アダン・ド・クラポンヌ

「アダン・ド・クラポンヌ」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

アダン・ド・クラポンヌ」(2021/08/24 (火) 09:24:52) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

 &bold(){アダン・ド・クラポンヌ}(Adam de Crapponne, 1526年 - 1576年)は、16世紀フランスを代表する水利技師の一人。彼の手掛けた最大の事業である[[クラポンヌ運河]]建設は、不毛のクロー平野を豊かな農地に変えた。  なお、彼の名は "Craponne" と綴られることが多いが、彼自身は "Crapponne" と綴った。日本のノストラダムス関連書では「クラッポン」「クロポンヌ」などと表記されることもあるが、いずれも不適切である。  また、日本語では「アダ&bold(){ム}・ド・クラポンヌ」と表記されることもあるが、フランス人名の表記としては不適切の可能性がある。  というのは、『ロワイヤル仏和中辞典』のように、発音記号に /adã/ と /adam/ を併記するものもあるが、普通は『ロベール仏和大辞典』なども含め、/adã/ しか掲げていないものが多いからである。 #image(Craponne.JPG)((画像の出典:[[http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Adam_de_Craponne_2.jpg>>http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Adam_de_Craponne_2.jpg]])) *生涯  クラポンヌの一族は、クラポンヌ=シュル=アルゾン(現オート=ロワール県内)の出身であり、父の代にプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)に移住した。  クラポンヌ自身は、1526年の終わり頃に生まれたとされる(生年については異説もある)。青年期のことは余りよく分かっていないが、若いときから水利技術に関心をもっていたとされ、当時岩だらけの不毛の地であったクロー平野を肥沃にすることを計画した。  1554年8月には、カドネ近くのジャンソンでデュランス川の水を引くことと、その水をサン=シャマやサロンを経由させて、ベール湖に流入させることについて、公的な許可を得た。これにより彼は私財を投じて運河建設に着手し、地元の名士たちからも出資を募って1559年4月に第一段階を完成させた。  プロヴァンス史家[[セザール・ド・ノートルダム]]によれば、当時の地元民の中には実現不可能と見ていた知識人もいたといい、この完成には多くの人々が驚嘆したという。彼の功績は当時サロン・ド・クローの人々から称えられ、現在のサロン=ド=プロヴァンス市役所前などには彼の胸像が飾られている(胸像自体は後世に作られたものである)。  クラポンヌは更に運河を延長することを計画し、順次延長したが、最終的な完成を見る前にナントで没した。  彼は生前、クラポンヌ運河以外にも、ブーク運河建設、タラスコンやフレジュスの干拓事業、ナント近郊のグランリュー湖の干拓事業なども手掛けていた((以上の生涯は主にAuguste Journet, &italic(){Adam de Craponne : 1526-1576}, Lyon, s.d.を参照した))。 *ノストラダムス関連  ノストラダムスはクラポンヌ運河建設に当たり、出資している。  また、クラポンヌの親類にあたる[[クレール・ド・グリニャン]]は、のちにセザール・ド・ノートルダムと結婚した。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
 &bold(){アダン・ド・クラポンヌ}(Adam de Crapponne, 1526年 - 1576年)は、16世紀フランスを代表する水利技師の一人。彼の手掛けた最大の事業である[[クラポンヌ運河]]建設は、不毛のクロー平野を豊かな農地に変えた。  なお、彼の名は "Craponne" と綴られることが多いが、彼自身は "Crapponne" と綴った。日本のノストラダムス関連書では「クラッポン」「クロポンヌ」などと表記されることもあるが、いずれも不適切である。  また、日本語では「アダ&bold(){ム}・ド・クラポンヌ」と表記されることもあるが、フランス人名の表記としては不適切の可能性がある。  というのは、『ロワイヤル仏和中辞典』のように、Adamの発音記号に /adã/ と /adam/ を併記するものもあるが、普通は『ロベール仏和大辞典』なども含め、/adã/ しか掲げていないものが多いからである。 #image(Craponne.JPG)((画像の出典:[[http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Adam_de_Craponne_2.jpg>>http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Adam_de_Craponne_2.jpg]])) *生涯  クラポンヌの一族は、クラポンヌ=シュル=アルゾン(現オート=ロワール県内)の出身であり、父の代にプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)に移住した。  クラポンヌ自身は、1526年の終わり頃に生まれたとされる(生年については異説もある)。青年期のことは余りよく分かっていないが、若いときから水利技術に関心をもっていたとされ、当時岩だらけの不毛の地であったクロー平野を肥沃にすることを計画した。  1554年8月には、カドネ近くのジャンソンでデュランス川の水を引くことと、その水をサン=シャマやサロンを経由させて、ベール湖に流入させることについて、公的な許可を得た。これにより彼は私財を投じて運河建設に着手し、地元の名士たちからも出資を募って1559年4月に第一段階を完成させた。  プロヴァンス史家[[セザール・ド・ノートルダム]]によれば、当時の地元民の中には実現不可能と見ていた知識人もいたといい、この完成には多くの人々が驚嘆したという。彼の功績は当時サロン・ド・クローの人々から称えられ、現在のサロン=ド=プロヴァンス市役所前などには彼の胸像が飾られている(胸像自体は後世に作られたものである)。  クラポンヌは更に運河を延長することを計画し、順次延長したが、最終的な完成を見る前にナントで没した。  彼は生前、クラポンヌ運河以外にも、ブーク運河建設、タラスコンやフレジュスの干拓事業、ナント近郊のグランリュー湖の干拓事業なども手掛けていた((以上の生涯は主にAuguste Journet, &italic(){Adam de Craponne : 1526-1576}, Lyon, s.d.を参照した))。 *ノストラダムス関連  ノストラダムスはクラポンヌ運河建設に当たり、出資している(1556年に200エキュ、1560年に288エキュ、1562年に100エキュ)。  また、クラポンヌの親類にあたる[[クレール・ド・グリニャン]]は、のちにセザール・ド・ノートルダムと結婚した。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: