セザール・ド・ノートルダム

「セザール・ド・ノートルダム」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

セザール・ド・ノートルダム」(2009/11/30 (月) 22:17:38) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

 &bold(){セザール・ド・ノートルダム}(César de Nostredame, 1553年12月18日-1630年?)は、ノストラダムスの長男で、詩人、歴史家として著作を残し、画家としてもいくつかの作品を手がけた。ノストラダムスの『予言集』の第一序文は、彼にささげられており、一般に「[[セザールへの手紙]]」といわれる。  この記事では歴史的存在としてのセザール自身の足跡と作品を扱う。「セザール」を予言の最終解読者のコードネームとする俗説については[[最終解読者としてのセザール・ノストラダムス]]を参照のこと。 #ref(cesar.PNG) 【画像】『プロヴァンスの歴史と年代記』に掲載された肖像画(1614年)((画像の出典:Leroy [1993])) *生涯  1553年12月18日、プロヴァンス州サロン・ド・クロー(現在の[[サロン=ド=プロヴァンス]]。以下、サロンと略記)で、ノストラダムスとその再婚相手[[アンヌ・ポンサルド]]の間に長男(第2子)として生まれた。  幼年期、青年期のことは余りよく分かっていない。ただし、後年の彼自身の記述によれば、サン・バルテルミーの虐殺の時にはパリに居合わせていたという。  画才にもある程度恵まれ、青年期には、パリの画家エチエンヌ・デュモンストリエ(1520年頃-1603年)やフランソワ・ケネル(1545年頃-1616年)に師事していたことがあったようである。  登場人物のポーズや情景の色彩といった、視覚的な美しさを丁寧に描き出すことを特徴のひとつとする彼の詩には、そうした画家としての蓄積が投影されているとする専門家もいる。なお、音楽の方面でも、当時リュートの名手として知られていたとの指摘がある。  のち、サロンの名士として市政に携わり、1598年には筆頭執政官になっている。1600年11月に王妃マリー・ド・メディシスがサロンに入市した際に出迎えたのは、セザールであったという。  その傍ら作詩を中心とする文芸活動を行っていた。セザールがいつ頃から作詩を行っていたかは定かではないが、1590年代半ばから、複数の著作に詩や序文を寄せている。最初の単著は1598年の『サロン市の廃墟と悲惨』であったと思われる。  以降、セザールの著作は、エクス=アン=プロヴァンス(以下エクスと略記)の出版業者ジャン・トローザン(活動期間:1597-1628年)やトゥールーズの出版業者コロミエ家によって、次々と刊行されていった。  また、具体的な期間は不明であるが、叔父[[ジャン・ド・ノートルダム]]の研究を引き継ぐ形で郷土史研究も行っていたものと推測され、その成果は1614年に1000ページを超える大著『プロヴァンスの歴史と年代記』として結実した。この文献は8部構成で、古代から16世紀末までのプロヴァンス史を扱っており、[[フレデリック・ミストラル]]も歴史に題材を採った作品のいくつかで、この文献を出典として挙げている。公刊には至らなかったものの、続編にあたる草稿の一部がカルパントラ市立図書館に現存している。  セザールの没年は1629年とされることが多かったが、現在では1630年1月23日付の遺言書が確認されている。なお、1604年に[[アダン・ド・クラポンヌ]]の縁者に当たる[[クレール・ド・グリニャン]]と結婚したものの、子供はいなかった。 *著作 -『[[サロン市の廃墟と悲惨に関する言説>Discours sur les ruines et misères de la Ville de Salon]]』(エクス、1598年) -『[[真珠、あるいは聖女マグダラの涙>Les Perles, ou les Larmes de la sainctes Magdeleine]]』(エクス、1601年) -『[[フィレンツェからマルセイユに至る王妃の旅程で起こった本当の話>Le discours veritable de ce qui s'est passé au voyage de la Royne]]』(パリ、1601年) -『[[王妃のサロン市への入市>L'Entree de la Royne en sa ville de Salon]]』(エクス、1602年) -『[[王太子殿下御生誕に寄せる讃歌>Hymne sur la naissance de Monseigneur le Dauphin]]』(エクス、1602年) -『[[王太子殿下と王妃のイメージ>L'Image de Monseigneur le Dauphin et la Royne]]』(エクス、1602年) -『[[スキピオの夢>Le Songe de Scipion]]』(トゥールーズ、1606年) -『[[デュマス、あるいは義賊>Dymas, ou le Bon larron]]』(トゥールーズ、1606年) -『[[ナルキッソスの描写>Le Tableau de Narcisse]]』(刊行地・刊行年の記載なし) -『[[悲しみのマリア>La Marie dolente]]』(トゥールーズ、1606年) -『[[ギーズ公殿下の従者にしてリュートの名手シャルル・デュ・ヴェルディエの死を悼む詩篇>[[Vers funèbres sur la mort de Charles Du Verdier]]』(トゥールーズ、1607年) -『[[エスプリ的韻文>Rimes Spirituelles]]』(トゥールーズ、1607年) -『[[英雄的掌編と様々な詩篇>Pièces héroïques et diverses poésies]]』(トゥールーズ、1608年) -『[[プロヴァンスの歴史と年代記>Histoire et chronique de Provence]]』(リヨン、1614年) -『[[イッピアード、あるいはゴドフロワと騎士たち>L'Hippiade ou Godefroi et les Chevaliers]]』(1620-1622年頃) -『[[第二ジュネーヴの占領前夜と異教のヒュドラ最期の窮地について。国王への予言>Sur la veille de la prise de la seconde Geneve & les derniers abbois de l'hydre de l'heresie. Prophetie. Au Roy]]』(エクス、1629年)  また、著作ではないが、次のような文献も19世紀に出されている。 -Philippe Tamizey de Larroque, &italic(){[[Les correspondants de Peiresc (II), César Nostradamus]]}, Marseille: M. Olive, 1880  これは、エクス高等法院の参事官[[ニコラ=クロード・ファブリ・ド・ペーレスク]]とセザールの往復書簡をまとめたものである。[[フィリップ・タミゼー・ド・ラロック]]によって、1879年から1897年までに全21集出されたペーレスクの往復書簡の第2集にあたる。 **絵画  セザール自身による作品名はついていないようである(サイズの単位はセンチメートル)。 -[[ノストラダムスの肖像画>ノストラダムスの肖像画 (メジャヌ所蔵、1614年頃)]](銅板、18×16。1614年頃) --メジャヌ図書館(エクス)所蔵。左右の上隅に天使を一体ずつ配した、楕円形の枠に収まっている構図の肖像画。『[[ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]』をはじめ、多くのノストラダムス関連の日本語文献で見ることが出来る、有名な肖像画のひとつ。 -ノストラダムスの肖像画(銅板、38×29。作成時期未詳) --カルヴェ博物館(アヴィニョン)所蔵。伝えられるところによると、もともとこの絵は、墓銘碑とともに墓に掲げるために作成されたものであったという。ノストラダムスが58歳の時を描いているというが、その時セザールは8歳だったため、当時、もう一つの肖像画ともども、元になった肖像画があったのではないかと推測する論者もいる。 -自画像(銅版、18×16。1616年) --メジャヌ図書館所蔵。天使が持っている紋章など細かい違いはあるものの、構図そのものは同博物館所蔵のノストラダムスの肖像画と同じである。 *参考文献 -Ferdinando Gabotto, “Un poème inédit de César de Nostredame et quelques autres documents littéraires sur l'histoire de France au XVIe siècle.”, &italic(){Revue des langues romanes}, Tome 8, 1895, pp.289-315 -Terence C. Cave, &italic(){Devotional Poetry in France c.1570-1613}, Cambridge University Press, 1969 -Terence C. Cave,“Peinture et émotion dans la poésie religieuse de César de Nostredame”, &italic(){Gazette des Beaux-Arts}, Janv. 1970, pp.57-62 -Jean Boyer, “Deux peintres oubliés du XVIe siècle: Etienne Martellange et César de Nostredame”, &italic(){Bulletin de la Société de l'Histoire de l'art français}, Année 1971 (1972), pp.13-20 -Claude Mauron, “Mistral, César de Nostredame et la princesse Clémence”, &italic(){Provence historique}, Tome 23, 1973, pp.439-444 -Y. Le Hir, “Sur un texte inédit de César de Nostredame (L'Hippiades)”, &italic(){Bibliothèque d'Humanisme et Renaissance}, Tome L-2, 1988, pp.373-380 -Lance K. Donaldson-Evans(ed.), Oeuvres spirituelles, Genève ; Droz (TLF 541), 2001 ---- #comment
 &bold(){セザール・ド・ノートルダム}(César de Nostredame, 1553年12月18日-1630年?)は、ノストラダムスの長男で、詩人、歴史家として著作を残し、画家としてもいくつかの作品を手がけた。ノストラダムスの『予言集』の第一序文は、彼にささげられており、一般に「[[セザールへの手紙]]」といわれる。  この記事では歴史的存在としてのセザール自身の足跡と作品を扱う。「セザール」を予言の最終解読者のコードネームとする俗説については[[最終解読者としてのセザール・ノストラダムス]]を参照のこと。 #ref(cesar.PNG) 【画像】『プロヴァンスの歴史と年代記』に掲載された肖像画(1614年)((画像の出典:Leroy [1993])) *生涯  1553年12月18日、プロヴァンス州サロン・ド・クロー(現在の[[サロン=ド=プロヴァンス]]。以下、サロンと略記)で、ノストラダムスとその再婚相手[[アンヌ・ポンサルド]]の間に長男(第2子)として生まれた。  幼年期、青年期のことは余りよく分かっていない。ただし、後年の彼自身の記述によれば、サン・バルテルミーの虐殺の時にはパリに居合わせていたという。  画才にもある程度恵まれ、青年期には、パリの画家エチエンヌ・デュモンストリエ(1520年頃-1603年)やフランソワ・ケネル(1545年頃-1616年)に師事していたことがあったようである。  登場人物のポーズや情景の色彩といった、視覚的な美しさを丁寧に描き出すことを特徴のひとつとする彼の詩には、そうした画家としての蓄積が投影されているとする専門家もいる。なお、音楽の方面でも、当時リュートの名手として知られていたとの指摘がある。  のち、サロンの名士として市政に携わり、1598年には筆頭執政官になっている。1600年11月に王妃マリー・ド・メディシスがサロンに入市した際に出迎えたのは、セザールであったという。  その傍ら作詩を中心とする文芸活動を行っていた。セザールがいつ頃から作詩を行っていたかは定かではないが、1590年代半ばから、複数の著作に詩や序文を寄せている。最初の単著は1598年の『サロン市の廃墟と悲惨』であったと思われる。  以降、セザールの著作は、エクス=アン=プロヴァンス(以下エクスと略記)の出版業者ジャン・トローザン(活動期間:1597-1628年)やトゥールーズの出版業者コロミエ家によって、次々と刊行されていった。  また、具体的な期間は不明であるが、叔父[[ジャン・ド・ノートルダム]]の研究を引き継ぐ形で郷土史研究も行っていたものと推測され、その成果は1614年に1000ページを超える大著『プロヴァンスの歴史と年代記』として結実した。この文献は8部構成で、古代から16世紀末までのプロヴァンス史を扱っており、[[フレデリック・ミストラル]]も歴史に題材を採った作品のいくつかで、この文献を出典として挙げている。公刊には至らなかったものの、続編にあたる草稿の一部がカルパントラ市立図書館に現存している。  セザールの没年は1629年とされることが多かったが、現在では1630年1月23日付の遺言書が確認されている。なお、1604年に[[アダン・ド・クラポンヌ]]の縁者に当たる[[クレール・ド・グリニャン]]と結婚したものの、子供はいなかった。 *著作 -『[[サロン市の廃墟と悲惨に関する言説>Discours sur les ruines et misères de la Ville de Salon]]』(エクス、1598年) -『[[真珠、あるいは聖女マグダラの涙>Les Perles, ou les Larmes de la sainctes Magdeleine]]』(エクス、1601年) -『[[フィレンツェからマルセイユに至る王妃の旅程で起こった本当の話>Le discours veritable de ce qui s'est passé au voyage de la Royne]]』(パリ、1601年) -『[[王妃のサロン市への入市>L'Entree de la Royne en sa ville de Salon]]』(エクス、1602年) -『[[王太子殿下御生誕に寄せる讃歌>Hymne sur la naissance de Monseigneur le Dauphin]]』(エクス、1602年) -『[[王太子殿下と王妃のイメージ>L'Image de Monseigneur le Dauphin et la Royne]]』(エクス、1602年) -『[[スキピオの夢>Le Songe de Scipion]]』(トゥールーズ、1606年) -『[[デュマス、あるいは義賊>Dymas, ou le Bon larron]]』(トゥールーズ、1606年) -『[[ナルキッソスの描写>Le Tableau de Narcisse]]』(刊行地・刊行年の記載なし) -『[[悲しみのマリア>La Marie dolente]]』(トゥールーズ、1606年) -『[[ギーズ公殿下の従者にしてリュートの名手シャルル・デュ・ヴェルディエの死を悼む詩篇>[[Vers funèbres sur la mort de Charles Du Verdier]]』(トゥールーズ、1607年) -『[[エスプリ的韻文>Rimes Spirituelles]]』(トゥールーズ、1607年) -『[[英雄的掌編と様々な詩篇>Pièces héroïques et diverses poésies]]』(トゥールーズ、1608年) -『[[プロヴァンスの歴史と年代記>Histoire et chronique de Provence]]』(リヨン、1614年) -『[[イッピアード、あるいはゴドフロワと騎士たち>L'Hippiade ou Godefroi et les Chevaliers]]』(1620-1622年頃) -『[[第二ジュネーヴの占領前夜と異教のヒュドラ最期の窮地について。国王への予言>Sur la veille de la prise de la seconde Geneve & les derniers abbois de l'hydre de l'heresie. Prophetie. Au Roy]]』(エクス、1629年)  また、著作ではないが、次のような文献も19世紀に出されている。 -Philippe Tamizey de Larroque, &italic(){[[Les correspondants de Peiresc (II), César Nostradamus]]}, Marseille: M. Olive, 1880  これは、エクス高等法院の参事官[[ニコラ=クロード・ファブリ・ド・ペーレスク]]とセザールの往復書簡をまとめたものである。[[フィリップ・タミゼー・ド・ラロック]]によって、1879年から1897年までに全21集出されたペーレスクの往復書簡の第2集にあたる。 **絵画  セザール自身による作品名はついていないようである(サイズの単位はセンチメートル)。 -[[ノストラダムスの肖像画>ノストラダムスの肖像画 (メジャヌ所蔵、1614年頃)]](銅板、18×16。1614年頃) --メジャヌ図書館(エクス)所蔵。左右の上隅に天使を一体ずつ配した、楕円形の枠に収まっている構図の肖像画。『[[ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]』をはじめ、多くのノストラダムス関連の日本語文献で見ることが出来る、有名な肖像画のひとつ。 -ノストラダムスの肖像画(銅板、38×29。作成時期未詳) --カルヴェ博物館(アヴィニョン)所蔵。伝えられるところによると、もともとこの絵は、墓銘碑とともに墓に掲げるために作成されたものであったという。ノストラダムスが58歳の時を描いているというが、その時セザールは8歳だったため、当時、もう一つの肖像画ともども、元になった肖像画があったのではないかと推測する論者もいる。 -自画像(銅版、18×16。1616年) --メジャヌ図書館所蔵。天使が持っている紋章など細かい違いはあるものの、構図そのものは同博物館所蔵のノストラダムスの肖像画と同じである。 *参考文献 -Ferdinando Gabotto, “Un poème inédit de César de Nostredame et quelques autres documents littéraires sur l'histoire de France au XVIe siècle.”, &italic(){Revue des langues romanes}, Tome 8, 1895, pp.289-315 -Terence C. Cave, &italic(){Devotional Poetry in France c.1570-1613}, Cambridge University Press, 1969 -Terence C. Cave,“Peinture et émotion dans la poésie religieuse de César de Nostredame”, &italic(){Gazette des Beaux-Arts}, Janv. 1970, pp.57-62 -Jean Boyer, “Deux peintres oubliés du XVIe siècle: Etienne Martellange et César de Nostredame”, &italic(){Bulletin de la Société de l'Histoire de l'art français}, Année 1971 (1972), pp.13-20 -Claude Mauron, “Mistral, César de Nostredame et la princesse Clémence”, &italic(){Provence historique}, Tome 23, 1973, pp.439-444 -Y. Le Hir, “Sur un texte inédit de César de Nostredame (L'Hippiades)”, &italic(){Bibliothèque d'Humanisme et Renaissance}, Tome L-2, 1988, pp.373-380 -Lance K. Donaldson-Evans(ed.), Oeuvres spirituelles, Genève ; Droz (TLF 541), 2001 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: