ディアーヌ・ド・ノートルダム

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*ディアーヌ・ド・ノートルダム ディアーヌ・ド・ノートルダム(Diane de Nostredame, 1561年 - 1630年以降)は、[[ノストラダムス]]と[[アンヌ・ポンサルド]]の間に生まれた三女(第六子、末子)。ノストラダムスの子供の中で最後に生まれ、おそらく最後に亡くなった。 プロヴァンス州サロン・ド・クロー(現[[サロン=ド=プロヴァンス]])に生まれ、1561年9月8日に洗礼を受けた。1564年10月に国王[[シャルル9世]]と母后[[カトリーヌ・ド・メディシス]]がサロンの町に立ち寄った際には、他の兄姉とともに、一家で謁見を果たした。ただし、このときのディアーヌはようやく3歳になったばかりだったので、本人の記憶には残らなかったであろう。 その後の詳しい生涯は不明だが、気難しい性格で独身を貫いたことは分かっている。 長兄[[セザール>セザール・ド・ノートルダム]]が1630年に作成した遺言書では、セザールの残す物財全ての用益権と200エキュが、当時70歳近かったディアーヌに贈られている((生涯に関する以上の記述は、Leroy [1993] pp.129-130 に多く拠っている。))。 ディアーヌに関する言及はこれが最後であり、以降どの程度生きたのかは不明である。セザールから贈られたはずの財産が最終的にどうなったのかなども当然分からない。 ---- #comment
 &bold(){ディアーヌ・ド・ノートルダム}(Diane de Nostredame, 1561年 - 1630年以降)は、[[ノストラダムス]]と[[アンヌ・ポンサルド]]の間に生まれた三女(第六子、末子)。ノストラダムスの子供の中で最後に生まれ、おそらく最後に亡くなった。  プロヴァンス州サロン・ド・クロー(現[[サロン=ド=プロヴァンス]])に生まれ、1561年9月8日に洗礼を受けた。1564年10月に国王[[シャルル9世]]と母后[[カトリーヌ・ド・メディシス]]がサロンの町に立ち寄った際には、他の兄姉とともに、一家で謁見を果たした。ただし、このときのディアーヌはようやく3歳になったばかりだったので、本人の記憶には残らなかったであろう。  その後の詳しい生涯は不明だが、気難しい性格で独身を貫いたことは分かっている。  長兄[[セザール>セザール・ド・ノートルダム]]が1630年に作成した遺言書では、セザールの残す物財全ての用益権と200エキュが、当時70歳近かったディアーヌに贈られている((生涯に関する以上の記述は、Leroy [1993] pp.129-130 に多く拠っている。))。  ディアーヌに関する言及はこれが最後であり、以降どの程度生きたのかは不明である。セザールから贈られたはずの財産が最終的にどうなったのかなども当然分からない。 ---- #comment

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