六行詩52番

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[[六行詩集]]>52番* *原文 La grand Cité qui n'a pain à demy, Encor vn coup la sainct Barthelemy&sup(){1}, [[Engrauera>engraver]] au profond de son ame&sup(){2}, Nismes, Rochelle, Geneue & Montpellier, Castres&sup(){3}, Lyon, Mars entrant au Belier&sup(){4}, S'entrebattront le tout pour vne Dame&sup(){5}. **異文 (1) Barthelemy : Berthelemy 1600Au 1600Mo 1611 1628dR 1649Ca, Bartelemy 1627Di (2) ame : Ame 1672Ga (3) Castres : Castre 1611 1627Ma 1627Di 1644Hu, Castrei 1649Xa (4) Belier : belier 1600Mo (5) Dame : dame 1600Mo *日本語訳 その大都市はパンを半分しか持てず、 さらに聖バルトロマイの一撃は、 その魂の奥底に刻み込むだろう。 ニーム、ラ・ロシェル、ジュネーヴ、モンペリエ、 カストル、リヨン。[[マルス]]は白羊宮に入っている。 一人の婦人のせいで皆が争い合うだろう。 *信奉者側の見解  [[テオフィル・ド・ガランシエール]]は1572年8月の聖バルトロマイ(サン=バルテルミー)の祝日に起きた「サン=バルテルミーの虐殺」の予言とした。この事件はパリ(「大都市」)で起こり、フランス中に波及した。黒幕と目されていたのは、王太后カトリーヌ・ド・メディシス(「婦人」)であった。  この解釈は、[[アナトール・ル・ペルチエ]](1867年)、[[チャールズ・ウォード]](1891年)、[[ジェイムズ・レイヴァー]](1952年)、[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]らも追随した((Le Pelletier [1867a] p.90, Ward [1891] pp.111-112, Laver [1952] pp.78-79, Fontbrune [1980/1982]))。  ほかに、未来にサン=バルテルミーの虐殺を髣髴とさせるような事件が起こると解釈する者もいる。[[アンドレ・ラモン]](1943年)は、1943年5月以降にフランスで多くの人命が失われることの予言とした((Lamont [1943] p.288))。 *同時代的な視点  この詩の出版は1605年のことである。当然にして事後予言が疑われるべきだろう。 *その他  1600Au では50番になっている。 ---- #comment
[[六行詩集]]>52番* *原文 La grand Cité qui n'a pain à demy, Encor vn coup la sainct Barthelemy&sup(){1}, [[Engrauera>engraver]] au profond de son ame&sup(){2}, Nismes, Rochelle, Geneue & Montpellier, Castres&sup(){3}, Lyon, Mars entrant au Belier&sup(){4}, S'entrebattront le tout pour vne Dame&sup(){5}. **異文 (1) Barthelemy : Berthelemy 1600Au 1600Mo 1611 1628dR 1649Ca, Bartelemy 1627Di (2) ame : Ame 1672Ga (3) Castres : Castre 1611 1627Ma 1627Di 1644Hu, Castrei 1649Xa (4) Belier : belier 1600Mo (5) Dame : dame 1600Mo *日本語訳 その大都市はパンを半分しか持てず、 さらに聖バルトロマイの一撃は、 その魂の奥底に刻み込むだろう。 ニーム、ラ・ロシェル、ジュネーヴ、モンペリエ、 カストル、リヨン。[[マルス]]は白羊宮に入っている。 一人の婦人のせいで皆が争い合うだろう。 *信奉者側の見解  [[テオフィル・ド・ガランシエール]]は1572年8月の聖バルトロマイ(サン=バルテルミー)の祝日に起きた「サン=バルテルミーの虐殺」の予言とした。この事件はパリ(「大都市」)で起こり、フランス中に波及した。黒幕と目されていたのは、王太后カトリーヌ・ド・メディシス(「婦人」)であった。  この解釈は、[[アナトール・ル・ペルチエ]](1867年)、[[チャールズ・ウォード]](1891年)、[[ジェイムズ・レイヴァー]](1952年)、[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]らも追随した((Le Pelletier [1867a] p.90, Ward [1891] pp.111-112, Laver [1952] pp.78-79, Fontbrune [1980/1982]))。  ほかに、未来にサン=バルテルミーの虐殺を髣髴とさせるような事件が起こると解釈する者もいる。  [[アンドレ・ラモン]](1943年)は、1943年5月以降にフランスで多くの人命が失われることの予言とした((Lamont [1943] p.288))。 *同時代的な視点  この詩の出版は1605年のことである。当然にして事後予言が疑われるべきだろう。 *その他  1600Au では50番になっている。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。

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