アンヌ・ド・ノートルダム

「アンヌ・ド・ノートルダム」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

アンヌ・ド・ノートルダム」(2009/09/21 (月) 11:56:35) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

 &bold(){アンヌ・ド・ノートルダム}(Anne de Nostredame, 1559年12月15日 - 1597年以前)は、[[ノストラダムス]]と[[アンヌ・ポンサルド]]の間に生まれた次女(第五子)。  1559年12月15日にプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現[[サロン=ド=プロヴァンス]])に生まれた。かつて[[エドガール・ルロワ]]らの研究では1558年頃の生まれとされていたが、兄[[セザール>セザール・ド・ノートルダム]]の自筆らしき手稿によって正確な生年月日が特定された((Brind'Amour [1993] p.35, n.59))。  [[トゥーロン]]の有力者ピエール・ド・スヴァ(Pierre de Seva)と結婚し、息子[[メルシオール・ド・スヴァ]](Melchior de Seva)を生んだ。なお、ピエール・ド・スヴァについて、[[イアン・ウィルソン]]はラングドック州ボーケールのピエール・ド・セーヴ(Pierre de Sève)として紹介している((Wilson [2002/2003] p.324))。具体的な根拠があってのことか、単に[[ヴァンサン・セーヴ]]と関連付けようとしたものか、よく分からない。少なくとも、セザール・ド・ノートルダムが甥メルシオールに言及する際には、「ド・スヴァ」(de Seua)と表記している((cf. Dupèbe [1983] p.11))。  アンヌの正確な没年は不明だが、1597年付のセザールの遺言書原稿で既に故人として扱われていることから、それ以前に亡くなったと考えられている。 *関連項目 -[[アンヌ・ド・ノートルダム (ノストラダムスの孫)]] -[[アンヌ・ド・ノートルダム (ノストラダムスの姪)]] ---- #comment
 &bold(){アンヌ・ド・ノートルダム}(Anne de Nostredame, 1559年12月15日 - 1597年以前)は、[[ノストラダムス]]と[[アンヌ・ポンサルド]]の間に生まれた次女(第五子)。  1559年12月15日にプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現[[サロン=ド=プロヴァンス]])に生まれた。かつて[[エドガール・ルロワ]]らの研究では1558年頃の生まれとされていたが、兄[[セザール>セザール・ド・ノートルダム]]の自筆らしき手稿によって正確な生年月日が特定された((Brind'Amour [1993] p.35, n.59))。  [[トゥーロン]]の有力者ピエール・ド・スヴァ(Pierre de Seva)と結婚し、息子[[メルキオール・ド・スヴァ]](Melchior de Seva)を生んだ。なお、ピエール・ド・スヴァについて、[[イアン・ウィルソン]]はラングドック州ボーケールのピエール・ド・セーヴ(Pierre de Sève)として紹介している((Wilson [2002/2003] p.324))。具体的な根拠があってのことか、単に[[ヴァンサン・セーヴ]]と関連付けようとしたものか、よく分からない。少なくとも、セザール・ド・ノートルダムが甥メルキオールに言及する際には、「ド・スヴァ」(de Seua)と表記している((cf. Dupèbe [1983] p.11))。  アンヌの正確な没年は不明だが、1597年付のセザールの遺言書原稿で既に故人として扱われていることから、それ以前に亡くなったと考えられている。 *関連項目 -[[アンヌ・ド・ノートルダム (ノストラダムスの孫)]] -[[アンヌ・ド・ノートルダム (ノストラダムスの姪)]] ---- #comment

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: