シャルル・ド・ノートルダム

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*シャルル・ド・ノートルダム &bold(){シャルル・ド・ノートルダム}(Charles de Nostredame, 1556年 - 1629年12月頃)は、[[ノストラダムス]]と[[アンヌ・ポンサルド]]の間に生まれた次男(第三子)。軍人、詩人。  1556年にプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現[[サロン=ド=プロヴァンス]])に生まれた。幼いころのことはよく分かっていないが、1564年にサロンの町に国王[[シャルル9世]]と母后[[カトリーヌ・ド・メディシス]]が立ち寄った際には、ノストラダムスの家族全員が謁見させてもらえたとされるので((Leroy [1993] p.98))、当然、シャルルもそこに居合わせたことだろう。  ノストラダムスが1566年に没した際には、遺言によって、母親、兄、弟とともに家の権利を分有した。遺言が誠実に執行されたのなら、自身が25歳になった際に100エキュを受け取ったはずだが、弟アンドレが25歳になった時点(1582年)で家の所有権は失ったことになる((cf. 竹下 [1998] p.133))。  1588年2月17日にジャン・ベックの娘ルイーズ・ベック(Louise Becq)と結婚し、プロヴァンス州[[アルル]]近郊のアラン(Alleins)に移住した。そのほぼ2年後には、娘[[アンヌ>アンヌ・ド・ノートルダム (ノストラダムスの孫)]]が生まれている。結局、シャルルの子はこの娘だけだったようである。  シャルルは1594年に、[[ピエール・オジエ]]から「サロン市の隊長」(Capitaine de la ville de Salon)という称号を与えられている((Leroy [1993] p.127))。  詩人としても活動しており、それについてまとめた[[ピエール=ジョゼフ・ド・エーツ]]の記述は、[[エドガール・ルロワ]]や[[イアン・ウィルソン]]による伝記でも基本的に踏襲されている。エーツによるシャルルへの言及は短いが、全文引用されたことはないので、参考情報としてここに全訳しておこう。 「ノストラダムスの次男はシャルルであった。彼はプロヴァンス語の詩に秀でていたが、そのことは彼が発表した作品によって裏付けられている。我々の手元に残るいくつかの作品の中で白眉といえるのは、古き時代のプロヴァンス詩人たちを褒め称えるオードである。それらの作品もまた、彼が当時の三大プロヴァンス語詩人の一人に数えられるという高い評価に結びついたのである。 そのことは、当時この件で作られた次のような詩が何よりの証拠となる。 Pour retirer de l’orque un Poëte, un guerrier, Un Provençal honneur, il faut que l’on couronne Louis, Charles & Pau, de chéne & de laurier. シャチから詩人、軍人、プロヴァンス人の名誉を取り戻すために、 我々は樫と月桂樹とをもって、 ルイ、シャルル、ポーに戴冠してやらねばなるまい。 この三人の詩人とは、ルイ・ド・ベロー、シャルル・ド・ノストラダム〔原文ママ〕、ピエール・ポーで、彼らはいずれも軍職でもその名を知られていた」((Haitze [1712] pp.154-155))。  なお、ルロワは、ここで言われている「古き時代のプロヴァンス詩人たちを褒め称えるオード」は、兄[[セザール>セザール・ド・ノートルダム]]が、ピエール・ポーの作品に寄せた序文と混同したものではないかとしている((Leroy [1993] p.128))。  シャルル・ド・ノートルダムの手稿は、詩に限らず、現存が確認されていない。[[ミシェル・ショマラ]]がまとめたノストラダムス家の手稿のリストにも、シャルル関連のものはない((Chomarat [1973]))。  ルロワが指摘していることが事実だとするならば、同時代の詩に出てくる「シャルル」が本当にシャルル・ド・ノートルダムを指したものなのか自体を検証し直すことも、場合によっては必要になってくるのかもしれない。  シャルルは1629年12月頃に歿したと考えられている。それというのは、兄セザールがピエール・オジエに送った1629年12月18日付の手紙のなかで、「弟シャルルが最近天に召された」と報告しているためである((Leroy [1993] p.128))。 ---- #comment
 &bold(){シャルル・ド・ノートルダム}(Charles de Nostredame, 1556年 - 1629年12月頃)は、[[ノストラダムス]]と[[アンヌ・ポンサルド]]の間に生まれた次男(第三子)。軍人、詩人。  1556年にプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現[[サロン=ド=プロヴァンス]])に生まれた。幼いころのことはよく分かっていないが、1564年にサロンの町に国王[[シャルル9世]]と母后[[カトリーヌ・ド・メディシス]]が立ち寄った際には、ノストラダムスの家族全員が謁見させてもらえたとされるので((Leroy [1993] p.98))、当然、シャルルもそこに居合わせたことだろう。  ノストラダムスが1566年に没した際には、遺言によって、母親、兄、弟とともに家の権利を分有した。遺言が誠実に執行されたのなら、自身が25歳になった際に100エキュを受け取ったはずだが、弟アンドレが25歳になった時点(1582年)で家の所有権は失ったことになる((cf. 竹下 [1998] p.133))。  1588年2月17日にジャン・ベックの娘ルイーズ・ベック(Louise Becq)と結婚し、プロヴァンス州[[アルル]]近郊のアラン(Alleins)に移住した。そのほぼ2年後には、娘[[アンヌ>アンヌ・ド・ノートルダム (ノストラダムスの孫)]]が生まれている。結局、シャルルの子はこの娘だけだったようである。  シャルルは1594年に、[[ピエール・オジエ]]から「サロン市の隊長」(Capitaine de la ville de Salon)という称号を与えられている((Leroy [1993] p.127))。  詩人としても活動しており、それについてまとめた[[ピエール=ジョゼフ・ド・エーツ]]の記述は、[[エドガール・ルロワ]]や[[イアン・ウィルソン]]による伝記でも基本的に踏襲されている。エーツによるシャルルへの言及は短いが、全文引用されたことはないので、参考情報としてここに全訳しておこう。 「ノストラダムスの次男はシャルルであった。彼はプロヴァンス語の詩に秀でていたが、そのことは彼が発表した作品によって裏付けられている。我々の手元に残るいくつかの作品の中で白眉といえるのは、古き時代のプロヴァンス詩人たちを褒め称えるオードである。それらの作品もまた、彼が当時の三大プロヴァンス語詩人の一人に数えられるという高い評価に結びついたのである。 そのことは、当時この件で作られた次のような詩が何よりの証拠となる。  Pour retirer de l’orque un Poëte, un guerrier,  Un Provençal honneur, il faut que l’on couronne  Louis, Charles & Pau, de chéne & de laurier.  シャチから詩人、軍人、プロヴァンス人の名誉を取り戻すために、  我々は樫と月桂樹とをもって、  ルイ、シャルル、ポーに戴冠してやらねばなるまい。 この三人の詩人とは、ルイ・ド・ベロー、シャルル・ド・ノストラダム〔原文ママ〕、ピエール・ポーで、彼らはいずれも軍職でもその名を知られていた」((Haitze [1712] pp.154-155))。  なお、ルロワは、ここで言われている「古き時代のプロヴァンス詩人たちを褒め称えるオード」は、兄[[セザール>セザール・ド・ノートルダム]]が、ピエール・ポーの作品に寄せた序文と混同したものではないかとしている((Leroy [1993] p.128))。  シャルル・ド・ノートルダムの手稿は、詩に限らず、現存が確認されていない。[[ミシェル・ショマラ]]がまとめたノストラダムス家の手稿のリストにも、シャルル関連のものはない((Chomarat [1973]))。  ルロワが指摘していることが事実だとするならば、同時代の詩に出てくる「シャルル」が本当にシャルル・ド・ノートルダムを指したものなのか自体を検証し直すことも、場合によっては必要になってくるのかもしれない。  シャルルは1629年12月頃に歿したと考えられている。それというのは、兄セザールがピエール・オジエに送った1629年12月18日付の手紙のなかで、「弟シャルルが最近天に召された」と報告しているためである((Leroy [1993] p.128))。 ---- #comment

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