百詩篇第5巻33番

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*原文 Des principaulx de cité&sup(){1} rebellee, Qui tiendront fort pour liberté&sup(){2} rauoir&sup(){3}: [[Detrencher>detrancher]]&sup(){4} masles&sup(){5} [[infelice>infelix]]&sup(){6} meslee, Crys vrlemens&sup(){7} à&sup(){8} Nantes&sup(){9} piteux&sup(){10} voir. **異文 (1) cité : Cité 1672 (2) liberté : liberte 1605 (3) rauoir : r'auoit 1589Me 1589Rg, r'auoir 1597 1605 1611 1627 1628 1644 1649Xa 1650Ri 1660 1672 1840, t'auoir 1600 1610 1653 1665 1716 (4) Detrencher : Detrancher 1590Ro 1597 1600 1610 1611 1627 1628 1644 1649Xa 1650Ri 1653 1660 1665 1716 1840 (5) masles : masses 1557B 1649Ca, males 1660, mâle 1716 (6) infelice : infelie 1600 1716, infœlice 1672 (7) vrlemens 1557U 1589PV 1649Ca : hurlemens &italic(){T.A.Eds.} (&italic(){sauf} heurlemens 1600 1610 1627 1644 1650Ri 1716) (8) à : a 1605 1649Ca 1672 (9) Nantes : Nante; 1649Ca, Nantes; 1650Le 1668A, Nantes, 1668P (10) piteux : pitieux 1590Ro **校訂  urlemens は hurlements の方が適切だが、この程度は綴りの揺れの範囲だろう。 *日本語訳 叛乱した都市の主だった人々、 彼らは自由を取り戻す側を強く支持するだろう。 男たちを虐殺する。不幸な乱闘。 ナントでの叫びや悲鳴。哀れな人々を目にする。 **訳について  2行目 tenir pour... は「~の側につく」の意味((DMF))。仮に3行目にまで跨っているのなら、「彼らは自由を取り戻し、男たちを虐殺する側を強く支持するだろう。不幸な乱闘。」となる。  山根訳は若干訳しすぎの感もあるが、おおむね許容範囲。  大乗訳もそう訳せないこともないという意味でおおむね許容範囲だが、3行目前半「男性は平和のうちに断ち切られ」((大乗 [1975] p.157))は完全に誤訳。「平和」に当たる言葉は原文にない。おそらく[[ヘンリー・C・ロバーツ]]の英訳 The males shall be cut in pieces((Roberts [1949] p.156))の pieces を peace と勘違いしたのだろう。 *信奉者側の見解  フランス革命中にあたる1793年に、リヨンやトゥーロンとともにナントで恐怖政治による大粛清が行われてからは、この詩をそれに対応させる論者が見られるようになった。  当「大事典」として確認できる最初の例は[[テオドール・ブーイ]](1806年)だが、((Bouys [1806] pp.109-110))、革命期のパンフレットなどが先行していた可能性もある。  [[アナトール・ル・ペルチエ]](1867年)、[[チャールズ・ウォード]](1891年)、[[ジェイムズ・レイヴァー]](1952年)、[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]](1980年)、[[エリカ・チータム]](1990年)など、多くの論者が追随している((Le Pelletier [1867a] p.196, Ward [1891] pp.277-278, Laver [1952] p.158, Fontbrune [1980/1982], Cheetham [1990])) *同時代的な視点  詩の情景とナントの恐怖政治がある程度一致しているのは事実だが、[[テオフィル・ド・ガランシエール]]をはじめ、事件前にそのような解釈を展開した者はいなかったようである。  他方で、実証的な論者は特にこの詩のモデルを見出せていない。  [[ロジェ・プレヴォ]]、[[ルイ・シュロッセ]]、[[ブリューノ・プテ=ジラール]]らは触れていない。  [[ピーター・ラメジャラー]]は不明としている。  [[ジャン=ポール・クレベール]]は、1720年(1793年でなく)にナントで起こった処刑事件に当てはまりうることを指摘し、詩の情景にたまたま合致したらしいと判断している。  ナントはかつてのブルターニュ公国の首都であり、港町として重要な意味を持っていた。そうした歴史的な大都市で大きな叛乱とその粛清行為が起こると予言することは、そう難しいことではなかったようにも思える。 ---- - 信仰の自由を宣言したナントの勅令が発せられた場所で大虐殺が起こった。カルマ的だ! 1793年7月29日にヴァンデ軍との間でナントの戦いが起こったが、軍を指揮していた一人は重傷で死に、一人は処刑された。この時のホロスコープを見ると男性を意味する火星が蟹座の15度にある。ナントの勅令が発せられた1598年4月13日も、火星は蟹座の15度にあり、その上、月と合になっていた!! -- とある信奉者 (2013-04-02 19:44:05) #comment
*原文 Des principaulx de cité&sup(){1} rebellee, Qui tiendront fort pour liberté&sup(){2} rauoir&sup(){3}: [[Detrencher>detrancher]]&sup(){4} masles&sup(){5} [[infelice>infelix]]&sup(){6} meslee, Crys vrlemens&sup(){7} à&sup(){8} Nantes&sup(){9} piteux&sup(){10} voir. **異文 (1) cité : Cité 1672 (2) liberté : liberte 1605 (3) rauoir : r'auoit 1589Me 1589Rg, r'auoir 1597 1605 1611 1627 1628 1644 1649Xa 1650Ri 1660 1672 1840, t'auoir 1600 1610 1653 1665 1716 (4) Detrencher : Detrancher 1590Ro 1597 1600 1610 1611 1627 1628 1644 1649Xa 1650Ri 1653 1660 1665 1716 1840 (5) masles : masses 1557B 1649Ca, males 1660, mâle 1716 (6) infelice : infelie 1600 1716, infœlice 1672 (7) vrlemens 1557U 1589PV 1649Ca : hurlemens &italic(){T.A.Eds.} (&italic(){sauf} heurlemens 1600 1610 1627 1644 1650Ri 1716) (8) à : a 1605 1649Ca 1672 (9) Nantes : Nante; 1649Ca, Nantes; 1650Le 1668A, Nantes, 1668P (10) piteux : pitieux 1590Ro **校訂  urlemens は hurlements の方が適切だが、この程度は綴りの揺れの範囲だろう。 *日本語訳 叛乱した都市の主だった人々、 彼らは自由を取り戻す側を強く支持するだろう。 男たちを虐殺する。不幸な乱闘。 ナントでの叫びや悲鳴。哀れな人々を目にする。 **訳について  2行目 tenir pour... は「~の側につく」の意味((DMF))。仮に3行目にまで跨っているのなら、「彼らは自由を取り戻し、男たちを虐殺する側を強く支持するだろう。不幸な乱闘。」となる。  山根訳は若干訳しすぎの感もあるが、おおむね許容範囲。  大乗訳もそう訳せないこともないという意味でおおむね許容範囲だが、3行目前半「男性は平和のうちに断ち切られ」((大乗 [1975] p.157))は完全に誤訳。「平和」に当たる言葉は原文にない。おそらく[[ヘンリー・C・ロバーツ]]の英訳 The males shall be cut in pieces((Roberts [1949] p.156))の pieces を peace と勘違いしたのだろう。 *信奉者側の見解  フランス革命中にあたる1793年に、リヨンやトゥーロンとともにナントで恐怖政治による大粛清が行われてからは、この詩をそれに対応させる論者が見られるようになった。  当「大事典」として確認できる最初の例は[[テオドール・ブーイ]](1806年)だが、((Bouys [1806] pp.109-110))、革命期のパンフレットなどが先行していた可能性もある。  [[アナトール・ル・ペルチエ]](1867年)、[[チャールズ・ウォード]](1891年)、[[ジェイムズ・レイヴァー]](1952年)、[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]](1980年)、[[エリカ・チータム]](1990年)など、多くの論者が追随している((Le Pelletier [1867a] p.196, Ward [1891] pp.277-278, Laver [1952] p.158, Fontbrune [1980/1982], Cheetham [1990])) *同時代的な視点  詩の情景とナントの恐怖政治がある程度一致しているのは事実だが、[[テオフィル・ド・ガランシエール]]をはじめ、事件前にそのような解釈を展開した者はいなかったようである。  他方で、実証的な論者は特にこの詩のモデルを見出せていない。  [[ロジェ・プレヴォ]]、[[ルイ・シュロッセ]]、[[ブリューノ・プテ=ジラール]]らは触れていない。  [[ピーター・ラメジャラー]]は不明としている。  [[ジャン=ポール・クレベール]]は、1720年(1793年でなく)にナントで起こった処刑事件に当てはまりうることを指摘し、詩の情景にたまたま合致したらしいと判断している。  ナントはかつてのブルターニュ公国の首都であり、港町として重要な意味を持っていた。そうした歴史的な大都市で大きな叛乱とその粛清行為が起こると予言することは、そう難しいことではなかったようにも思える。 ---- &bold(){コメントらん} 以下のコメント欄は[[コメントの著作権および削除基準>著作権について]]を了解の上でご使用ください。なお、当「大事典」としては、以下に投稿されたコメントの信頼性などをなんら担保するものではありません (当「大事典」管理者である sumaru 自身によって投稿されたコメントを除く)。 - 信仰の自由を宣言したナントの勅令が発せられた場所で大虐殺が起こった。カルマ的だ! 1793年7月29日にヴァンデ軍との間でナントの戦いが起こったが、軍を指揮していた一人は重傷で死に、一人は処刑された。この時のホロスコープを見ると男性を意味する火星が蟹座の15度にある。ナントの勅令が発せられた1598年4月13日も、火星は蟹座の15度にあり、その上、月と合になっていた!! -- とある信奉者 (2013-04-02 19:44:05) #comment

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