詩百篇第9巻18番

「詩百篇第9巻18番」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

詩百篇第9巻18番」(2020/02/09 (日) 01:28:36) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

[[詩百篇第9巻]]>18番* *原文 Le lys&sup(){1} [[Dauffois]] portera dans Nansy&sup(){2} Iusques en Flandres&sup(){3} electeur&sup(){4} de l'empire&sup(){5}, Neufue [[obturee]] au grand Montmorency, Hors&sup(){6} lieux [[prouez>prouver]]&sup(){7} deliure&sup(){8} à clere peyne&sup(){9}. **異文 (1) lys : Lys 1672Ga 1716PR (2) Nansy / Nansi : Nancy 1603Mo 1611B 1644Hu 1650Mo 1981EB 1672Ga (3) Flandres : Flandre 1653AB 1665Ba 1720To 1840, Flanders 1672Ga (4) electeur : Electeur 1605sn 1628dR 1644Hu 1649Xa 1649Ca 1650Le 1667Wi 1668 1672Ga 1840 (5) l'empire 1568 1627Di : lempire 1590Ro, l'Empire &italic(){T.A.Eds.} (6) Hors : Hort 1716PRb (7) lieux prouez 1568 1590Ro 1605sn 1628dR 1649Xa 1649Ca 1653AB 1772Ri 1840 : lieux prouuez 1591BR 1597Br 1603Mo 1606PR 1607PR 1610Po 1611 1644Hu 1650Ri 1650Le 1650Mo 1981EB 1668 1716PR, lieux preuuez 1627Ma 1627Di, lieux 1665Ba 1720To, lieux pronez 1672Ga (8) deliure : de liure 1590Ro, delivré 1667Wi (9) clere peyne : Clerpegne 1667Wi, Clerepeine 1840 **校訂  ナンシーの綴りは Nancy が正しいが、この程度は綴りの揺れの範囲だろう。 *日本語訳 王太子の百合がナンシーで持つだろう、 [[フランドル]]に至るまで、帝国の選帝侯を。 偉大なモンモランシーには新しい監獄。 許可された場所の外で、明瞭な罰で解放する。 **訳について  山根訳はおおむね許容範囲内。ただ、4行目「クレーペインに引き渡された異例の場所で」は、Clere peine を固有名詞的に読むのなら「クレルペーヌ」とすべきだろう。  大乗訳は問題が多い。特にひどい点として、2行目「帝国の皇帝たるフランドルにかぎり」((大乗訳 [1975] p.262))で、選帝侯(Electeur)と皇帝(Empéreur)を取り違えている点だけ指摘しておく。 *信奉者側の見解  日本ではほとんど知られていないに等しいが、海外では1630年代のフランスの状況を詳しく言い当てた鮮やかな的中例として非常に有名なものである。  前半2行は三十年戦争へのフランスの参戦を描いたものとされる。  「王太子の百合」とは、ノストラダムスの死後では初めて王太子の称号に「ドーファン」(Dauphin)を名乗ったルイ13世を指し、「百合」は当然ブルボン家の紋章と解釈される。彼は懸案となっていたロレーヌ公領の帰属問題を解決するため、1633年に自ら赴き主都ナンシーを攻略した。  また、1632年にはトリーア選帝侯国を保護下におき、選帝侯フォン・ゼテルンの権威を再確立したが、その選帝侯自身は翌年にはスペイン軍の侵攻によってフランドル地方のブリュッセルに移送され、幽閉された。この保護領下での動向を建前として、1635年にフランスはスペインに宣戦布告した((以上、信奉者側の解釈と史実の整合に当たって、菊池良生『戦うハプスブルク家』(講談社現代新書、1995年)、柴田・樺山・福井『世界歴史大系・フランス史2』山川出版社、1996年を参照した。))。  後半2行はモンモランシー処刑に関する予言である。  反リシュリュー側の王弟ガストンと一脈通じていた地方総督アンリ・ド・モンモランシーは、1632年6月にラングドックで叛乱を起こしたが、あえなく鎮圧された。彼はトゥールーズに新しく作られた市庁舎の牢獄(「新しい監獄」)に拘禁されたうえ、通常処刑には用いられていなかった市庁舎の庭(「許可された場所の外」)で、斬首刑(「有名な罰」)に処せられた。[[1656年の解釈書>Eclaircissement des veritables Quatrains de Maistre Michel Nostradamus]]によれば、その時の首斬り役人の名は、クレルペーヌ(Clerepeyne)であり、4行目の「明瞭な罰」(Clere peyne)との言葉遊びになるという。  [[1656年の解釈書>Eclaircissement des veritables Quatrains de Maistre Michel Nostradamus]]で提示されて以来、[[テオフィル・ド・ガランシエール]](1672年)、[[ジャック・ド・ジャン]](1673年)、[[ジャン・ル・ルー]](1710年)、[[ウジェーヌ・バレスト]](1840年)、[[アナトール・ル・ペルチエ]](1867年)、[[チャールズ・ウォード]](1891年)、[[アンドレ・ラモン]](1943年)、[[ジェイムズ・レイヴァー]](1952年)、[[スチュワート・ロッブ]](1961年)、[[アレクサンダー・チェントゥリオ]](1977年)、[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]](1980年)、[[ジョン・ホーグ]](1997年)らをはじめとする多くの論者が支持している((Garencieres [1672], Jant [1673] p.12, Bareste [1840] pp.498-499, Le Pelletier [1867a] pp. 113-114, Ward [1891] pp.142-145, Lamont [1943] p.87, Robb [1961] pp.13-15, Centurio [1977] pp.143-144, Fontbrune [1980/1982], Hogue[1997/1999], レイヴァー [1999] p. 156-157))。  日本ではチータムとレイヴァーの訳書の中で見られるものの、日本人の解釈者で扱った者は見当たらない。なお、チータムとレイヴァーの訳書は、どちらにも複数の誤訳があり、この解釈に関する歴史的背景が適切につかめない。 **懐疑的な視点  この詩については、[[エドガー・レオニ]]が徹底的に反論している((Leoni [1961] ))。それを下敷きにして疑問点を列挙すると以下の通り。  まず1行目は、ノストラダムスの死後では確かに初めてだったが、彼がまさにこの詩を執筆していたと推察されるころ(1550年代後半)、王太子フランソワもドーファンを名乗っていた。  また、仮にこれが未来のドーファンを意味しているのだとしても、それが意味するところは「王太子」であって、1610年に正式に王になっていたルイ13世にはあてはまらない。  2行目について。トリーア選帝侯国問題は確かに宣戦布告の理由となったが、ブリュッセル近郊のテルヴュランに幽閉された後、教皇の執り成しでウィーンに移された選帝侯自身にはさしたる関心が寄せられず、フランスが彼の釈放を求めるのは1640年代に入ってからのことであったという。  後半について。首切り役人がクレルペーヌという名だったかどうかには疑問がある。レオニはトゥールーズの古文書館員に問い合わせたというが、ある種の徹底的な調査によっても、首斬り人の名前の記された資料は見つからなかったとの回答を得たという。処刑は非公開であったというし、1656年の解釈書では解釈にあわせて原文の改竄なども行われている。こういう人物の著書でしか確認できない事柄には、慎重に対応する必要があるだろう。 *同時代的な視点  [[1558年版『予言集』>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1558年)]]実在説に立つ[[ピーター・ラメジャラー]]は、この詩の執筆が1557年から1558年の頃と推測した。  当時の政治情勢はというと、1557年のサン=カンタンの戦いで大敗を喫した大元帥アンヌ・ド・モンモランシーはスペイン側の捕虜となっており、フランドル地方のカトー・カンブレジでの会議がまとまり講和条約が調印されるまで、解放されることがなかった。  ラメジャラーは、ノストラダムスがこの詩を書いたのはモンモランシーの解放前で、大元帥に何らかの危害が加えられる可能性を想定していたのではないかとする((Lemesurier [2003b]))。  [[ジャン=ポール・クレベール]]は特定のモデルを提示していないが、ノストラダムスと同時代の大元帥アンヌ・ド・モンモランシーに致命傷を負わせた兵士の名がクレルペーヌであったと指摘している。ただし、クレベールは、それが1567年のことだったため、ノストラダムスが知りえなかった偶然の一致だろうとした((Clébert [2003]))。  細部はともかく、レオニの指摘とも組み合わせるならば、ノストラダムスの時代の何らかの出来事、あるいはそこからの派生の可能性は十分に考えられる。 ---- #comment
[[詩百篇第9巻]]>18番* *原文 Le lys&sup(){1} [[Dauffois]] portera dans Nansy&sup(){2} Iusques en Flandres&sup(){3} electeur&sup(){4} de l'empire&sup(){5}, Neufue [[obturee]] au grand Montmorency, Hors&sup(){6} lieux [[prouez>prouver]]&sup(){7} deliure&sup(){8} à clere peyne&sup(){9}. **異文 (1) lys : Lys 1672Ga 1716PR (2) Nansy / Nansi : Nancy 1603Mo 1611B 1644Hu 1650Mo 1981EB 1672Ga (3) Flandres : Flandre 1653AB 1665Ba 1720To 1840, Flanders 1672Ga (4) electeur : Electeur 1605sn 1628dR 1644Hu 1649Xa 1649Ca 1650Le 1667Wi 1668 1672Ga 1840 (5) l'empire 1568 1627Di : lempire 1590Ro, l'Empire &italic(){T.A.Eds.} (6) Hors : Hort 1716PRb (7) lieux prouez 1568 1590Ro 1605sn 1628dR 1649Xa 1649Ca 1653AB 1772Ri 1840 : lieux prouuez 1591BR 1597Br 1603Mo 1606PR 1607PR 1610Po 1611 1644Hu 1650Ri 1650Le 1650Mo 1981EB 1668 1716PR, lieux preuuez 1627Ma 1627Di, lieux 1665Ba 1720To, lieux pronez 1672Ga (8) deliure : de liure 1590Ro, delivré 1667Wi (9) clere peyne : Clerpegne 1667Wi, Clerepeine 1840 **校訂  ナンシーの綴りは Nancy が正しいが、この程度は綴りの揺れの範囲だろう。 *日本語訳 王太子の百合がナンシーで持つだろう、 [[フランドル]]に至るまで、帝国の選帝侯を。 偉大なモンモランシーには新しい監獄。 許可された場所の外で、明瞭な罰で解放する。 **訳について  山根訳はおおむね許容範囲内。ただ、4行目「クレーペインに引き渡された異例の場所で」は、Clere peine を固有名詞的に読むのなら「クレルペーヌ」とすべきだろう。  大乗訳は問題が多い。特にひどい点として、2行目「帝国の皇帝たるフランドルにかぎり」((大乗訳 [1975] p.262))で、選帝侯(Electeur)と皇帝(Empéreur)を取り違えている点だけ指摘しておく。 *信奉者側の見解  日本ではほとんど知られていないに等しいが、海外では1630年代のフランスの状況を詳しく言い当てた鮮やかな的中例として非常に有名なものである。  前半2行は三十年戦争へのフランスの参戦を描いたものとされる。  「王太子の百合」とは、ノストラダムスの死後では初めて王太子の称号に「ドーファン」(Dauphin)を名乗ったルイ13世を指し、「百合」は当然ブルボン家の紋章と解釈される。彼は懸案となっていたロレーヌ公領の帰属問題を解決するため、1633年に自ら赴き主都ナンシーを攻略した。  また、1632年にはトリーア選帝侯国を保護下におき、選帝侯フォン・ゼテルンの権威を再確立したが、その選帝侯自身は翌年にはスペイン軍の侵攻によってフランドル地方のブリュッセルに移送され、幽閉された。この保護領下での動向を建前として、1635年にフランスはスペインに宣戦布告した((以上、信奉者側の解釈と史実の整合に当たって、菊池良生『戦うハプスブルク家』(講談社現代新書、1995年)、柴田・樺山・福井『世界歴史大系・フランス史2』山川出版社、1996年を参照した。))。  後半2行はモンモランシー処刑に関する予言である。  反リシュリュー側の王弟ガストンと一脈通じていた地方総督アンリ・ド・モンモランシーは、1632年6月にラングドックで叛乱を起こしたが、あえなく鎮圧された。彼はトゥールーズに新しく作られた市庁舎の牢獄(「新しい監獄」)に拘禁されたうえ、通常処刑には用いられていなかった市庁舎の庭(「許可された場所の外」)で、斬首刑(「有名な罰」)に処せられた。[[1656年の解釈書>Eclaircissement des veritables Quatrains de Maistre Michel Nostradamus]]によれば、その時の首斬り役人の名は、クレルペーヌ(Clerepeyne)であり、4行目の「明瞭な罰」(Clere peyne)との言葉遊びになるという。  [[1656年の解釈書>Eclaircissement des veritables Quatrains de Maistre Michel Nostradamus]]で提示されて以来、[[テオフィル・ド・ガランシエール]](1672年)、[[ジャック・ド・ジャン]](1673年)、[[ジャン・ル・ルー]](1710年)、[[ウジェーヌ・バレスト]](1840年)、[[アナトール・ル・ペルチエ]](1867年)、[[チャールズ・ウォード]](1891年)、[[アンドレ・ラモン]](1943年)、[[ジェイムズ・レイヴァー]](1952年)、[[スチュワート・ロッブ]](1961年)、[[アレクサンダー・チェントゥリオ]](1977年)、[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]](1980年)、[[ジョン・ホーグ]](1997年)らをはじめとする多くの論者が支持している((Garencieres [1672], Jant [1673] p.12, Bareste [1840] pp.498-499, Le Pelletier [1867a] pp. 113-114, Ward [1891] pp.142-145, Lamont [1943] p.87, Robb [1961] pp.13-15, Centurio [1977] pp.143-144, Fontbrune [1980/1982], Hogue[1997/1999], レイヴァー [1999] p. 156-157))。  日本ではチータムとレイヴァーの訳書の中で見られるものの、日本人の解釈者で扱った者は見当たらない。なお、チータムとレイヴァーの訳書は、どちらにも複数の誤訳があり、この解釈に関する歴史的背景が適切につかめない。 **懐疑的な視点  この詩については、[[エドガー・レオニ]]が徹底的に反論している((Leoni [1961] ))。それを下敷きにして疑問点を列挙すると以下の通り。  まず1行目は、ノストラダムスの死後では確かに初めてだったが、彼がまさにこの詩を執筆していたと推察されるころ(1550年代後半)、王太子フランソワもドーファンを名乗っていた。  また、仮にこれが未来のドーファンを意味しているのだとしても、それが意味するところは「王太子」であって、1610年に正式に王になっていたルイ13世にはあてはまらない。  2行目について。トリーア選帝侯国問題は確かに宣戦布告の理由となったが、ブリュッセル近郊のテルヴュランに幽閉された後、教皇の執り成しでウィーンに移された選帝侯自身にはさしたる関心が寄せられず、フランスが彼の釈放を求めるのは1640年代に入ってからのことであったという。  後半について。首切り役人がクレルペーヌという名だったかどうかには疑問がある。レオニはトゥールーズの古文書館員に問い合わせたというが、ある種の徹底的な調査によっても、首斬り人の名前の記された資料は見つからなかったとの回答を得たという。処刑は非公開であったというし、1656年の解釈書では解釈にあわせて原文の改竄なども行われている。こういう人物の著書でしか確認できない事柄には、慎重に対応する必要があるだろう。 *同時代的な視点  [[1558年版『予言集』>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1558年)]]実在説に立つ[[ピーター・ラメジャラー]]は、この詩の執筆が1557年から1558年の頃と推測した。  当時の政治情勢はというと、1557年のサン=カンタンの戦いで大敗を喫した大元帥アンヌ・ド・モンモランシーはスペイン側の捕虜となっており、フランドル地方のカトー・カンブレジでの会議がまとまり講和条約が調印されるまで、解放されることがなかった。  ラメジャラーは、ノストラダムスがこの詩を書いたのはモンモランシーの解放前で、大元帥に何らかの危害が加えられる可能性を想定していたのではないかとする((Lemesurier [2003b]))。  [[ジャン=ポール・クレベール]]は特定のモデルを提示していないが、ノストラダムスと同時代の大元帥アンヌ・ド・モンモランシーに致命傷を負わせた兵士の名がクレルペーヌであったと指摘している。ただし、クレベールは、それが1567年のことだったため、ノストラダムスが知りえなかった偶然の一致だろうとした((Clébert [2003]))。  細部はともかく、レオニの指摘とも組み合わせるならば、ノストラダムスの時代の何らかの出来事、あるいはそこからの派生の可能性は十分に考えられる。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: