詩百篇第9巻16番

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[[詩百篇第9巻]]>16番* *原文 De castel Franco&sup(){1} sortira l'assemblee, L'ambassadeur&sup(){2} non plaisant&sup(){3} fera scisme&sup(){4}: Ceux de [[Ribiere]]&sup(){5} seront en la meslee, Et au grand&sup(){6} [[goulphre>gouffre]]&sup(){7} desnier ont&sup(){8} l'entree. **異文 (1) castel Franco : Castel Franco 1627Di 1667Wi 1672Ga 1716PR 1981EB, Castel-Franco 1644Hu 1650Ri (2) L'ambassadeur : L'Ambassadeur 1611B 1627Di 1644Hu 1665Ba 1667Wi 1672Ga 1720To 1840, L'Embassadeur 1716PR (3) plaisant : plaissant 1650Le 1668 (4) scisme : shcisme 1650Ri, schisme 1644Hu 1650Mo 1653AB 1665Ba 1667Wi 1716PR 1720To 1840, Schisme 1672Ga (5) Ribiere : Bibiere 1627Ma 1627Di 1644Hu 1650Ri, Riviere 1672Ga, Ribere 1716PR (6) grand : gand 1611B (7) goulphre : gouffre 1568C 1611B 1981EB, goulfre 1591BR 1597Br 1603Mo 1606PR 1607PR 1610Po 1611A 1627Ma 1650Ri 1650Mo 1716PR(a c), gouphre 1627Di, Goulphre 1672Ga (8) desnier ont 1568A 1568B 1591BR 1597Br 1603Mo 1605sn 1611 1628dR 1649Xa 1649Ca 1650Le 1650Mo 1981EB 1668 : desnieront 1568X 1568C 1590Ro 1653AB 1665Ba 1672Ga 1720To 1772Ri 1840, desnie ont 1606PR 1607PR 1610Po 1716PR, dénié ont 1627Ma, denié ont 1627Di, desnié ont 1644Hu 1650Ri **校訂  castel Franco は、後の時代の異文にあるように Castel(-)Franco とするか、Castelfranco とすべきだろう。  [[goulphre>gouffre]] は現代フランス語の golfe(湾)と見ることが定説化している。1568年版の中には gouffre(淵、裂け目)としている版もあるが、中期フランス語では gouffre に「湾」の意味もあったので((DMF))、実質的には同じことだろう。  desnier ont は1568年版の中でも2種類あるが、単なる誤植である。desnieront と読まないと文法的に意味が通らない。 *日本語訳 カステルフランコから団結した人々が出発し、 気に食わない大使は分裂を引き起こすだろう。 海岸の人々は騒擾の中にあり、 大きな湾に入ることを拒絶するだろう。 **訳について  1930年代以降、信奉者たちはこの詩の1行目を「フランコがカスティーリャ(または城)から」云々と訳すことが多かった。そういう意味では、山根訳も大乗訳も、信奉者側のひとつの訳としては、許容範囲とは言える。実際、[[マリニー・ローズ]]などもそういう訳を支持している((Rose [2002c]))。  ただし、前半律(1行10音綴の四行詩の最初の4音節)は De Castel Franco で切れるので、[[エドガー・レオニ]]、[[ピーター・ラメジャラー]]らのように、そこまでをひとまとまりと見る方がより適切と考えられる。  なお、上の4行目の訳もレオニやラメジャラーに従ったものだが、[[ジャン=ポール・クレベール]]のように au grand と goulphre を分けて、「大物が湾に入るのを拒絶するだろう」とする訳も、(若干 goulphre の位置が不自然に思えるが)存在してはいる。 *信奉者側の見解  [[テオフィル・ド・ガランシエール]]は1行目のカステルフランコをピエモンテの地名、リヴィエールをブルゴーニュの堅牢な城としていたが、具体的な事件とは結びつけていなかった((Garencieres [1672]))。  [[アナトール・ル・ペルチエ]]も解釈していなかったが、用語集の中で、カステルフランコをロンバルディア=ヴェネツィア王国の都市と注記していた((Le Pelletier [1867b]))。  このように1930年代まではほとんど注目されてこなかった詩だが、スペインでフランシスコ・フランコ(Francisco Franco)が頭角を現すようになると、信奉者たちはフランコの出現を見事に言い当てたものだと解釈するようになった。  たとえば、1943年に[[アンドレ・ラモン]]は近未来の予言として、フランコが枢軸国側で参戦し、ビスケー湾の人々が枢軸国側の利用を拒否することを予言していると解釈していた((Lamont [1943] pp.280-281))。  戦後になると実際の史実を踏まえて整合化が図られるようになったが、その解釈を採る論者は、3行目の解釈によって大きく2つに分けることができる。  1つは[[スチュワート・ロッブ]]や、それを踏まえた[[五島勉]]、[[フェニックス・ノア]]のように、Ribiere をリヴィエラと解釈し、戦時中にナチス、イタリア、スペインがリヴィエラで会談したものの、期待するような支持を取り付けられなかったイタリアの大使が不満に思ったことを予言したとする解釈である((ロッブ『オカルト大予言』pp.62-63, 五島『ノストラダムスの大予言』pp.82-85, フェニックス・ノア『神の計画』pp.37-39))。  もう1つは、Ribiere をファランヘ党の創設者プリモ・デ・リベラ((スペイン語では B と V はどちらも [b] で発音するので、一部の関連書に見られる「リヴェラ」という表記は誤り))(Primo de Rivera)と見なし、ファランへ党を大きく発展させ独裁を築いたフランコだけでなく、創設者のプリモ・デ・リベラまでが予言されていたとする解釈である。これは、[[ジェイムズ・レイヴァー]]、[[エリカ・チータム]]、[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]、[[セルジュ・ユタン]]などが採っている((Laver [1952] p.223, Cheetham [1990], Fontbrune [1980/1982], Hutin [1978]))。 *同時代的な視点  [[エドガー・レオニ]]、[[ジャン=ポール・クレベール]]、[[ピーター・ラメジャラー]]らは、いずれもカステルフランコを地名、特にカステルフランコ・ヴェーネトと解釈している。その限りでは、そこから出発する集団のいざこざなどを描写しているように見えるが、史実の中からモデルを摘出することに成功した者はいないようである。  ラメジャラーはカステルフランコ・ヴェーネトがかかわる何らかの騒乱としつつ、これも『[[ミラビリス・リベル]]』の情景がモチーフになっている可能性があることを指摘していた。 ---- #comment
[[詩百篇第9巻]]>16番* *原文 De castel Franco&sup(){1} sortira l'assemblee, L'ambassadeur&sup(){2} non plaisant&sup(){3} fera scisme&sup(){4}: Ceux de [[Ribiere]]&sup(){5} seront en la meslee, Et au grand&sup(){6} [[goulphre>gouffre]]&sup(){7} desnier ont&sup(){8} l'entree. **異文 (1) castel Franco : Castel Franco 1627Di 1667Wi 1672Ga 1716PR 1981EB, Castel-Franco 1644Hu 1650Ri (2) L'ambassadeur : L'Ambassadeur 1611B 1627Di 1644Hu 1665Ba 1667Wi 1672Ga 1720To 1840, L'Embassadeur 1716PR (3) plaisant : plaissant 1650Le 1668 (4) scisme : shcisme 1650Ri, schisme 1644Hu 1650Mo 1653AB 1665Ba 1667Wi 1716PR 1720To 1840, Schisme 1672Ga (5) Ribiere : Bibiere 1627Ma 1627Di 1644Hu 1650Ri, Riviere 1672Ga, Ribere 1716PR (6) grand : gand 1611B (7) goulphre : gouffre 1568C 1611B 1981EB, goulfre 1591BR 1597Br 1603Mo 1606PR 1607PR 1610Po 1611A 1627Ma 1650Ri 1650Mo 1716PR(a c), gouphre 1627Di, Goulphre 1672Ga (8) desnier ont 1568A 1568B 1591BR 1597Br 1603Mo 1605sn 1611 1628dR 1649Xa 1649Ca 1650Le 1650Mo 1981EB 1668 : desnieront 1568X 1568C 1590Ro 1653AB 1665Ba 1672Ga 1720To 1772Ri 1840, desnie ont 1606PR 1607PR 1610Po 1716PR, dénié ont 1627Ma, denié ont 1627Di, desnié ont 1644Hu 1650Ri **校訂  castel Franco は、後の時代の異文にあるように Castel(-)Franco とするか、Castelfranco とすべきだろう。  [[goulphre>gouffre]] は現代フランス語の golfe(湾)と見ることが定説化している。1568年版の中には gouffre(淵、裂け目)としている版もあるが、中期フランス語では gouffre に「湾」の意味もあったので((DMF))、実質的には同じことだろう。  desnier ont は1568年版の中でも2種類あるが、単なる誤植である。desnieront と読まないと文法的に意味が通らない。 *日本語訳 カステルフランコから団結した人々が出発し、 気に食わない大使は分裂を引き起こすだろう。 海岸の人々は騒擾の中にあり、 大きな湾に入ることを拒絶するだろう。 **訳について  1930年代以降、信奉者たちはこの詩の1行目を「フランコがカスティーリャ(または城)から」云々と訳すことが多かった。そういう意味では、山根訳も大乗訳も、信奉者側のひとつの訳としては、許容範囲とは言える。実際、[[マリニー・ローズ]]などもそういう訳を支持している((Rose [2002c]))。  ただし、前半律(1行10音綴の四行詩の最初の4音節)は De Castel Franco で切れるので、[[エドガー・レオニ]]、[[ピーター・ラメジャラー]]らのように、そこまでをひとまとまりと見る方がより適切と考えられる。  なお、上の4行目の訳もレオニやラメジャラーに従ったものだが、[[ジャン=ポール・クレベール]]のように au grand と goulphre を分けて、「大物が湾に入るのを拒絶するだろう」とする訳も、(若干 goulphre の位置が不自然に思えるが)存在してはいる。 *信奉者側の見解  [[テオフィル・ド・ガランシエール]]は1行目のカステルフランコをピエモンテの地名、リヴィエールをブルゴーニュの堅牢な城としていたが、具体的な事件とは結びつけていなかった((Garencieres [1672]))。  [[アナトール・ル・ペルチエ]]も解釈していなかったが、用語集の中で、カステルフランコをロンバルディア=ヴェネツィア王国の都市と注記していた((Le Pelletier [1867b]))。  このように1930年代まではほとんど注目されてこなかった詩だが、スペインでフランシスコ・フランコ(Francisco Franco)が頭角を現すようになると、信奉者たちはフランコの出現を見事に言い当てたものだと解釈するようになった。  たとえば、1943年に[[アンドレ・ラモン]]は近未来の予言として、フランコが枢軸国側で参戦し、ビスケー湾の人々が枢軸国側の利用を拒否することを予言していると解釈していた((Lamont [1943] pp.280-281))。  戦後になると実際の史実を踏まえて整合化が図られるようになったが、その解釈を採る論者は、3行目の解釈によって大きく2つに分けることができる。  1つは[[スチュワート・ロッブ]]や、それを踏まえた[[五島勉]]、[[フェニックス・ノア]]のように、Ribiere をリヴィエラと解釈し、戦時中にナチス、イタリア、スペインがリヴィエラで会談したものの、期待するような支持を取り付けられなかったイタリアの大使が不満に思ったことを予言したとする解釈である((ロッブ『オカルト大予言』pp.62-63, 五島『ノストラダムスの大予言』pp.82-85, フェニックス・ノア『神の計画』pp.37-39))。  もう1つは、Ribiere をファランヘ党の創設者プリモ・デ・リベラ((スペイン語では B と V はどちらも [b] で発音するので、一部の関連書に見られる「リヴェラ」という表記は誤り))(Primo de Rivera)と見なし、ファランへ党を大きく発展させ独裁を築いたフランコだけでなく、創設者のプリモ・デ・リベラまでが予言されていたとする解釈である。これは、[[ジェイムズ・レイヴァー]]、[[エリカ・チータム]]、[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]、[[セルジュ・ユタン]]などが採っている((Laver [1952] p.223, Cheetham [1990], Fontbrune [1980/1982], Hutin [1978]))。 *同時代的な視点  [[エドガー・レオニ]]、[[ジャン=ポール・クレベール]]、[[ピーター・ラメジャラー]]らは、いずれもカステルフランコを地名、特にカステルフランコ・ヴェーネトと解釈している。  その限りでは、そこから出発する集団のいざこざなどを描写しているように見えるが、史実の中からモデルを摘出することに成功した者はいないようである。  ラメジャラーはカステルフランコ・ヴェーネトがかかわる何らかの騒乱としつつ、これも『[[ミラビリス・リベル]]』の情景がモチーフになっている可能性があることを指摘していた。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。

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