アンドレ・ド・ノートルダム

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 &bold(){アンドレ・ド・ノートルダム}(André de Nostredame, 1557年11月3日 - 1601年12月2日)は、[[ノストラダムス]]と[[アンヌ・ポンサルド]]の間に生まれた三男(第四子)。後半生を修道士として過ごした。  アンドレは1557年11月3日にプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現[[サロン=ド=プロヴァンス]])に生まれた。幼いころのことはよく分かっていないが、1564年にサロンの町に国王[[シャルル9世]]と母后[[カトリーヌ・ド・メディシス]]が立ち寄った際には、ノストラダムスの家族全員が謁見させてもらえたとされるので((Leroy [1993] p.98))、当然、アンドレもそこに居合わせたことだろう。  ノストラダムスが1566年に没した際には、遺言によって、母親や2人の兄とともに家の権利を分有した。遺言が誠実に執行されたのなら、自身が25歳になった際(1582年)に100エキュを受け取るのと引き換えに、家の所有権は失ったはずである((cf. 竹下 [1998] p.133))。  それ以降のアンドレの生涯について現在知られている話は、もっぱら[[ピエール・ジョゼフ・ド・エーツ]]に依拠している。エーツは『ノストラダムスの生涯』(1712年)の時点では、カプチン会修道士としている三男の名前すら「知らない」としていたが((Haitze [1712] pp.155-156))、その後調査を重ねたのか、手稿「アンドレ・ノストラダムスに関する覚書」(執筆時期未詳)を遺している。その信頼性は不明だが、[[エドガール・ルロワ]]、[[ピーター・ラメジャラー]]、[[イアン・ウィルソン]]らも踏襲しているので、ここでもそれに従う。  アンドレは若いころプロヴァンス総督アンリ・ダングレームに従者として仕えていた。しかし、決闘でサロンのコルニヨンと名乗る人物(un Cornillon)を殺めたことから投獄された。獄中において神に祈り、無事出所できたなら一生を信仰にささげると誓った。無事に出所できると、誓約に従い、1587年12月14日に[[サロンのフランシスコ会修道院]]に入り、名をセラファン・ノストラダムス(Séraphin Nostradamus)と改めて、残る生涯を修道会での生活にささげたという((Leroy [1993] p.128))。  確認されている範囲でのアンドレの唯一の作品として、出版されることのなかった手稿『[[アンドレ・ド・ノートルダムの宗教的懺悔>Le repantir spirituel de André de Nostredame]]』が現存している。  1601年12月2日に[[ブリニョール]](Brignoles)にて44歳で歿したとされる。ルロワは、この出典としてポレー師(l'abbé Paulet)著『サン=レミ=ド=プロヴァンス』という文献を挙げる一方で、1597年に兄[[セザール>セザール・ド・ノートルダム]]が作成した遺言書にはアンドレへの言及がないことにも触れている。  またルロワによれば、1630年に作成されたセザールの遺言書では、サロンのフランシスコ会修道院への蔵書の寄贈を表明した際に、そこに弟(un frère)の遺灰が保存されていることに触れているという((Leroy [1993] p.129))。  若くして投獄され、出所後すぐに修道士となったため、妻帯したことは全くなかったようである。子供の存在も確認されていない。 ---- #comment
 &bold(){アンドレ・ド・ノートルダム}(André de Nostredame, 1557年11月3日 - 1601年12月2日)は、[[ノストラダムス]]と[[アンヌ・ポンサルド]]の間に生まれた三男(第四子)。後半生を修道士として過ごした。  アンドレは1557年11月3日にプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現[[サロン=ド=プロヴァンス]])に生まれた。幼いころのことはよく分かっていないが、1564年にサロンの町に国王[[シャルル9世]]と母后[[カトリーヌ・ド・メディシス]]が立ち寄った際には、ノストラダムスの家族全員が謁見させてもらえたとされるので((Leroy [1993] p.98))、当然、アンドレもそこに居合わせたことだろう。  ノストラダムスが1566年に没した際には、遺言によって、母親や2人の兄とともに家の権利を分有した。遺言が誠実に執行されたのなら、自身が25歳になった際(1582年)に100エキュを受け取るのと引き換えに、家の所有権は失ったはずである((cf. 竹下 [1998] p.133))。  それ以降のアンドレの生涯について現在知られている話は、もっぱら[[ピエール・ジョゼフ・ド・エーツ]]に依拠している。  エーツは『ノストラダムスの生涯』(1712年)の時点では、カプチン会修道士としている三男の名前すら「知らない」としていたが((Haitze [1712] pp.155-156))、その後調査を重ねたのか、手稿「アンドレ・ノストラダムスに関する覚書」(執筆時期未詳)を遺している。  その信頼性は不明だが、[[エドガール・ルロワ]]、[[ピーター・ラメジャラー]]、[[イアン・ウィルソン]]らも踏襲しているので、ここでもそれに従う。  アンドレは若いころプロヴァンス総督アンリ・ダングレームに従者として仕えていた。しかし、決闘でサロンのコルニヨンと名乗る人物(un Cornillon)を殺めたことから投獄された。獄中において神に祈り、無事出所できたなら一生を信仰にささげると誓った。無事に出所できると、誓約に従い、1587年12月14日に[[サロンのフランシスコ会修道院]]に入り、名をセラファン・ノストラダムス(Séraphin Nostradamus)と改めて、残る生涯を修道会での生活にささげたという((Leroy [1993] p.128))。  確認されている範囲でのアンドレの唯一の作品として、出版されることのなかった手稿『[[アンドレ・ド・ノートルダムの宗教的懺悔>Le repantir spirituel de André de Nostredame]]』が現存している。  1601年12月2日に[[ブリニョール]](Brignoles)にて44歳で歿したとされる。ルロワは、この出典としてポレー師(l'abbé Paulet)著『サン=レミ=ド=プロヴァンス』という文献を挙げる一方で、1597年に兄[[セザール>セザール・ド・ノートルダム]]が作成した遺言書にはアンドレへの言及がないことにも触れている。  またルロワによれば、1630年に作成されたセザールの遺言書では、サロンのフランシスコ会修道院への蔵書の寄贈を表明した際に、そこに弟(un frère)の遺灰が保存されていることに触れているという((Leroy [1993] p.129))。  若くして投獄され、出所後すぐに修道士となったため、妻帯したことは全くなかったようである。子供の存在も確認されていない。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。

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