ノストラダムスの予言絵画

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 &bold(){ノストラダムスの予言絵画}は、1982年にローマの国立中央図書館で発見された80枚ないし82枚の水彩画からなる文書の通称である。正式名は『息子セザールに宛てた未来のキリストの代理者に関するミシェル・ノストラダムスの予言』(Vaticinia Michaelis Nostradami de Futuri Christi Vicarii ad Cesarem Filium)、海外では略して『ノストラダムスの予言』(Vaticinia Nostradami)とも呼ばれるが、日本語訳したときに紛らわしいので、当「大事典」では「予言絵画」としておく。  タイトルは手書きだが元々あったものではないらしく、[[オッタービオ・チェーザレ・ラモッティ]]によれば、奥付とは筆跡が異なり、1689年以降に書き加えられたものだという((Ramotti [2002] p.3))。  センセーショナルに「失われた予言書」((『週刊世界百不思議』no.16, 2009年))、「新たに発見された書」((日本テレビ系列「[[緊急警告!!2012年人類破滅!?ノストラダムス最後の大予言SP>http://www.ntv.co.jp/program/detail/122229041.html]]」2009年12月22日放送))などと持て囃す向きも一部には見られるが、2016年8月時点では実証主義的な論者からはほとんど無視されているに等しい。これは都合が悪いので黙殺しているといったことではなく、ノストラダムス本人と結び付けるべき根拠に乏しいためであろう。  実際、例外的に言及している[[ピーター・ラメジャラー]]は偽作と一蹴していた((Lemesurier [2010]))。 *発見  ウィキペディア英語版には、1982年にイタリア人ジャーナリストのエンツァ・マッサ(Enza Massa)と[[ロベルト・ピノッティ]]がローマの国立中央図書館で発見したとある((ウィキペディア英語版による。))。  ただし、[[オッタービオ・チェーザレ・ラモッティ]]の著書では、1994年に図書館員が発見したことになっている((Ramotti [2002]))。  蔵書番号は、「ヴィットーリオ・エマヌエーレ文庫307番」(Fondo Vittorio Emanuele 307)である。  図書館には1888年にピヴォリという人物が持ち込んだという記録があるという((『週刊世界百不思議』no.16, p.15))。 *来歴  カルトゥジオ修道会の図書館員による写本の後書きに拠れば、この写本はキヌス・ベロアルドゥスという修道士が、枢機卿マッフェオ・バルベリーニ(後の教皇ウルバヌス8世、在位1623年 - 1644年)に献上したものである。添え書きは更に、絵画群がノストラダムスの手になるもので、息子の[[セザール・ド・ノートルダム]]によって献上品として[[ローマ]]に持ち込まれたことを仄めかしているという((Ramotti [2002]))。  絵画は80枚だが、のちに2枚加えられたという。[[オッタービオ・チェーザレ・ラモッティ]]は、絵画の中にはノストラダムスが創作の源泉とした彼以前の時代のものも含まれているが、大半はノストラダムス自筆の水彩画だと主張している。  また、ラモッティは絵画それぞれに対応する予言詩が添えられているとも述べており、彼の著書では各詩の解説が行われている。  これらはウルバヌス8世から後のローマ教皇を表現しているという。 *説明に対する懐疑的検討 **ノストラダムスが描いたのか  まず来歴が大いに疑わしい。  ノストラダムス自身やその周辺の断片的な言及によって、彼の失われた作品を想定する実証的な論者はいる。例えば、秘書[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]の証言をもとに『[[プロヴァンスにおける宗教戦争初期の歴史]]』の草稿が存在した可能性を推測した[[エドガール・ルロワ]]((Leroy [1993]pp.146-147))、ノストラダムス自身のささいな言及を手がかりに、彼自筆の「[[百詩篇集]]」解釈書の草稿が存在していた可能性を示した[[ピエール・ブランダムール]]などである((Brind'Amour [1993] p.255))。  しかし、彼らですら、ノストラダムスの手になる予言絵画の存在などには一切言及していなかった。ノストラダムスの往復書簡を復刻し、考察を加えた[[ジャン・デュペーブ]]にしてもそうである。  信奉者の側には、ノストラダムスは指示を出しただけで、実際の描き手は画家でもあった息子のセザールとする説もある(((北周一郎「予言の謎を解く3つの鍵」(『ムー』1999年8月号、p.16)))。しかし、セザールによって、[[ニコラ=クロード・ファブリ・ド・ペーレスク]]に送られた手紙も現存しており、そこでは画家でもあったセザール自身のミニアチュール作品についてであるとか、国王ルイ13世に献上する予定の小冊子のことなどが語られているが、予言絵画との関連を窺わせるようないかなる言及も見出しえない((Ruzo [1997] p.332))。セザールの手紙は、写しも含めてほかにもいくつも伝わっており、中にはセザール自身や兄弟の生没年を特定する上で大きく貢献した書簡などもあるが、いずれでも、この水彩画集には触れられていない。  また、セザールのタッチはかなり細密なものであることが専門家によって指摘されているが、水彩画のタッチはかなり雑である。  また、テレビ番組『緊急警告!!2012年人類破滅!?ノストラダムス最後の大予言SP』(日本テレビ、2009年12月22日放送)では、ライオネル・リモセンというノストラダムスの知人の画家が描いたとしていたが、根拠は不明である。ラモッティの著書ではこの人物への言及はない。また、[[エドガール・ルロワ]]、[[イアン・ウィルソン]]らの実証的な伝記の中で、リモセンという画家に触れたものは見当たらない。  さらに、枢機卿時代のウルバヌス8世に献上された予言が、ちょうどウルバヌス8世が教皇になることから始まっているというのもできすぎだろう。  ウルバヌス8世はいわゆる「ガリレオ裁判」の当事者である。無能な権力者によって学問が迫害されることを嘆く詩をいくつも書いたノストラダムスが、ウルバヌス8世におもねる必然性が感じられない。 **対応する予言詩は真実か  次にラモッティの説明が奇妙である。  ラモッティは絵そのものを複写しているものの、ページ全体の写真は紹介していない。しかし、『週刊世界百不思議』では2ページ分だけだが、ページ全体のレイアウトが分かる写真が掲載されている。それを見る限りではページにあるのは水彩画だけで、四行詩は見られない。この点は、ラモッティが虚偽の説明をしているのではないかという疑いにつながる。  逆に(別ページに一括して詩が掲載されるなどしていて)ラモッティが真実を述べているのなら、それ自体が、この水彩画集が16世紀末以降に捏造されたものであることを物語っている。それは以下の理由によるものである。 -ラモッティは対応する詩の1つとして[[百詩篇第7巻43番>百詩篇第7巻43番ter]]を引用している。しかし、この詩の初登場はどんなに早くとも1610年代のことである。韻律も大きく崩れており、本物と見なしうる根拠に乏しい。 -彼は[[六行詩>この世紀のいずれかの年のための驚くべき予言]]も1篇引用している。しかし、六行詩は1600年代初頭に登場した偽作の疑いが極めて強い代物である。しかも、ラモッティはそれを第11巻として紹介しているが、その位置づけは1611年版『予言集』が勝手にやったことである。 -彼はまた[[予兆詩集]]からも6篇引用しているが、予兆詩は1555年から1567年の年数が添えられたその年向けの予言なので、17世紀以降のローマ教皇と関連付けるのは無理がありすぎる。秘書シャヴィニーは予兆詩の適用範囲を「100年ほど」(つまり17世紀半ばまで)と勝手に拡大したが、ラモッティの解釈はこの時期設定からさえも逸脱しており、話にならない。 -また、ラモッティの引用している予兆詩は、どれもシャヴィニーの書き換えを踏まえたもので、オリジナルの予兆詩とは明らかに乖離した異文を含んでいる。シャヴィニーの書き換え版が世に出回ったのは、ノストラダムスの死後30年近くたってからのことである。 **『全ての教皇に関する預言』との一致  さらに根本的な点として、デザインの問題がある。  予言絵画には『[[全ての教皇に関する預言]]』の単なる模写でしかない絵画が少なからず含まれている。この点は、[[エルマー・グルーバー]]も研究グループのメーリングリストで指摘したことがあるらしいが、その類似性は誰の目にも明らかである。いくつか例示しておこう。  以下で主に比較の対象とするのは、(1)『教皇預言書』の古写本(大英図書館に残るアルンデル写本)、(2)ノストラダムスの予言絵画、(3)『教皇預言書』の印刷版(ヴェネツィア、1589年)である。アルンデル写本や予言絵画は本来カラーだが、デザインの比較が行えれば差し支えないため、モノクロで引用する(なお、『教皇預言書』の図版名はエレーヌ・ミレのものを使わせていただいた)。これ以外の図版を引用する際には、そのように断っている。 #ref(pl05.JPG) 【左】『教皇預言書』第14図「神の手」((Millet [2004] p.26)) 【中央】ノストラダムスの予言絵画第17図(ラモッティによる模写)((ラモッティ [1999] p.49)) 【右】『教皇預言書』印刷版((リーヴス [2006]図E-4))  ラモッティはクレメンス14世(在位1769年 - 1774年)の予言とし、フランス革命勃発前夜の緊迫した状況の予言とした((ラモッティ [1999] pp.48&50))。  『教皇預言書』第14図との類似は明らかで、とくに雲間から差し出された手の存在からして、写本よりも印刷版に近い。  もともとは『禿頭よ登れ』の最後から2番目に位置づけられた絵画であり、作成者は未来に属するものと位置づけていた。『教皇預言書』ではグレゴリウス11世(在位1370年 - 1378年)を指すものとして再定義された。 #ref(pl01.JPG) 【左】『教皇預言書』第15図「恐るべき獣」((Millet [2004] p.27)) 【中央】ノストラダムスの予言絵画第18図((ラモッティ [1999] p.3)) 【右】『教皇預言書』印刷版((リーヴス [2006]図E-5))  ラモッティはこの怪物をピウス6世(在位1775年 - 1799年)と捉え、「怪物」はフランス革命の支持者から見たイメージとした((ラモッティ [1999] pp.50-52))。  しかし、明らかに『教皇預言書』第15図「恐るべき獣」とほぼ同じである。それも、円月刀のような飾りのある写本より、帽子をかぶっている印刷版に近い。  元々『禿頭よ登れ』全15枚の最後を飾っていた[[反キリスト]]の図像であり((リーヴス [2006] p.266))、『教皇預言書』においては既に過去になっていたウルバヌス6世(在位1378年 - 1389年)を指すものとして、強引に再定義された((Millet [2004] p.27))。彼の在位期間中に教会大分裂が起こったことを象徴的に示したなどとして解釈されることがあるらしい((リーヴス [2006]図E-5))。 #ref(pl07.JPG) 【左】『教皇預言書』第19図「三本の円柱」((Millet [2004] p.31)) 【中央】ノストラダムスの予言絵画第23図((ラモッティ [1999] p.4)) 【右】『教皇預言書』ドゥース写本「水入れの中の頭」((Reeves [1999] VI p.111))  ラモッティは二人の胸像を王と聖職者と捉え、右端の手がもっているものをギロチンと解釈した。これによって、王族や聖職者たちが次々と処刑されたフランス革命が予言されていたというわけである((ラモッティ [1999] p.56))。  しかし、この図は『教皇預言書』第19図「三本の円柱」と同じものである。ルーツになった『諸悪の端緒』ではニコラウス4世(在位1288年 - 1292年)の予言として描かれていた図で、『教皇預言書』では対立教皇アレクサンデル5世(在位1409年 - 1410年)に当てはめられていた。いずれの場合でも、発表された時点で、既に過去に属すると受け止められていた絵画である。  なお、この図はもともと一人の人物が水入れに入っている図柄だったらしく、半月状の刃は、水入れの上部についていた弧状の物体が変形したものらしい((Reeves [1999] VI p.112))。 #ref(pl04.JPG) 【左】『教皇預言書』第20図「鎌を持つ修道士」((Millet [2004] p.32)) 【中央】ノストラダムスの予言絵画第24図(ラモッティによる模写)((ラモッティ [1999] p.52)) 【右】『教皇預言書』印刷版((リーヴス [2006] 図E-7))  ラモッティはこれを、フランス革命後に脆弱な権威しか保てなかったピウス7世を予言したものと解釈し、左側に見える図柄は小さな山と見て、ピウス7世の紋章の一部を示していると主張した ((ラモッティ [1999] p.52))。  しかし、この図柄は『教皇預言書』第20図「鎌を持つ修道士」とほぼ同じである。切断された足の角度などからすれば、予言絵画のものは印刷版に近いといえるが、左右の配置が逆になっている。  『禿頭よ登れ』では、隠者から教皇になったケレスティヌス5世を指していた図柄である ((リーヴス [2006] p.510))。ラモッティが小山と理解したものは普通、横倒しになったB と読まれている。ただし、足とBについての正確な意味は不明である。この鎌とバラを持った人物は『レオの神託』にまで遡るが、その時点では足とB は存在しない。『教皇預言書』でも古い写本には足とB が見られない((Reeves [1999] VI pp.113&115))。  ちなみにこの図版は、ノストラダムスの時代には、マルティン・ルターを予言したものと持て囃されていたため、『教皇預言書』の中では特に有名な図版といえる((リーヴス [2006] 図 E-7))。 #ref(pl11.JPG) 【左】『教皇預言書』第23図「二つの軍の都市」((Millet [2004] p.33)) 【中央】予言絵画第3図および第27図(ラモッティによる模写)((ラモッティ [1999] p.63)) 【右】『教皇預言書』印刷版((リーヴス [2006] 図E-8))  ラモッティは、イタリア統一運動の中でローマから追放されたピウス9世がフランス軍に守られながら再入市を果たしたことの予言と解釈した((ラモッティ [1999] pp.62&64))。 しかし、『教皇預言書』第23図との類似性は明らかで、特に人物に力点が置かれているアルンデル写本よりも、突き上げられた槍の数々が印象的な印刷版の方と、いっそう共通している。入口から伸びる道にも一致が見られる。  もともとこの図版は、オルシーニ家出身の教皇が立ったあとに、ローマに下る神の裁きの様子を描いたものだったという((リーヴス [2006] p.510))。  それは、ラモッティがイタリア統一運動と関連付けているもうひとつの「都市」の予言絵画についても同様である。 #ref(pl03.JPG) 【左】『教皇預言書』第25図「差し延べられた手の町」((Millet [2004] p.34)) 【中央】予言絵画第4図および第29図((ラモッティ [1999] p.5)) 【右】『教皇預言書』印刷版((リーヴス [2006] 図E-9))  ラモッティは、ここに描かれている城塞をローマと解釈し、イタリア統一に際して教皇ピウス9世が篭城したのに対し、イタリア軍が力ずくで迫ったことを予言しているとした((ラモッティ [1999] p.71))。  しかし、『教皇預言書』第25図との一致は明らかで、教会を思わせる建物が描かれた写本よりも、城門のような建物が描かれた印刷版と強い一致を示している。また、手の向きや並び、入口の道の向きについても同じことが言えるだろう。  この絵に添えられた文章には「7つの丘の町」という言葉があるので((Millet [2004] p.211))、ローマと解釈すること自体は妥当である。しかし、本来は前出のローマへの裁きに続く光景を描いたもので、[[天使教皇]]出現に先立つ光景と位置付けられていた((リーヴス [2006] p.510))。  ところで、『教皇預言書』における都市の図版は、より古い写本における「空白の玉座」(とリーヴスが呼んでいる図版)を差し替えたものである。この「空白の玉座」というモチーフは、『レオの神託』以来のモチーフでもある。これは、ラモッティが「主を欠いた冠」として紹介している予言絵画とおおまかなモチーフが近いようにみえないこともない。 #ref(pl12.JPG) 【左】『教皇預言書』ドゥース写本の「空白の玉座」((Reeves [1999]VI, p.112)) 【中央】ノストラダムスの予言絵画第11図および第51図(ラモッティによる模写)((ラモッティ [1999] p.117)) 【右】『教皇預言書』第10図「天の六つ星」((Millet [2004] p.22))  ラモッティはこれをヨハネ・パウロ2世狙撃事件(1981年)と関連付けたが、見ての通り、しかるべき場所に貴人がいないというモチーフは古くから存在していた。  ただし、この予言絵画が「空白の玉座」に触発されたものかは判断が難しい。もし仮にこれを参照していたのだとすれば、予言絵画の作者は、都市が描かれた写本と空白の玉座が描かれていた写本を両方参照して作成したことになる。その場合、前出の「三本の円柱」で古い「水入れの中の頭」を参照していないらしいこととは矛盾する。  あるいはただ単に『教皇預言書』第10図に存在している宙に浮いた冠に触発されて単独の絵画にしただけなのかもしれない。 #ref(pl02.JPG) 【左】『教皇預言書』第26図「裸の教皇」((Millet [2004] p.36)) 【中央】ノストラダムスの予言絵画第5図および第30図((ラモッティ [1999] p.6)) 【右】『教皇預言書』印刷版((リーヴス [2006] 図E-10))  ラモッティは、ローマ教皇が裸で表現されることによって、イタリア統一の結果、教皇ピウス9世が世俗の権力を喪失した様が的確に予言されていたと解釈した((ラモッティ [1999] pp.69-74))。  しかし、これは明らかに『教皇預言書』第26図と同じ構図である。なお、ここでは印刷版よりも写本の図柄と強い類似性を示している。少なくとも、印刷版に見られる鎖は予言絵画に見られない。  さて、この裸体図は本来否定的な意味ではなく、清貧さを端的に表したものにすぎない。これは作成された時点では未来に属しており、天使教皇の図像の1つであった((リーヴス [2006] p.511))。 #ref(pl13.PNG) 【左】『教皇預言書』第29図「威厳ある教皇」((Millet [2004] p.41)) 【中央】予言絵画第33図(ラモッティによる模写)((ラモッティ [1999] p.78. 本文中で触れる解釈も同じページ。)) 【右】『教皇預言書』印刷版((リーヴス [2006] 図E-13))  ラモッティは列聖されたローマ教皇ピウス10世(在位1903年 - 1914年)の敬虔さを予言したものと解釈した。  しかし、これは『教皇預言書』第29図とほぼ一致している。これはもともと天使教皇を表す図像の一つだった。しかし、歴史上対応することになったのは、買収によって教皇の座を手に入れたボルジア家のアレクサンデル6世(在位1492年 - 1503年)であった。  なお、天使は本来男性的に描かれるのが常であった。縮小した関係で分かりづらいかもしれないが、『教皇預言書』は手稿、印刷版とも天使が男性的に描かれている。これに対し、予言絵画の天使は女性的に描かれているように見える。 #ref(pl06.JPG) 【左】『教皇預言書』第30図「秣を食む獣」((Millet [2004] p.42)) 【中央】ノストラダムスの予言絵画第34図(ラモッティによる模写)((ラモッティ [1999] p.81)) 【右】『教皇預言書』印刷版((リーヴス [2006] 図E-14))  ラモッティは、獣をドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、それに対して冠を脱いで降伏しているのが教皇ベネディクトゥス15世とし、第一次世界大戦勃発(1914年)に際して、教皇が無力であったことの予言とした。  この図は明らかに『教皇預言書』第30図「秣を食む獣」と一致する。角が開き気味に描かれ、剃髪されていないあたりは、写本よりも印刷版に近い。  さて、『教皇預言書』を締めくくるこの最後の図に出てくる獣は、全く正反対に解釈されてきた。それは神の小羊(イエス)と見る説と反キリストと見る説である。もともと獣と教皇が描かれた図柄は2種類あったらしいが、後でひとつに統合された。統合されたときに何が想定されていたのかは今ひとつ分からないようである((Reeves [1999] VI p.114))。 #ref(pl10.JPG) 【左】ノストラダムスの予言絵画第35図((ラモッティ [1999] p.7)) 【右】『教皇預言書』印刷版((リーヴス [2006] 図E-15))  運命の歯車を表す図柄とするラモッティは、ヒトラーとムッソリーニが運命の歯車を回そうとするが、うまく行かないことを示していると解釈した((ラモッティ [1999] pp.80-83))。のちには、輪の中に都市が描かれ、その下に飛翔体が2つ見られることから、911のアメリカ同時多発テロを予言したものと解釈しているようである((『週刊世界百不思議』no.16, 2009))。  これは車輪の周りに様々な図柄が配置されているという意味では、『教皇預言書』印刷版に掲載されている図版に似たモチーフといえないこともない。ただし、この図版は本来の『教皇預言書』とは何も関係がないもので、印刷版で追加されたものに過ぎない。  以上、仮に予言絵画が本物だったとしても、『教皇預言書』の丸写しを多く含んでいることは明らかである。特にノストラダムスの死から20年以上後に出版された印刷版と近いという事実は、ノストラダムス自身が模写した可能性にも疑問を投げかける(ただし『教皇預言書』は現存する写本だけで70を超えるので、ある程度の類似性だけで結論付けることはできない)。  煩雑になるので省いたが、ほかにも『教皇預言書』第18図、第28図とほぼ一致するもの、第4図、第13図と少し似ているものなどを指摘することが可能である。  その多くは中世の教皇についての予言として、事後的に的中したと受け止められていた。  なぜそれをノストラダムスがただ単に模写しただけで、全く別の出来事を鮮やかに予言していたという話になるのだろうか。この事実は、解釈がかなり恣意的なものに過ぎないことを意味している。  それとも関連して、『教皇預言書』と予言絵画とで決定的に異なる点がある。それは「順番」と「テクストの存在」である。『教皇預言書』は絵とテクストが一体となっているため、絵の読み取りはテクストに沿ったものとならざるを得ない。もちろんテクスト自体が曖昧なので、解釈に幅が出るのは当然だが、歴代ローマ教皇の順に予言されているという束縛も存在するため、ある程度しぼりこめるようになっている。  ところが予言絵画の方はテクストが存在せず(あるいは存在するとしても関連性が不鮮明な四行詩や六行詩に過ぎず)、順番も恣意的に並べ替えて解釈されているので、どんな読み方も可能になってしまう。  万一、これが本物の予言絵画だとして、解釈者の読み方が正しいなどとどのようにして証明できるというのだろうか。  予言絵画には『教皇預言書』に含まれていない図柄も確かにいくつもあるが、以上見てきたように何の拘束も持たない図柄は恣意的に解釈するほかはないので、確定的な解釈は不可能だろう。  なお、『教皇預言書』に含まれない図柄が全てオリジナルなのかはよく分からない。16世紀から17世紀は、『エンブレマタ』を嚆矢として様々なエンブレム・ブック(寓意画集)が出版されていた時期でもある。そういった本の寓意画から借用された可能性も考慮に入れるべきだろう。  また、以下のように古いタロットの図像から借用されたらしい絵画も含まれている。 #ref(pl14.PNG) 【左】予言絵画第15図および第46図((ラモッティ [1999] p.14)) 【右】いわゆる『シャルル6世のタロット』(15世紀頃)の「塔」のカード((画像の出典:[[http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Maison-Dieu_tarot_charles6.jpg]]))(モノクロにすると火が分かりづらくなるので、この図のみカラーで引用)  第15図および第46図に描かれた燃える塔の図は、かつてラモッティが湾岸戦争時のイラクの油井火災と解釈していたものだが、2001年以降、911の世界貿易センタービルの惨状を予言したものと、主張を変えたようである((『週刊世界百不思議』no.16, 2009))。  しかし、あのツインタワーとこの絵の塔の形はあまり似ていない。むしろ、上にあるように『シャルル6世のタロット』の図柄と、塔から火が出ているという点で似ている。図柄としては特段珍しいものではなかったといえるだろう。  日付の指定もないのだから、第15図は単に「いつかどこかで何らかの高層建築物が火事になる」ことしか言っていない。果たしてこれが予言として意味を持つだろうか。おそらく今後も何か大きな建築物が火災やテロに遭って大ニュースになるたびに、その絵が引き合いに出されることだろう。  2012年を予言したとされるザリガニなどが描かれている図柄にしても、2012年を導く解釈は論者によってまちまちである。『週刊世界百不思議』では1992年から2012年に月食がくり返し起こる中で日食が三度起こることから、2012年を導き出した。  これに対し、ジェイ・ウィドナーは三日月3つは太陽に関する天体現象を表しており、皆既日食、金環食、金星の日面通過が同じ年に起こるという珍しい出来事が2012年にあることを指しているとした((前掲『緊急警告!!2012年人類破滅!?ノストラダムス最後の大予言SP』))。  また、ラモッティのようにフォトン・ベルトと関連付ける論者もいる((ラモッティ [1999] pp.266-268))。  こうした解釈のばらつきは、解釈の結果として2012年を導き出したというよりも、結論ありきでそこへ至る解釈を練っているかのような印象を与えるものだろう。 *参考文献 -[[オッタービオ・チェーザレ・ラモッティ]]著 北周一郎 ダリオ・オルシーニ 共訳 [1999]『[[ノストラダムス新世紀予言]]』学習研究社 -Ottavio Cesare Ramotti [2002], &italic(){[[Nostradamus : The lost manuscript>The Nostradamus Code]]}, Destiny Books #amazon(0892819154) 【画像】&italic(){Nostradamus : The lost manuscript} 表紙 -[[マージョリ・リーヴス]]著 [[大橋喜之]]訳[2006]『中世の預言とその影響』八坂書房 #amazon(4896948815) 【画像】『中世の預言とその影響』カバー表紙 -Hélène Millet [2004], &italic(){Les successeurs du pape aux ours : histoire d'un livre prophétique médiéval illustré}, Brepols -Marjorie Reeves, “Some Popular Prophecies from the fourteenth to the seventeenth centuries”(&italic(){The Prophetic Sense of History in Medieval and Renaissance Europe}, 1999, VI) #amazon(B000YKI4MC) 【画像】Lost Book of Nostradamus (The History Channel)[DVD][Import] ---- #comment
 &bold(){ノストラダムスの予言絵画}は、1982年にローマの国立中央図書館で発見された80枚ないし82枚の水彩画からなる文書の通称である。正式名は『息子セザールに宛てた未来のキリストの代理者に関するミシェル・ノストラダムスの予言』(Vaticinia Michaelis Nostradami de Futuri Christi Vicarii ad Cesarem Filium)、海外では略して『ノストラダムスの予言』(Vaticinia Nostradami)とも呼ばれるが、日本語訳したときに紛らわしいので、当「大事典」では「予言絵画」としておく。  タイトルは手書きだが元々あったものではないらしく、[[オッタービオ・チェーザレ・ラモッティ]]によれば、奥付とは筆跡が異なり、1689年以降に書き加えられたものだという((Ramotti [2002] p.3))。  センセーショナルに「失われた予言書」((『週刊世界百不思議』no.16, 2009年))、「新たに発見された書」((日本テレビ系列「[[緊急警告!!2012年人類破滅!?ノストラダムス最後の大予言SP>http://www.ntv.co.jp/program/detail/122229041.html]]」2009年12月22日放送))などと持て囃す向きも一部には見られるが、実証主義的な論者からはほとんど無視されているに等しい。これは都合が悪いので黙殺しているといったことではなく、ノストラダムス本人と結び付けるべき根拠に乏しいためであろう。  実際、例外的に言及している[[ピーター・ラメジャラー]]は偽作と一蹴していた((Lemesurier [2010]))。 *発見  ウィキペディア英語版には、1982年にイタリア人ジャーナリストのエンツァ・マッサ(Enza Massa)と[[ロベルト・ピノッティ]]がローマの国立中央図書館で発見したとある((ウィキペディア英語版による。))。  ただし、[[オッタービオ・チェーザレ・ラモッティ]]の著書では、1994年に図書館員が発見したことになっている((Ramotti [2002]))。  蔵書番号は、「ヴィットーリオ・エマヌエーレ文庫307番」(Fondo Vittorio Emanuele 307)である。  図書館には1888年にピヴォリという人物が持ち込んだという記録があるという((『週刊世界百不思議』no.16, p.15))。 *来歴  カルトゥジオ修道会の図書館員による写本の後書きに拠れば、この写本はキヌス・ベロアルドゥスという修道士が、枢機卿マッフェオ・バルベリーニ(後の教皇ウルバヌス8世、在位1623年 - 1644年)に献上したものである。添え書きは更に、絵画群がノストラダムスの手になるもので、息子の[[セザール・ド・ノートルダム]]によって献上品として[[ローマ]]に持ち込まれたことを仄めかしているという((Ramotti [2002]))。  絵画は80枚だが、のちに2枚加えられたという。[[オッタービオ・チェーザレ・ラモッティ]]は、絵画の中にはノストラダムスが創作の源泉とした彼以前の時代のものも含まれているが、大半はノストラダムス自筆の水彩画だと主張している。  また、ラモッティは絵画それぞれに対応する予言詩が添えられているとも述べており、彼の著書では各詩の解説が行われている。  これらはウルバヌス8世から後のローマ教皇を表現しているという。 *説明に対する懐疑的検討 **ノストラダムスが描いたのか  まず来歴が大いに疑わしい。  ノストラダムス自身やその周辺の断片的な言及によって、彼の失われた作品を想定する実証的な論者はいる。例えば、秘書[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]の証言をもとに『[[プロヴァンスにおける宗教戦争初期の歴史]]』の草稿が存在した可能性を推測した[[エドガール・ルロワ]]((Leroy [1993]pp.146-147))、ノストラダムス自身のささいな言及を手がかりに、彼自筆の「[[百詩篇集]]」解釈書の草稿が存在していた可能性を示した[[ピエール・ブランダムール]]などである((Brind'Amour [1993] p.255))。  しかし、彼らですら、ノストラダムスの手になる予言絵画の存在などには一切言及していなかった。ノストラダムスの往復書簡を復刻し、考察を加えた[[ジャン・デュペーブ]]にしてもそうである。  信奉者の側には、ノストラダムスは指示を出しただけで、実際の描き手は画家でもあった息子のセザールとする説もある(((北周一郎「予言の謎を解く3つの鍵」(『ムー』1999年8月号、p.16)))。しかし、セザールによって、[[ニコラ=クロード・ファブリ・ド・ペーレスク]]に送られた手紙も現存しており、そこでは画家でもあったセザール自身のミニアチュール作品についてであるとか、国王ルイ13世に献上する予定の小冊子のことなどが語られているが、予言絵画との関連を窺わせるようないかなる言及も見出しえない((Ruzo [1997] p.332))。セザールの手紙は、写しも含めてほかにもいくつも伝わっており、中にはセザール自身や兄弟の生没年を特定する上で大きく貢献した書簡などもあるが、いずれでも、この水彩画集には触れられていない。  また、セザールのタッチはかなり細密なものであることが専門家によって指摘されているが、水彩画のタッチはかなり雑である。  また、テレビ番組『緊急警告!!2012年人類破滅!?ノストラダムス最後の大予言SP』(日本テレビ、2009年12月22日放送)では、ライオネル・リモセンというノストラダムスの知人の画家が描いたとしていたが、根拠は不明である。ラモッティの著書ではこの人物への言及はない。また、[[エドガール・ルロワ]]、[[イアン・ウィルソン]]らの実証的な伝記の中で、リモセンという画家に触れたものは見当たらない。  さらに、枢機卿時代のウルバヌス8世に献上された予言が、ちょうどウルバヌス8世が教皇になることから始まっているというのもできすぎだろう。  ウルバヌス8世はいわゆる「ガリレオ裁判」の当事者である。無能な権力者によって学問が迫害されることを嘆く詩をいくつも書いたノストラダムスが、ウルバヌス8世におもねる必然性が感じられない。 **対応する予言詩は真実か  次にラモッティの説明が奇妙である。  ラモッティは絵そのものを複写しているものの、ページ全体の写真は紹介していない。しかし、『週刊世界百不思議』では2ページ分だけだが、ページ全体のレイアウトが分かる写真が掲載されている。それを見る限りではページにあるのは水彩画だけで、四行詩は見られない。この点は、ラモッティが虚偽の説明をしているのではないかという疑いにつながる。  逆に(別ページに一括して詩が掲載されるなどしていて)ラモッティが真実を述べているのなら、それ自体が、この水彩画集が16世紀末以降に捏造されたものであることを物語っている。それは以下の理由によるものである。 -ラモッティは対応する詩の1つとして[[百詩篇第7巻43番>百詩篇第7巻43番ter]]を引用している。しかし、この詩の初登場はどんなに早くとも1610年代のことである。韻律も大きく崩れており、本物と見なしうる根拠に乏しい。 -彼は[[六行詩>この世紀のいずれかの年のための驚くべき予言]]も1篇引用している。しかし、六行詩は1600年代初頭に登場した偽作の疑いが極めて強い代物である。しかも、ラモッティはそれを第11巻として紹介しているが、その位置づけは1611年版『予言集』が勝手にやったことである。 -彼はまた[[予兆詩集]]からも6篇引用しているが、予兆詩は1555年から1567年の年数が添えられたその年向けの予言なので、17世紀以降のローマ教皇と関連付けるのは無理がありすぎる。秘書シャヴィニーは予兆詩の適用範囲を「100年ほど」(つまり17世紀半ばまで)と勝手に拡大したが、ラモッティの解釈はこの時期設定からさえも逸脱しており、話にならない。 -また、ラモッティの引用している予兆詩は、どれもシャヴィニーの書き換えを踏まえたもので、オリジナルの予兆詩とは明らかに乖離した異文を含んでいる。シャヴィニーの書き換え版が世に出回ったのは、ノストラダムスの死後30年近くたってからのことである。 **『全ての教皇に関する預言』との一致  さらに根本的な点として、デザインの問題がある。  予言絵画には『[[全ての教皇に関する預言]]』の単なる模写でしかない絵画が少なからず含まれている。この点は、[[エルマー・グルーバー]]も研究グループのメーリングリストで指摘したことがあるらしいが、その類似性は誰の目にも明らかである。いくつか例示しておこう。  以下で主に比較の対象とするのは、(1)『教皇預言書』の古写本(大英図書館に残るアルンデル写本)、(2)ノストラダムスの予言絵画、(3)『教皇預言書』の印刷版(ヴェネツィア、1589年)である。アルンデル写本や予言絵画は本来カラーだが、デザインの比較が行えれば差し支えないため、モノクロで引用する(なお、『教皇預言書』の図版名はエレーヌ・ミレのものを使わせていただいた)。これ以外の図版を引用する際には、そのように断っている。 #ref(pl05.JPG) 【左】『教皇預言書』第14図「神の手」((Millet [2004] p.26)) 【中央】ノストラダムスの予言絵画第17図(ラモッティによる模写)((ラモッティ [1999] p.49)) 【右】『教皇預言書』印刷版((リーヴス [2006]図E-4))  ラモッティはクレメンス14世(在位1769年 - 1774年)の予言とし、フランス革命勃発前夜の緊迫した状況の予言とした((ラモッティ [1999] pp.48&50))。  『教皇預言書』第14図との類似は明らかで、とくに雲間から差し出された手の存在からして、写本よりも印刷版に近い。  もともとは『禿頭よ登れ』の最後から2番目に位置づけられた絵画であり、作成者は未来に属するものと位置づけていた。『教皇預言書』ではグレゴリウス11世(在位1370年 - 1378年)を指すものとして再定義された。 #ref(pl01.JPG) 【左】『教皇預言書』第15図「恐るべき獣」((Millet [2004] p.27)) 【中央】ノストラダムスの予言絵画第18図((ラモッティ [1999] p.3)) 【右】『教皇預言書』印刷版((リーヴス [2006]図E-5))  ラモッティはこの怪物をピウス6世(在位1775年 - 1799年)と捉え、「怪物」はフランス革命の支持者から見たイメージとした((ラモッティ [1999] pp.50-52))。  しかし、明らかに『教皇預言書』第15図「恐るべき獣」とほぼ同じである。それも、円月刀のような飾りのある写本より、帽子をかぶっている印刷版に近い。  元々『禿頭よ登れ』全15枚の最後を飾っていた[[反キリスト]]の図像であり((リーヴス [2006] p.266))、『教皇預言書』においては既に過去になっていたウルバヌス6世(在位1378年 - 1389年)を指すものとして、強引に再定義された((Millet [2004] p.27))。彼の在位期間中に教会大分裂が起こったことを象徴的に示したなどとして解釈されることがあるらしい((リーヴス [2006]図E-5))。 #ref(pl07.JPG) 【左】『教皇預言書』第19図「三本の円柱」((Millet [2004] p.31)) 【中央】ノストラダムスの予言絵画第23図((ラモッティ [1999] p.4)) 【右】『教皇預言書』ドゥース写本「水入れの中の頭」((Reeves [1999] VI p.111))  ラモッティは二人の胸像を王と聖職者と捉え、右端の手がもっているものをギロチンと解釈した。これによって、王族や聖職者たちが次々と処刑されたフランス革命が予言されていたというわけである((ラモッティ [1999] p.56))。  しかし、この図は『教皇預言書』第19図「三本の円柱」と同じものである。ルーツになった『諸悪の端緒』ではニコラウス4世(在位1288年 - 1292年)の予言として描かれていた図で、『教皇預言書』では対立教皇アレクサンデル5世(在位1409年 - 1410年)に当てはめられていた。いずれの場合でも、発表された時点で、既に過去に属すると受け止められていた絵画である。  なお、この図はもともと一人の人物が水入れに入っている図柄だったらしく、半月状の刃は、水入れの上部についていた弧状の物体が変形したものらしい((Reeves [1999] VI p.112))。 #ref(pl04.JPG) 【左】『教皇預言書』第20図「鎌を持つ修道士」((Millet [2004] p.32)) 【中央】ノストラダムスの予言絵画第24図(ラモッティによる模写)((ラモッティ [1999] p.52)) 【右】『教皇預言書』印刷版((リーヴス [2006] 図E-7))  ラモッティはこれを、フランス革命後に脆弱な権威しか保てなかったピウス7世を予言したものと解釈し、左側に見える図柄は小さな山と見て、ピウス7世の紋章の一部を示していると主張した ((ラモッティ [1999] p.52))。  しかし、この図柄は『教皇預言書』第20図「鎌を持つ修道士」とほぼ同じである。切断された足の角度などからすれば、予言絵画のものは印刷版に近いといえるが、左右の配置が逆になっている。  『禿頭よ登れ』では、隠者から教皇になったケレスティヌス5世を指していた図柄である ((リーヴス [2006] p.510))。ラモッティが小山と理解したものは普通、横倒しになったB と読まれている。ただし、足とBについての正確な意味は不明である。この鎌とバラを持った人物は『レオの神託』にまで遡るが、その時点では足とB は存在しない。『教皇預言書』でも古い写本には足とB が見られない((Reeves [1999] VI pp.113&115))。  ちなみにこの図版は、ノストラダムスの時代には、マルティン・ルターを予言したものと持て囃されていたため、『教皇預言書』の中では特に有名な図版といえる((リーヴス [2006] 図 E-7))。 #ref(pl11.JPG) 【左】『教皇預言書』第23図「二つの軍の都市」((Millet [2004] p.33)) 【中央】予言絵画第3図および第27図(ラモッティによる模写)((ラモッティ [1999] p.63)) 【右】『教皇預言書』印刷版((リーヴス [2006] 図E-8))  ラモッティは、イタリア統一運動の中でローマから追放されたピウス9世がフランス軍に守られながら再入市を果たしたことの予言と解釈した((ラモッティ [1999] pp.62&64))。 しかし、『教皇預言書』第23図との類似性は明らかで、特に人物に力点が置かれているアルンデル写本よりも、突き上げられた槍の数々が印象的な印刷版の方と、いっそう共通している。入口から伸びる道にも一致が見られる。  もともとこの図版は、オルシーニ家出身の教皇が立ったあとに、ローマに下る神の裁きの様子を描いたものだったという((リーヴス [2006] p.510))。  それは、ラモッティがイタリア統一運動と関連付けているもうひとつの「都市」の予言絵画についても同様である。 #ref(pl03.JPG) 【左】『教皇預言書』第25図「差し延べられた手の町」((Millet [2004] p.34)) 【中央】予言絵画第4図および第29図((ラモッティ [1999] p.5)) 【右】『教皇預言書』印刷版((リーヴス [2006] 図E-9))  ラモッティは、ここに描かれている城塞をローマと解釈し、イタリア統一に際して教皇ピウス9世が篭城したのに対し、イタリア軍が力ずくで迫ったことを予言しているとした((ラモッティ [1999] p.71))。  しかし、『教皇預言書』第25図との一致は明らかで、教会を思わせる建物が描かれた写本よりも、城門のような建物が描かれた印刷版と強い一致を示している。また、手の向きや並び、入口の道の向きについても同じことが言えるだろう。  この絵に添えられた文章には「7つの丘の町」という言葉があるので((Millet [2004] p.211))、ローマと解釈すること自体は妥当である。しかし、本来は前出のローマへの裁きに続く光景を描いたもので、[[天使教皇]]出現に先立つ光景と位置付けられていた((リーヴス [2006] p.510))。  ところで、『教皇預言書』における都市の図版は、より古い写本における「空白の玉座」(とリーヴスが呼んでいる図版)を差し替えたものである。この「空白の玉座」というモチーフは、『レオの神託』以来のモチーフでもある。これは、ラモッティが「主を欠いた冠」として紹介している予言絵画とおおまかなモチーフが近いようにみえないこともない。 #ref(pl12.JPG) 【左】『教皇預言書』ドゥース写本の「空白の玉座」((Reeves [1999]VI, p.112)) 【中央】ノストラダムスの予言絵画第11図および第51図(ラモッティによる模写)((ラモッティ [1999] p.117)) 【右】『教皇預言書』第10図「天の六つ星」((Millet [2004] p.22))  ラモッティはこれをヨハネ・パウロ2世狙撃事件(1981年)と関連付けたが、見ての通り、しかるべき場所に貴人がいないというモチーフは古くから存在していた。  ただし、この予言絵画が「空白の玉座」に触発されたものかは判断が難しい。もし仮にこれを参照していたのだとすれば、予言絵画の作者は、都市が描かれた写本と空白の玉座が描かれていた写本を両方参照して作成したことになる。その場合、前出の「三本の円柱」で古い「水入れの中の頭」を参照していないらしいこととは矛盾する。  あるいはただ単に『教皇預言書』第10図に存在している宙に浮いた冠に触発されて単独の絵画にしただけなのかもしれない。 #ref(pl02.JPG) 【左】『教皇預言書』第26図「裸の教皇」((Millet [2004] p.36)) 【中央】ノストラダムスの予言絵画第5図および第30図((ラモッティ [1999] p.6)) 【右】『教皇預言書』印刷版((リーヴス [2006] 図E-10))  ラモッティは、ローマ教皇が裸で表現されることによって、イタリア統一の結果、教皇ピウス9世が世俗の権力を喪失した様が的確に予言されていたと解釈した((ラモッティ [1999] pp.69-74))。  しかし、これは明らかに『教皇預言書』第26図と同じ構図である。なお、ここでは印刷版よりも写本の図柄と強い類似性を示している。少なくとも、印刷版に見られる鎖は予言絵画に見られない。  さて、この裸体図は本来否定的な意味ではなく、清貧さを端的に表したものにすぎない。これは作成された時点では未来に属しており、天使教皇の図像の1つであった((リーヴス [2006] p.511))。 #ref(pl13.PNG) 【左】『教皇預言書』第29図「威厳ある教皇」((Millet [2004] p.41)) 【中央】予言絵画第33図(ラモッティによる模写)((ラモッティ [1999] p.78. 本文中で触れる解釈も同じページ。)) 【右】『教皇預言書』印刷版((リーヴス [2006] 図E-13))  ラモッティは列聖されたローマ教皇ピウス10世(在位1903年 - 1914年)の敬虔さを予言したものと解釈した。  しかし、これは『教皇預言書』第29図とほぼ一致している。これはもともと天使教皇を表す図像の一つだった。しかし、歴史上対応することになったのは、買収によって教皇の座を手に入れたボルジア家のアレクサンデル6世(在位1492年 - 1503年)であった。  なお、天使は本来男性的に描かれるのが常であった。縮小した関係で分かりづらいかもしれないが、『教皇預言書』は手稿、印刷版とも天使が男性的に描かれている。これに対し、予言絵画の天使は女性的に描かれているように見える。 #ref(pl06.JPG) 【左】『教皇預言書』第30図「秣を食む獣」((Millet [2004] p.42)) 【中央】ノストラダムスの予言絵画第34図(ラモッティによる模写)((ラモッティ [1999] p.81)) 【右】『教皇預言書』印刷版((リーヴス [2006] 図E-14))  ラモッティは、獣をドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、それに対して冠を脱いで降伏しているのが教皇ベネディクトゥス15世とし、第一次世界大戦勃発(1914年)に際して、教皇が無力であったことの予言とした。  この図は明らかに『教皇預言書』第30図「秣を食む獣」と一致する。角が開き気味に描かれ、剃髪されていないあたりは、写本よりも印刷版に近い。  さて、『教皇預言書』を締めくくるこの最後の図に出てくる獣は、全く正反対に解釈されてきた。それは神の小羊(イエス)と見る説と反キリストと見る説である。もともと獣と教皇が描かれた図柄は2種類あったらしいが、後でひとつに統合された。統合されたときに何が想定されていたのかは今ひとつ分からないようである((Reeves [1999] VI p.114))。 #ref(pl10.JPG) 【左】ノストラダムスの予言絵画第35図((ラモッティ [1999] p.7)) 【右】『教皇預言書』印刷版((リーヴス [2006] 図E-15))  運命の歯車を表す図柄とするラモッティは、ヒトラーとムッソリーニが運命の歯車を回そうとするが、うまく行かないことを示していると解釈した((ラモッティ [1999] pp.80-83))。のちには、輪の中に都市が描かれ、その下に飛翔体が2つ見られることから、911のアメリカ同時多発テロを予言したものと解釈しているようである((『週刊世界百不思議』no.16, 2009))。  これは車輪の周りに様々な図柄が配置されているという意味では、『教皇預言書』印刷版に掲載されている図版に似たモチーフといえないこともない。ただし、この図版は本来の『教皇預言書』とは何も関係がないもので、印刷版で追加されたものに過ぎない。  以上、仮に予言絵画が本物だったとしても、『教皇預言書』の丸写しを多く含んでいることは明らかである。特にノストラダムスの死から20年以上後に出版された印刷版と近いという事実は、ノストラダムス自身が模写した可能性にも疑問を投げかける(ただし『教皇預言書』は現存する写本だけで70を超えるので、ある程度の類似性だけで結論付けることはできない)。  煩雑になるので省いたが、ほかにも『教皇預言書』第18図、第28図とほぼ一致するもの、第4図、第13図と少し似ているものなどを指摘することが可能である。  その多くは中世の教皇についての予言として、事後的に的中したと受け止められていた。  なぜそれをノストラダムスがただ単に模写しただけで、全く別の出来事を鮮やかに予言していたという話になるのだろうか。この事実は、解釈がかなり恣意的なものに過ぎないことを意味している。  それとも関連して、『教皇預言書』と予言絵画とで決定的に異なる点がある。それは「順番」と「テクストの存在」である。『教皇預言書』は絵とテクストが一体となっているため、絵の読み取りはテクストに沿ったものとならざるを得ない。もちろんテクスト自体が曖昧なので、解釈に幅が出るのは当然だが、歴代ローマ教皇の順に予言されているという束縛も存在するため、ある程度しぼりこめるようになっている。  ところが予言絵画の方はテクストが存在せず(あるいは存在するとしても関連性が不鮮明な四行詩や六行詩に過ぎず)、順番も恣意的に並べ替えて解釈されているので、どんな読み方も可能になってしまう。  万一、これが本物の予言絵画だとして、解釈者の読み方が正しいなどとどのようにして証明できるというのだろうか。  予言絵画には『教皇預言書』に含まれていない図柄も確かにいくつもあるが、以上見てきたように何の拘束も持たない図柄は恣意的に解釈するほかはないので、確定的な解釈は不可能だろう。  なお、『教皇預言書』に含まれない図柄が全てオリジナルなのかはよく分からない。16世紀から17世紀は、『エンブレマタ』を嚆矢として様々なエンブレム・ブック(寓意画集)が出版されていた時期でもある。そういった本の寓意画から借用された可能性も考慮に入れるべきだろう。  また、以下のように古いタロットの図像から借用されたらしい絵画も含まれている。 #ref(pl14.PNG) 【左】予言絵画第15図および第46図((ラモッティ [1999] p.14)) 【右】いわゆる『シャルル6世のタロット』(15世紀頃)の「塔」のカード((画像の出典:[[http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Maison-Dieu_tarot_charles6.jpg]]))(モノクロにすると火が分かりづらくなるので、この図のみカラーで引用)  第15図および第46図に描かれた燃える塔の図は、かつてラモッティが湾岸戦争時のイラクの油井火災と解釈していたものだが、2001年以降、911の世界貿易センタービルの惨状を予言したものと、主張を変えたようである((『週刊世界百不思議』no.16, 2009))。  しかし、あのツインタワーとこの絵の塔の形はあまり似ていない。むしろ、上にあるように『シャルル6世のタロット』の図柄と、塔から火が出ているという点で似ている。図柄としては特段珍しいものではなかったといえるだろう。  日付の指定もないのだから、第15図は単に「いつかどこかで何らかの高層建築物が火事になる」ことしか言っていない。果たしてこれが予言として意味を持つだろうか。おそらく今後も何か大きな建築物が火災やテロに遭って大ニュースになるたびに、その絵が引き合いに出されることだろう。  2012年を予言したとされるザリガニなどが描かれている図柄にしても、2012年を導く解釈は論者によってまちまちである。『週刊世界百不思議』では1992年から2012年に月食がくり返し起こる中で日食が三度起こることから、2012年を導き出した。  これに対し、ジェイ・ウィドナーは三日月3つは太陽に関する天体現象を表しており、皆既日食、金環食、金星の日面通過が同じ年に起こるという珍しい出来事が2012年にあることを指しているとした((前掲『緊急警告!!2012年人類破滅!?ノストラダムス最後の大予言SP』))。  また、ラモッティのようにフォトン・ベルトと関連付ける論者もいる((ラモッティ [1999] pp.266-268))。  こうした解釈のばらつきは、解釈の結果として2012年を導き出したというよりも、結論ありきでそこへ至る解釈を練っているかのような印象を与えるものだろう。 *参考文献 -[[オッタービオ・チェーザレ・ラモッティ]]著 北周一郎 ダリオ・オルシーニ 共訳 [1999]『[[ノストラダムス新世紀予言]]』学習研究社 -Ottavio Cesare Ramotti [2002], &italic(){[[Nostradamus : The lost manuscript>The Nostradamus Code]]}, Destiny Books #amazon(0892819154) 【画像】&italic(){Nostradamus : The lost manuscript} 表紙 -[[マージョリ・リーヴス]]著 [[大橋喜之]]訳[2006]『中世の預言とその影響』八坂書房 #amazon(4896948815) 【画像】『中世の預言とその影響』カバー表紙 -Hélène Millet [2004], &italic(){Les successeurs du pape aux ours : histoire d'un livre prophétique médiéval illustré}, Brepols -Marjorie Reeves, “Some Popular Prophecies from the fourteenth to the seventeenth centuries”(&italic(){The Prophetic Sense of History in Medieval and Renaissance Europe}, 1999, VI) #amazon(B000YKI4MC) 【画像】Lost Book of Nostradamus (The History Channel)[DVD][Import] ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。

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