トリノの碑文

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 &bold(){トリノの碑文}は、1556年に[[ノストラダムス]]が書きつけたとされる碑文である。[[オッタービオ・チェーザレ・ラモッティ]]の著書『[[ノストラダムス新世紀予言]]』(学研、1999年)での「1556年にノストラダムスが[[トリノ]]に設置した石碑」((同書p.135))という紹介では分かりづらいが、実際にはトリノの邸宅に掲げられていた大理石の板に刻まれたものである。 *原文  原文は変則的なフランス語で書かれている。 #ref(turin.PNG) 【画像】トリノの碑文の写真((Reynaud-Plense [1940] p.20))  上の画像から転記したのが次のものである。 1556 NOSTRE DAMVS A LOGE ICI ON IL HA LE PARADIS LENFER LE PVRGATOIRE IE MA PELLE LA VICTOIRE QVI MHONORE AVRA LA GLOIRE QVI ME MEPRISE OVRA LA RVINE HNTIERE  書き間違いと思われる部分を直し、ヴィルギュル(カンマ)やポワン(ピリオド)を加えたものは以下の通り。 1556 Nostradamus a logé ici où il'y a le paradis, l'enfer (et) le purgatoire. Je m'appelle La Victoire. Qui m'honore aura la gloire, qui me méprise aura la ruine entière. **訳 1556年 ノストラダムスは天国、地獄、煉獄の存するここに逗留した。 我が名は「勝利」。我を褒める者には栄光が待っているであろうし、我を貶める者にはまごうかたなき破滅が待っているだろう。 *概要  この碑文はトリノ市の中心部から外れたところにある邸宅の壁に掲げられていたものである。1807年12月26日付のトリノの新聞で最初に紹介されたらしいが((Leroy [1993] p.84))、有名になったのは、1934年にコラッド・パリアーニ(Coraddo Pagliani)の論文で紹介されてからのようである。  碑文の前半は意味が分かりづらいが、『神曲』の著者ダンテがトリノに逗留した事があった点に引っかけた表現のようである((Leroy [1993] p.84))。『神曲』が地獄篇、煉獄篇、天国篇の3部構成であることは良く知られている。  「我が名は勝利」という奇妙な表現は、この邸宅がかつて「ヴィクトリア邸」(Villa Victoria)と呼ばれていたことと関係があるのかもしれない。となれば、この碑文に出てくる「我」は邸宅を擬人化した可能性も想定できる。その場合、この碑文の原型は滞在させてもらったことに感謝して作られた詩篇だったとする[[イアン・ウィルソン]]の推測も、あながち的外れとはいえないだろう((cf. Wilson [2003]p.159))。後半の表現は、泊まり心地がよかったことを、大仰に表現したようにも見える。  なお、「我」が純粋にノストラダムスを指している場合、批判者たちへの対決姿勢と関連づけることもできるのかもしれない。1556年は最初のノストラダムス批判書『[[ル・パヴィヨン・レ・ロリ殿の予言集]]』が出された年であり、この時期の書きものには、攻撃者たちへの対決姿勢や死後の名声を気にしているらしい記述が散見されるからだ。 -私を何度も死に至らしめようとした人々に抗して([[1557年向けの暦>Almanach pour l'An 1557]]ほか) -「私は永遠に生きるであろう。肉体が滅んだとしても同じことである。死後も我が名声は地上にとどまり続けるであろうから」(同上) -それにもかかわらず、彼らに備わった邪悪な魂の悪意は、私が地中に消えた後の時の流れの中でも理解されることはないでしょうし、(逆に)私の作品は生前よりも多く(の理解を得るように)なるでしょう。([[アンリ2世への手紙]]・第19節)  トリノの碑文は、こうした文言と類似性があるようにも見える。 *著者  この碑文がそもそもノストラダムス自身のものかということにも議論がある。[[ピーター・ラメジャラー]]は、実際の逗留の数年後に作成されたものだとする((ラメジャラー[1998a]))。イアン・ウィルソンも、上述のようにノストラダムス作の原型を想定しているが、現存する碑文は、邸宅の主人が有名人逗留の記念に作成したものだろうとする((Wilson [2003]p.159))。  実際のところ、大文字でONとOUを取り違えることは考えにくく、作成者が、小文字で書かれた元の文章を読み間違えて彫ってしまった可能性が疑われる。いずれにしても、ラモッティのようにこの碑文に予言解読の鍵が隠されているという見解は、現在のところ全く何の裏付けも持っていない。  なお、ヴィクトリア邸は、ノストラダムスが1530年代後半から8年間トリノに住んでいた時期の自宅だったと主張する者もいるが((『ムー』1999年8月号、p.14))、そもそも8年間トリノに住んでいたこと自体が証明されていない。 *現存  [[レヌーチョ・ボスコロ]]は1984年に出版した著書のなかで、この碑文をトリノの某オフィス・ビル(an office building)で発見したと述べている。また、1990年に盗まれたという話もあるが、実証的な論者でこの件を詳述しているものはおらず、詳しいことはよく分からない。 ---- #comment
 &bold(){トリノの碑文}は、1556年に[[ノストラダムス]]が書きつけたとされる碑文である。[[オッタービオ・チェーザレ・ラモッティ]]の著書『[[ノストラダムス新世紀予言]]』(学研、1999年)での「1556年にノストラダムスが[[トリノ]]に設置した石碑」((同書p.135))という紹介では分かりづらいが、実際には、トリノの邸宅に掲げられていた大理石の板に刻まれたものである。 *原文  原文は変則的なフランス語で書かれている。 #ref(turin.PNG) 【画像】トリノの碑文の写真((Reynaud-Plense [1940] p.20))  上の画像から転記したのが次のものである。 1556 NOSTRE DAMVS A LOGE ICI ON IL HA LE PARADIS LENFER LE PVRGATOIRE IE MA PELLE LA VICTOIRE QVI MHONORE AVRA LA GLOIRE QVI ME MEPRISE OVRA LA RVINE HNTIERE  書き間違いと思われる部分を直し、ヴィルギュル(カンマ)やポワン(ピリオド)を加えたものは以下の通り。 1556 Nostradamus a logé ici où il'y a le paradis, l'enfer (et) le purgatoire. Je m'appelle La Victoire. Qui m'honore aura la gloire, qui me méprise aura la ruine entière. **訳 1556年 ノストラダムスは天国、地獄、煉獄の存するここに逗留した。 我が名は「勝利」。我を褒める者には栄光が待っているであろうし、我を貶める者にはまごうかたなき破滅が待っているだろう。 *概要  この碑文はトリノ市の中心部から外れたところにある邸宅の壁に掲げられていたものである。  1807年12月26日付のトリノの新聞で最初に紹介されたらしいが((Leroy [1993] p.84))、有名になったのは、1934年にコラッド・パリアーニ(Coraddo Pagliani)の論文で紹介されてからのようである。  碑文の前半は意味が分かりづらいが、『神曲』の著者ダンテがトリノに逗留した事があった点に引っかけた表現のようである((Leroy [1993] p.84))。  『神曲』が地獄篇、煉獄篇、天国篇の3部構成であることは良く知られている。 #amazon(4062922428) 【画像】『神曲 地獄篇』 (講談社学術文庫)  「我が名は勝利」という奇妙な表現は、この邸宅がかつて「ヴィクトリア邸」(Villa Victoria)と呼ばれていたことと関係があるのかもしれない。  となれば、この碑文に出てくる「我」は邸宅を擬人化した可能性も想定できる。その場合、この碑文の原型は、滞在させてもらったことに感謝して作られた詩篇だったとする[[イアン・ウィルソン]]の推測も、あながち的外れとはいえないだろう((cf. Wilson [2003]p.159))。  後半の表現は、泊まり心地がよかったことを、大仰に表現したようにも見える。  なお、「我」が純粋にノストラダムスを指している場合、批判者たちへの対決姿勢と関連づけることもできるのかもしれない。  1556年は最初のノストラダムス批判書『[[ル・パヴィヨン・レ・ロリ殿の予言集]]』が出された年であり、この時期の書きものには、攻撃者たちへの対決姿勢や死後の名声を気にしているらしい記述が散見されるからだ。 -私を何度も死に至らしめようとした人々に抗して([[1557年向けの暦>Almanach pour l'An 1557]]ほか) -「私は永遠に生きるであろう。肉体が滅んだとしても同じことである。死後も我が名声は地上にとどまり続けるであろうから」(同上) -それにもかかわらず、彼らに備わった邪悪な魂の悪意は、私が地中に消えた後の時の流れの中でも理解されることはないでしょうし、(逆に)私の作品は生前よりも多く(の理解を得るように)なるでしょう。([[アンリ2世への手紙]]・第19節)  トリノの碑文は、こうした文言と類似性があるようにも見える。 *著者  この碑文がそもそもノストラダムス自身のものかということにも議論がある。  [[ピーター・ラメジャラー]]は、実際の逗留の数年後に作成されたものだとする((ラメジャラー[1998a]))。  イアン・ウィルソンも、上述のようにノストラダムス作の原型を想定しているが、現存する碑文は、邸宅の主人が有名人逗留の記念に作成したものだろうとする((Wilson [2003]p.159))。  実際のところ、大文字でONとOUを取り違えることは考えにくく、作成者が、小文字で書かれた元の文章を読み間違えて彫ってしまった可能性が疑われる。  いずれにしても、ラモッティのように、この碑文に予言解読の鍵が隠されているという見解は、現在のところ全く何の裏付けも持っていない。  なお、ヴィクトリア邸は、ノストラダムスが1530年代後半から8年間トリノに住んでいた時期の自宅だったと主張する者もいるが((『ムー』1999年8月号、p.14))、そもそも8年間トリノに住んでいたこと自体が証明されていない。 *現存  [[レヌーチョ・ボスコロ]]は1984年に出版した著書のなかで、この碑文をトリノの某オフィス・ビル(an office building)で発見したと述べている。  また、1990年に盗まれたという話もあるが、実証的な論者でこの件を詳述しているものはおらず、詳しいことはよく分からない。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。

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