詩百篇第10巻40番

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*原文 Le ieune nay&sup(){1} au [[regne]]&sup(){2} Britannique, Qu'aura le pere&sup(){3} mourant recommandé&sup(){4}, [[Iceluy]] mort [[LONOLE]]&sup(){5} donra [[topique]], Et à son fils le regne&sup(){2} demandé&sup(){6}. **異文 (1) nay : né 1590Ro, n'ay 1610 (2) regne : Regne 1672 (3) pere : Pere 1672 (4) recommandé : recommande 1568A (5) LONOLE : Lonole 1590Ro, Londre 1672 (6) demandé : demande 1568A (注記)1672は2箇所ある regne をともに Regne としているので、上ではひとまとめにした。 **校訂  [[LONOLE]] は意味不明で、そのまま読んでアナグラムで解釈する立場のほか、L'oncle(おじ)や Londres(ロンドン)の誤植とする説がある。当「大事典」では L'oncle の誤植とする立場を採る。  なお、「おじ」のような一般的な名詞を全て大文字で書いて強調する必然性があるかについてだが、[[百詩篇第10巻]]にはこのほかにも L'OR(黄金、[[46番>百詩篇第10巻46番]])や LAYE(ライエ川、[[52番>百詩篇第10巻52番]])のように、L で始まる語を強調したものがある。 *日本語訳 ブリタニアの王国に生まれるであろう若者、 それは瀕死の父が推挙した者となる。 その死は伯父(叔父)に月並みな考えを抱かせるだろう。 そしてその息子へと王国が請求される。 **訳について  [[LONOLE]]はいくつかの可能性があるが、ここでは L'Oncle の誤植として訳した。  2行目は、直説法単純未来の複合過去になっている。要するに未来の出来事に変わりはないが、ある未来の時点を基準にしたときに、それよりも前に完了している事柄をさしているということである。日本語で簡潔に訳そうとすると少々ぎこちない訳になってしまう。  3行目の「その死」は「瀕死の王」の死とも、「若者」の死とも解釈することが可能である。  4行目「その息子」の「その」が何を受けているのかは不明である。瀕死の王の息子(つまり「若者」)かもしれないし、「若者」の息子かもしれないし、「おじ」の息子かもしれない。  山根訳2行目「それは死に臨んだ父が彼に委ねた国」((山根 [1988] p.325. 以下この詩の訳は同じページから。))は不適切。「彼に委ねた」の「彼に」に当たる語がない上に、この場合の関係詞はブリタニアではなく若者にかかっていると見るべきであろう。実際、[[エドガー・レオニ]]や[[ジャン=ポール・クレベール]]は、若者にかかると見ている。  同3行目「彼が没すると、ロンドンが彼と論争をはじめるだろう」は、[[LONOLE]] をロンドンと読んだ上での意訳とすれば、許容範囲内かもしれない。レオニの読み方もそれである。  大乗訳は4行目「息子からはなれて王国を求める」((大乗 [1975] p.294))を除けば、おおむね許容範囲内であろうと思われる。 *信奉者側の見解  [[テオフィル・ド・ガランシエール]](1672年)は、当時王位にあったチャールズ2世(在位1660 - 1685年)の予言とした。  チャールズ2世は父王から後継者の地位を約束されていたが、父が処刑されたピューリタン革命の際に亡命した。その後、1660年にブレダ宣言を発してイングランド王位を請求し、王政復古を実現した。  なお、ガランシエールは上の異文欄にあるように、LONOLE を Londre(Londres, ロンドン)と書き換えている。  このピューリタン革命とする解釈は、その後さらに改良され、LONOLE をクロムウェルに結びつけることが行われた。  [[アナトール・ル・ペルチエ]]は、[[アンリ・トルネ=シャヴィニー]]の解釈を引き継ぎ、LONOLE を Olleon とアナグラムしてギリシャ語の Olluon と結びつけ、「破壊する者」と理解した。そして、ジェイムズ1世の死後、イングランド国民を弁舌で扇動したクロムウェルが(3行目)、ジェイムズの息子チャールズ1世からイングランドを奪い取ったこと(4行目)を読み取った((Le Pelletier [1867a] pp.138-139, Le Pelletier [1867b] p.336))。  [[チャールズ・ウォード]]もほぼ同じ解釈を展開したが、LONOLE を Ole Nol とアナグラムし、それはイギリス俗語で Old Noll(ノル翁)を意味するとした。ノルはオリヴァーにつけられるあだ名のひとつであり、そこからより直接的にオリヴァー・クロムウェルが導けるとしたのである((Ward [1891] p.170))。  ウォードの読み方は、[[アンドレ・ラモン]]、[[ロルフ・ボズウェル]]、[[ジェイムズ・レイヴァー]]、[[セルジュ・ユタン]]らが引き継いだ((Lamont [1943] pp.112-113, Boswell [1943] p.80, Laver [1952] pp.118-120, Hutin [1978]))。  20世紀半ば以降、[[LONOLE]] を単にロンドンの誤記として、ジョージ5世の後にエドワード8世(在位1936年)が即位したものの、シンプソン夫人との結婚問題で世論の反発を受け、11ヶ月で退位に追い込まれ弟に譲位したことを指すと解釈する者たちが現れた。この解釈を採ったのは、[[ヘンリー・C・ロバーツ]]、[[エリカ・チータム]]、[[ジョン・ホーグ]]などである((Roberts [1949], Cheetham [1990], Hogue [1997/1999]))。  全く別系統の解釈としては、ウィリアム・ピット(小ピット)のフランス革命に対する強硬姿勢を予言したものとする[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]の解釈がある。  彼は、1行目の le jeune を Pitt le jeune(小ピット)と解釈した。また、LONOLE をヴァンデ地方の地名オロヌ(Ollone / Olonne)のアナグラムとし、3行目をヴァンデ戦争に対するイギリスの支援の描写とした((Fontbrune [1980/1982]))。 *同時代的な視点  この詩について歴史的なモチーフを最初に指摘したのは、『メルキュール・ド・フランス』掲載の匿名記事である(1724年)。そこでは、若き王はエドワード6世(在位1547年-1553年)とされている。  彼は9歳で即位したが、父ヘンリー8世が死を前に遺言していた集団的な後見役体制については、摂政として国政を壟断しようとした母方の伯父サマーセット公エドワード・シーモアによって無視された。このシーモアが失脚した後に後見役についたのがノーザンバーランド公ジョン・ダドリーであった。彼は息子の妻に迎えたジェーン・グレイを次の王位につけるべく画策した。  確かに詩の情景はこうした史実にある程度当てはまっている。ノストラダムスにとっても同時代のイングランドの動向は十分に関心の対象であったろう。  この解釈は[[ルイ・シュロッセ]]や[[ジャン=ポール・クレベール]]も支持しており、クレベールはさらに、この解釈が[[一つ前の詩>百詩篇第10巻39番]]にも関わりがあるのではないかとしている((Schlosser [1986] pp.178-179, Clébert [2003]))。  [[ピーター・ラメジャラー]]は、フロワサールの年代記に見られる、イングランド王エドワード1世と2世に関する描写と関連付けている((Lemesurier [2003b]))。  [[ジェイムズ・レイヴァー]]はこの詩の特定性の高さを主張したが、実際にイギリス史を丹念に調べてみれば、類似の事例は意外と出てくるのかもしれない。そのどれが正しいのかを特定することは、LONOLE の曖昧さや3、4行目の指示代名詞の曖昧さからして、おそらく不可能だろう。 ---- #comment
[[詩百篇第10巻]]>40番* *原文 Le ieune nay&sup(){1} au [[regne]]&sup(){2} Britannique, Qu'aura le pere&sup(){3} mourant recommandé&sup(){4}, [[Iceluy]] mort [[LONOLE]]&sup(){5} donra [[topique]], Et à son fils le regne&sup(){2} demandé&sup(){6}. **異文 (1) nay : né 1590Ro, n'ay 1606PR 1607PR (2) regne : Regne 1672Ga (3) pere : Pere 1672Ga (4) recommandé : recommande 1568X (5) LONOLE : Lonole 1590Ro, LONOLF 1591BR, Londre 1672Ga (6) demandé : demande 1568X (注記)1672Gaは2箇所ある regne をともに Regne としているので、上ではひとまとめにした。 **校訂  [[LONOLE]] は意味不明で、そのまま読んでアナグラムで解釈する立場のほか、L'oncle(おじ)や Londres(ロンドン)の誤植とする説がある。当「大事典」では L'oncle の誤植とする立場を採る。  なお、「おじ」のような一般的な名詞を全て大文字で書いて強調する必然性があるかについてだが、[[百詩篇第10巻]]にはこのほかにも L'OR(黄金、[[46番>百詩篇第10巻46番]])や LAYE(ライエ川、[[52番>百詩篇第10巻52番]])のように、L で始まる語を強調したものがある。 *日本語訳 ブリタニアの王国に生まれるであろう若者、 それは瀕死の父が推挙した者となる。 その死は伯父(叔父)に月並みな考えを抱かせるだろう。 そしてその息子へと王国が請求される。 **訳について  [[LONOLE]]はいくつかの可能性があるが、ここでは L'Oncle の誤植として訳した。  2行目は、直説法単純未来の複合過去になっている。要するに未来の出来事に変わりはないが、ある未来の時点を基準にしたときに、それよりも前に完了している事柄をさしているということである。日本語で簡潔に訳そうとすると少々ぎこちない訳になってしまう。  3行目の「その死」は「瀕死の王」の死とも、「若者」の死とも解釈することが可能である。  4行目「その息子」の「その」が何を受けているのかは不明である。瀕死の王の息子(つまり「若者」)かもしれないし、「若者」の息子かもしれないし、「おじ」の息子かもしれない。  山根訳2行目「それは死に臨んだ父が彼に委ねた国」((山根 [1988] p.325. 以下この詩の訳は同じページから。))は不適切。「彼に委ねた」の「彼に」に当たる語がない上に、この場合の関係詞はブリタニアではなく若者にかかっていると見るべきであろう。実際、[[エドガー・レオニ]]や[[ジャン=ポール・クレベール]]は、若者にかかると見ている。  同3行目「彼が没すると、ロンドンが彼と論争をはじめるだろう」は、[[LONOLE]] をロンドンと読んだ上での意訳とすれば、許容範囲内かもしれない。レオニの読み方もそれである。  大乗訳は4行目「息子からはなれて王国を求める」((大乗 [1975] p.294))を除けば、おおむね許容範囲内であろうと思われる。 *信奉者側の見解  [[テオフィル・ド・ガランシエール]](1672年)は、当時王位にあったチャールズ2世(在位1660 - 1685年)の予言とした。  チャールズ2世は父王から後継者の地位を約束されていたが、父が処刑されたピューリタン革命の際に亡命した。その後、1660年にブレダ宣言を発してイングランド王位を請求し、王政復古を実現した。  なお、ガランシエールは上の異文欄にあるように、LONOLE を Londre(Londres, ロンドン)と書き換えている。  このピューリタン革命とする解釈は、その後さらに改良され、LONOLE をクロムウェルに結びつけることが行われた。  [[アナトール・ル・ペルチエ]]は、[[アンリ・トルネ=シャヴィニー]]の解釈を引き継ぎ、LONOLE を Olleon とアナグラムしてギリシャ語の Olluon と結びつけ、「破壊する者」と理解した。そして、ジェイムズ1世の死後、イングランド国民を弁舌で扇動したクロムウェルが(3行目)、ジェイムズの息子チャールズ1世からイングランドを奪い取ったこと(4行目)を読み取った((Le Pelletier [1867a] pp.138-139, Le Pelletier [1867b] p.336))。  [[チャールズ・ウォード]]もほぼ同じ解釈を展開したが、LONOLE を Ole Nol とアナグラムし、それはイギリス俗語で Old Noll(ノル翁)を意味するとした。ノルはオリヴァーにつけられるあだ名のひとつであり、そこからより直接的にオリヴァー・クロムウェルが導けるとしたのである((Ward [1891] p.170))。  ウォードの読み方は、[[アンドレ・ラモン]]、[[ロルフ・ボズウェル]]、[[ジェイムズ・レイヴァー]]、[[セルジュ・ユタン]]らが引き継いだ((Lamont [1943] pp.112-113, Boswell [1943] p.80, Laver [1952] pp.118-120, Hutin [1978]))。  20世紀半ば以降、[[LONOLE]] を単にロンドンの誤記として、ジョージ5世の後にエドワード8世(在位1936年)が即位したものの、シンプソン夫人との結婚問題で世論の反発を受け、11ヶ月で退位に追い込まれ弟に譲位したことを指すと解釈する者たちが現れた。この解釈を採ったのは、[[ヘンリー・C・ロバーツ]]、[[エリカ・チータム]]、[[ジョン・ホーグ]]などである((Roberts [1949], Cheetham [1990], Hogue [1997/1999]))。  全く別系統の解釈としては、ウィリアム・ピット(小ピット)のフランス革命に対する強硬姿勢を予言したものとする[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]の解釈がある。  彼は、1行目の le jeune を Pitt le jeune(小ピット)と解釈した。また、LONOLE をヴァンデ地方の地名オロヌ(Ollone / Olonne)のアナグラムとし、3行目をヴァンデ戦争に対するイギリスの支援の描写とした((Fontbrune [1980/1982]))。 *同時代的な視点  この詩について歴史的なモチーフを最初に指摘したのは、『メルキュール・ド・フランス』掲載の匿名記事である(1724年)。そこでは、若き王はエドワード6世(在位1547年-1553年)とされている。  彼は9歳で即位したが、父ヘンリー8世が死を前に遺言していた集団的な後見役体制については、摂政として国政を壟断しようとした母方の伯父サマーセット公エドワード・シーモアによって無視された。このシーモアが失脚した後に後見役についたのがノーザンバーランド公ジョン・ダドリーであった。彼は息子の妻に迎えたジェーン・グレイを次の王位につけるべく画策した。  確かに詩の情景はこうした史実にある程度当てはまっている。ノストラダムスにとっても同時代のイングランドの動向は十分に関心の対象であったろう。  この解釈は[[ルイ・シュロッセ]]や[[ジャン=ポール・クレベール]]も支持しており、クレベールはさらに、この解釈が[[一つ前の詩>百詩篇第10巻39番]]にも関わりがあるのではないかとしている((Schlosser [1986] pp.178-179, Clébert [2003]))。  [[ピーター・ラメジャラー]]は、フロワサールの年代記に見られる、イングランド王エドワード1世と2世に関する描写と関連付けている((Lemesurier [2003b]))。  [[ジェイムズ・レイヴァー]]はこの詩の特定性の高さを主張したが、実際にイギリス史を丹念に調べてみれば、類似の事例は意外と出てくるのかもしれない。そのどれが正しいのかを特定することは、LONOLE の曖昧さや3、4行目の指示代名詞の曖昧さからして、おそらく不可能だろう。 ---- #comment

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