マドレーヌ・ド・ノートルダム

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 &bold(){マドレーヌ・ド・ノートルダム}(Madeleine / Magdeleine de Nostredame, 1551年頃 - 1623年)は、[[ノストラダムス]]と[[アンヌ・ポンサルド]]の間に生まれた長女(第一子)。  1551年頃の生まれというのは[[エドガール・ルロワ]]の推測であって、正確な生年は全くわからない。1553年12月に生まれた[[セザール・ド・ノートルダム]]がマドレーヌのことを「姉」(la soeur aînée)と明言していることなどからして、それ以前に生まれていたことは間違いない((Leroy [1993] p.111))。  ノストラダムスは1547年11月に再婚したが、そのすぐ後にイタリアへの小旅行に出掛け、サロンに腰を落ち着けたのは1549年以降のことだったとされる。こうしたことも考慮すれば、ルロワの推測は十分に説得的なものといえるだろう。  マドレーヌの若いときのことはあまり分かっていない。ノストラダムスがマドレーヌに言及しているのではと推測される手紙はある。1565年7月7日付の[[ハンス・ロベット]]宛の手紙がそれである。  その中でノストラダムスは、[[エクス=アン=プロヴァンス]]から帰ってきた自分に、娘が貴方からの手紙を手渡してくれたと語っている。マドレーヌが当時14歳前後と考えられるのに対し、2人の妹はそれぞれ5歳と4歳位で手伝いをするには少々幼いため、ここで言及されている娘がマドレーヌではないかとも考えられるわけだ。  なお、[[イアン・ウィルソン]]はここからさらに推測を進め、当時マドレーヌがノストラダムスの事務的な手伝いをしていた可能性があるとしている((Wilson [2003] p.285))。  ノストラダムスは死が目前に迫った1566年6月に作成した遺言書で、マドレーヌに対し、結婚時の持参金として600エキュを贈ることに決めた。さらに、2週間ほど後の遺言書添え書きでは、指輪、宝石などの宝飾品類も贈ることにした((cf. 竹下 [1998] pp.132-136))。  セザールの証言によれば、マドレーヌは、[[クレール・ド・グリニャン]]の両親が婚約したのと同じ日に、バルバンターヌ(Barbentane)の名士と婚約したという。この名士の名前は不明だが、フィレンツェ出身のショーカン家(la maison des Chauquins)((ルロワの出典であるNostredame [1614] p.345ではシャンカン家(Chanquins)となっている。校訂した結果なのか単なる写し間違いなのかは不明))の一員だったようである((Leroy [1993] p.111))。この婚約が結局どうなったのかはよく分からない。  後にマドレーヌは、ローリとオペードの男爵(baron de Lauris et d’Oppède)であるクロード・ド・ペリュシスと結婚した。結婚した時期は不明だが、この結婚に反対していたクロードの父が亡くなった1577年以降のことだったようである。のちに、一人息子の[[クロード>クロード・ド・ペリュシス]](小)を生んでいる。  マドレーヌは1623年に歿し、4月7日にローリで埋葬された((Leroy [1993] p.112))。 ---- #comment
 &bold(){マドレーヌ・ド・ノートルダム}(Madeleine / Magdeleine de Nostredame, 1551年頃 - 1623年)は、[[ノストラダムス]]と[[アンヌ・ポンサルド]]の間に生まれた長女(第一子)。  1551年頃の生まれというのは[[エドガール・ルロワ]]の推測であって、正確な生年は全くわからない。1553年12月に生まれた[[セザール・ド・ノートルダム]]がマドレーヌのことを「姉」(la soeur aînée)と明言していることなどからして、それ以前に生まれていたことは間違いない((Leroy [1993] p.111))。  ノストラダムスは1547年11月に再婚したが、そのすぐ後にイタリアへの小旅行に出掛け、サロンに腰を落ち着けたのは1549年以降のことだったとされる。こうしたことも考慮すれば、ルロワの推測は十分に説得的なものといえるだろう。  マドレーヌの若いときのことはあまり分かっていない。ノストラダムスがマドレーヌに言及しているのではと推測される手紙はある。1565年7月7日付の[[ハンス・ロベット]]宛の手紙がそれである。  その中でノストラダムスは、[[エクス=アン=プロヴァンス]]から帰ってきた自分に、娘が貴方からの手紙を手渡してくれたと語っている。マドレーヌが当時14歳前後と考えられるのに対し、2人の妹はそれぞれ5歳と4歳位で手伝いをするには少々幼いため、ここで言及されている娘がマドレーヌではないかとも考えられるわけだ。  なお、[[イアン・ウィルソン]]はここからさらに推測を進め、当時マドレーヌがノストラダムスの事務的な手伝いをしていた可能性があるとしている((Wilson [2003] p.285))。  ノストラダムスは死が目前に迫った1566年6月に作成した遺言書で、マドレーヌに対し、結婚時の持参金として600エキュを贈ることに決めた。さらに、2週間ほど後の遺言補足書では、指輪、宝石などの宝飾品類も贈ることにした((cf. 竹下 [1998] pp.132-136))。  セザールの証言によれば、マドレーヌは、[[クレール・ド・グリニャン]]の両親が婚約したのと同じ日に、バルバンターヌ(Barbentane)の名士と婚約したという。この名士の名前は不明だが、フィレンツェ出身のショーカン家(la maison des Chauquins)((ルロワの出典であるNostredame [1614] p.345ではシャンカン家(Chanquins)となっている。校訂した結果なのか単なる写し間違いなのかは不明))の一員だったようである((Leroy [1993] p.111))。この婚約が結局どうなったのかはよく分からない。  後にマドレーヌは、ローリとオペードの男爵(baron de Lauris et d’Oppède)であるクロード・ド・ペリュシスと結婚した。結婚した時期は不明だが、この結婚に反対していたクロードの父が亡くなった1577年以降のことだったようである。のちに、一人息子の[[クロード>クロード・ド・ペリュシス]](小)を生んでいる。  マドレーヌは1623年に歿し、4月7日にローリで埋葬された((Leroy [1993] p.112))。 ---- #comment

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