起こしたが、実証的な立場からも様々な批判が寄せられており((公刊されたものとしてはMorisse [2004] など。))、広く支持されるには至っていない。
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