「アンヌ・ド・ノートルダム (ノストラダムスの姪)」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら
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*アンヌ・ド・ノートルダム
&bold(){アンヌ・ド・ノートルダム}(Anne de Nostredame, 1554年5月29日 - 没年不明)は、[[アントワーヌ・ド・ノートルダム]]とロワーズ・ベルルの娘で、[[ノストラダムス]]の姪に当たる。
1554年5月29日にプロヴァンス州サン=レミ(現[[サン=レミ=ド=プロヴァンス]])に生まれた。アントワーヌの10人の子供(五男五女)の中では、次女(第五子)に当たる。
1571年1月29日に結婚したが、結婚契約書の字が読みづらいらしく、夫の名前は疑問符つきでスプリ・ボワリエ(Sperit Boylier)もしくはスプリ・ベルリエ(Sperit Berlier)とされている((Leroy [1993] p.viii))。
なお、[[エドガール・ルロワ]]は下に掲げるノストラダムスの娘や孫とも違う第4の「アンヌ・ド・ノートルダム」が16世紀末から17世紀初頭のサン=レミにいたとしているが、このノストラダムスの姪と同一人物なのではないかとも思える。
というのは、ルロワが挙げている公証人バディナンク(Badinenc)の登記簿の1609年と1612年の記録では、そのアンヌ・ド・ノートルダムはエスプリ・ベルリエ(Esprit Berlier)の未亡人とされているからだ((Leroy [1993] p.129))。
エスプリ・ベルリエと、結婚契約書の「スプリ・ベルリエ」の類似は偶然とも思えない。また、公証人バディナンク一族の登記簿には、アンヌの父アントワーヌの50年間(1547年-1597年)にわたる記録や妹[[ダマリー>ダマリー・ド・ノートルダム]]の結婚契約書、甥の[[ローラン>ローラン・ド・ノートルダム]]や[[ポール>ポール・ド・ノートルダム]]の書類などが残されており((Leroy [1993] pp.45, 48 etc.))、この点からもバディナンクとアンヌの接点を想定することは容易である。
仮にこの推測が正しいのなら、この人物は1612年までは生きていたことになる。
**関連項目
-[[アンヌ・ド・ノートルダム]](ノストラダムスの娘)
-[[アンヌ・ド・ノートルダム (ノストラダムスの孫)]]
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#comment
&bold(){アンヌ・ド・ノートルダム}(Anne de Nostredame, 1554年5月29日 - 没年不明)は、[[アントワーヌ・ド・ノートルダム]]とロワーズ・ベルルの娘で、[[ノストラダムス]]の姪に当たる。
1554年5月29日にプロヴァンス州サン=レミ(現[[サン=レミ=ド=プロヴァンス]])に生まれた。アントワーヌの10人の子供(五男五女)の中では、次女(第五子)に当たる。
1571年1月29日に結婚したが、結婚契約書の字が読みづらいらしく、夫の名前は疑問符つきでスプリ・ボワリエ(Sperit Boylier)もしくはスプリ・ベルリエ(Sperit Berlier)とされている((Leroy [1993] p.viii))。
なお、[[エドガール・ルロワ]]は下に掲げるノストラダムスの娘や孫とも違う第4の「アンヌ・ド・ノートルダム」が16世紀末から17世紀初頭のサン=レミにいたとしているが、このノストラダムスの姪と同一人物なのではないかとも思える。
というのは、ルロワが挙げている公証人バディナンク(Badinenc)の登記簿の1609年と1612年の記録では、そのアンヌ・ド・ノートルダムはエスプリ・ベルリエ(Esprit Berlier)の未亡人とされているからだ((Leroy [1993] p.129))。
エスプリ・ベルリエと、結婚契約書の「スプリ・ベルリエ」の類似は偶然とも思えない。また、公証人バディナンク一族の登記簿には、アンヌの父アントワーヌの50年間(1547年-1597年)にわたる記録や妹[[ダマリー>ダマリー・ド・ノートルダム]]の結婚契約書、甥の[[ローラン>ローラン・ド・ノートルダム]]や[[ポール>ポール・ド・ノートルダム]]の書類などが残されており((Leroy [1993] pp.45, 48 etc.))、この点からもバディナンクとアンヌの接点を想定することは容易である。
仮にこの推測が正しいのなら、この人物は1612年までは生きていたことになる。
*関連項目
-[[アンヌ・ド・ノートルダム]](ノストラダムスの娘)
-[[アンヌ・ド・ノートルダム (ノストラダムスの孫)]]
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