詩百篇第1巻60番

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[[詩百篇第1巻]]>60番* *原文 Vn Empereur naistra pres d'Italie&sup(){2}, Qui à&sup(){3} l'Empire&sup(){4} sera vendu&sup(){5} bien cher, Diront auecques quels&sup(){6} gens il&sup(){7} se ralie&sup(){8} Qu'on trouuera&sup(){9} moins prince&sup(){10} que&sup(){11} boucher&sup(){12}. **異文 (1) naistra : n’aistra 1612Me (2) d'Italie : dItalie 1716PRa (3) Qui à : Quia 1605sn, Qu'à 1611B 1981EB, Qui a 1628dR (4) l'Empire : l'empire 1605sn 1628dR 1649Xa (5) vendu : veu du 1605sn 1628dR 1649Xa (6) auecques quels 1555 1589PV 1590SJ 1840 : auec quels &italic(){T.A.Eds.}(&italic(){sauf} : auec ques 1653AB 1665Ba) (7) il : ilz 1557U 1557B 1568X 1590Ro (8) se ralie : les ralie 1588-89 1612Me, se r'alie 1611B 1981EB (9) trouuera : treuuera 1627Di 1627Ma (10) prince : Prince 1588-89 1590SJ 1612Me 1644Hu 1649Ca 1650Le 1650Ri 1653AB 1665Ba 1667Wi 1668 1672Ga (11) que : q̃ 1557B 1612Me (12) boucher : Boucher 1672Ga (注記)q̃ は q の上に ~ が載っている字体。 *日本語訳 一人の皇帝がイタリアの近くに生まれ、 帝国にとても高く売られるだろう。 彼がどのような人々に加わるのかと噂され、 君主というよりも肉屋と思われるであろう。 **訳について  1行目について、[[ピーター・ラメジャラー]]は pres de を en や à に近い意味で理解し、「イタリアに生まれるだろう」と読んでいる。ラメジャラーはノストラダムスがしばしばそのような表現を用いているとしているが((Lemesurier [2003b]))、ここではとりあえず直訳した。中期フランス語の pres de は普通 auprès de(近くに、そばに)の意味であり((DMF))、[[ピエール・ブランダムール]]、[[高田勇]]・[[伊藤進]]、[[リチャード・シーバース]]らも「近く」の意味合いを入れて訳している。  2行目は「帝国に高い代償を払わせる」というように訳されることがあり、実質的にそういう意味だということは[[ピエール・ブランダムール]]らも支持しているのだが、ここでは直訳した。[[高田勇]]・[[伊藤進]]による訳でも直訳されている。  3行目 diront の主語がないが、三人称複数未来形であることから、ils(彼ら)などが省略されていると見るべき。また、噂の内容は「何という人々に加わるのか」とも訳せる。  既存の訳についてコメントしておく。  [[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]について。  2行目 「だれがその帝国を高く買うだろうか」((大乗 [1975] p.60。以下、この詩の引用は同じページから。))は誤訳。この場合の Qui は疑問代名詞ではなく関係代名詞だし、「買う」は受動態 sera vendu の訳として明らかにおかしい。  3行目「かれらは仲間の人々といい合う」も、quels が訳に反映されていないとしか思えず、不適切。Diront に続く内容は噂される中身を示しているという点は、諸論者が一致している。  4行目「彼は自分が王子よりも虐殺者の方が似合いだと気付くだろう」も不適切。元になったはずの[[ヘンリー・C・ロバーツ]]の英訳でも He shall de found... ((Roberts (1947)[1949] p.29))と受動態になっており、彼が自分のことを、といった意味合いにはなっておらず、根拠が不明である。  [[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]は大意としては問題ないが、後半2行「人々は彼が手を結ぶ連中を見ていうだろう/あいつは君主というより屠殺人だと」((山根 [1988] p.56))は原文に即して考えれば不適切。  3行目に「『見て』言う」という言葉はない。4行目は on trouvera(人々は思うだろう=世間からそう思われるだろう)が訳に反映されていない。 *信奉者側の見解  19世紀に入るまでにこの詩を解釈したのは[[テオフィル・ド・ガランシエール]](1672年)のみのようである。少なくとも、[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]、[[ジャック・ド・ジャン]]、[[バルタザール・ギノー]]、[[D.D.]]の各著作および[[1620年の匿名の解釈書>Petit discours ou Commentaire sur les Centuries]]、[[1656年の匿名の解釈書>Eclaircissement des veritables Quatrains de Maistre Michel Nostradamus]]には見当たらない。  ガランシエールは、ノストラダムスの時代から現在(1672年)までにそのような皇帝は登場しなかったから、未来の予言だろうとコメントしていた((Garencieres [1672]))。  ナポレオン・ボナパルトが登場すると、この詩は彼に適合するとされるようになった。  ナポレオンはイタリア本土近くのコルシカ島の出身で、度重なる戦争でフランス第一帝政に財政負担を強いた。その戦争とそこでの犠牲の多さは、肉屋・畜肉業者(フランス語では俗語的に多くの犠牲を強いる将軍などをこう呼ぶ)と呼びうるものである。  以上のような解釈を誰が最初に言い出したのかはよく分からない。  1800年の匿名の解釈書『暴かれた未来』には載っていない。8篇の詩をナポレオンに結び付けている[[テオドール・ブーイ]](1806年)も、この詩に触れていない。同じ年のベローの『ノストラダムスによって予言された初代皇帝ナポレオン』にも、この詩の解釈は載っていない。  その一方、1805年の『ランビギュ(混成物)、すなわち文学的・政治的雑報集』第10集には、この解釈が掲載されている((L'Ambigu: ou variétés littéraires et politiques, Tome.X))(この点後述)。  当「大事典」で確認している範囲で次に古いのは、アレクサンドル・ボニファスの『預言者たちによって予言されたボナパルト』(1814年)およびシャルル・マロの『ボナパルトの数奇な運命』(1814年)である。これらの本では、本文の一番初めに取り扱われているのがこの詩なのである((A. Boniface, Buonaparte prédit par des prophètes..., Paris, 1814 ; Ch. Malo, Aventures extraordinaires de Buonaparte, Paris, 1814))。  その後、[[フランシス・ジロー]](1839年)、[[ウジェーヌ・バレスト]](1840年)、[[アナトール・ル・ペルチエ]](1867年)、[[チャールズ・ウォード]](1891年)らがナポレオンと結びつけ、20世紀以降にそのような解釈をした論者は[[マックス・ド・フォンブリュヌ]]、[[アンドレ・ラモン]]、[[ロルフ・ボズウェル]]、[[ジェイムズ・レイヴァー]]らをはじめ、枚挙に暇がない((Le Pelletier [1867a] p.168, Girault [1839] p.34, Bareste [1840] p.521, Ward [1891] p.236, Fontbrune (1938)[1939] p.86, Lamont [1943] p.100, Boswell [1943] p.135, Laver [1952] p.165...))。   **懐疑的な視点  非常に有名な分、[[エドガー・レオニ]]、[[エヴリット・ブライラー]]、[[志水一夫]]といった懐疑論者からも検証されてきた。  レオニはこの詩が17世紀の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世にもよく当てはまると指摘している。彼はグラーツに生まれ、ヴァレンシュタインらを取り巻きとし、三十年戦争によって帝国に損害を与えたからである((Leoni (1961)[1982]))。  これに触発されたのか、志水は「かつてこの詩は、(中略)フェルディナンド二世(1578-1637)を予言したものではないかとされていたこともある」((志水 (1991)[1997] p.156。「フェルディナンド」という表記は原文のまま。))と、あたかもナポレオン登場以前の解釈であるかのように主張していたが、事実に反する疑いが強い。上述のように、ナポレオン登場以前のこの詩の解釈例自体がほとんど無いに等しく、フランス革命以前の主要な論者の著書には見当たらないからである。仮にレオニの指摘だけを念頭に置いていたのだとすれば、ナポレオンに当てはまるのと同様にフェルディナントにも当てはめられるというレオニの指摘と比べて、志水の紹介は明らかにミスリードを招く方向でニュアンスが異なっている。  志水はほかに、アドルフ・ヒトラーにも当てはまるとした上で、「イタリアの近く」とはいえないもののベニート・ムッソリーニに当てはめた者もいることを指摘し、「イタリアの近く」という地理的限定があまりにも曖昧だと指摘していた((志水 (1997)[1999] pp.155-156))。  ブライラーはより一般的にローマ皇帝の何人かにも当てはまるとしている((LeVert [1979]))。  この詩はノストラダムスの曖昧さの好例として、度々取り上げられてきた。そうした論者の例としては、上記以外だと[[ジェイムズ・ランディ]]、[[テレンス・ハインズ]]、[[山本弘]]((Randi [1982] , ハインズ [2011] p.90, 山本弘ほか『トンデモ超常現象99の真相』文庫版、p.349))などを挙げることが出来る。 **ナポレオン解釈の初出  現在確認できる最も古い言及は、前述の『ランビギュ』のもので(([[詩百篇1-60、ナポレオンの予言詩>>http://asakura.asablo.jp/blog/2018/09/14/8960082]]))、ボニファスとマロの各文献がそれに次ぐ。  『ランビギュ』の該当箇所を訳出しておこう。 「ナポレオンがコルシカで生まれ、フランス帝国に高い代価を払わせる運命にあったことを、ノストラダムスは見通していたように思えないだろうか。そして彼が加わることになる社交界というのは、フーシェ家、バラス家、タリアン家、サリセッティ家、ブリュヌ家、レアル家、オージュロー家、チュリオ家、メルラン家その他多くのことである。『彼らに加わる者〔訳者注:この解釈ではナポレオン〕は、君主としてではなくむしろ肉屋として受け止められるだろう』と我らの予言者が書き記した時、その双眼には、あれらの吸血鬼ども全てが映っていたのではなかったろうか。」  ナポレオンが皇帝になって間もなくこういう解釈が出ていることは興味深いが、『ランビギュ』はフランス語の文献であるのに、出版地が「ロンドン」となっている。  そして、同じ時期にフランスで刊行されていた解釈書では、ブーイもベローもナポレオンには結びつけていなかったのである。  この時期がナポレオンの絶頂期であり、イギリスは対仏大同盟で争っていた当事国であったこと、「君主というより肉屋」がフランス国内で確認できる最古の言及が(今のところ)1814年というのは興味深い。  ナポレオンがロシア遠征に失敗し、その権威が失墜すると、「コルシカの食人鬼」とする風刺画が多く出回るようになっていた((柴田・樺山・福井『フランス史2』p.450))。この詩をナポレオンと結びつける見解がフランス国内で広まったのは、もともとそうした政治的風刺の意味も込められていた可能性もある。  それゆえ、ナポレオンとする解釈について、フランス国内で1812年よりも遡るのは難しいのではないかと思われる。仮に遡れるとしても、おそらくは匿名の政治的パンフレットや地下出版の類ではないかと思われ、現代人が追跡するのには少なからぬ困難が伴うだろう。 *同時代的な視点  [[ロジェ・プレヴォ]]は13世紀の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世がモデルになっていると解釈した((Prévost [1999] pp.219-220))。  フリードリヒ2世はイタリア人の母を持つイタリア生まれ・イタリア育ちの人物で、両シチリア王も兼ねた。彼は現実主義者でアラビア語を解し、イスラーム文化にも敬意を払っていた。十字軍遠征においては、エルサレムを領有していたアイユーブ朝のスルタン、アル=カーミルと交渉を重ね、戦火を交えずにエルサレムを奪還した。彼らは書簡を交わして親交を深めてもいた((フリードリヒの事跡に関しては、プレヴォの解説が簡潔なため、菊池良生『神聖ローマ帝国』pp.102-112 も参照した))。  詩の情景は確かにあてはまる。フリードリヒ2世は中世においては「終末の皇帝」のモデルとなっており、祖父フリードリヒ1世(バルバロッサ)とともに、特別な存在でもあった。  [[ピーター・ラメジャラー]]もフリードリヒ2世をモデルとする読み方を支持している((Lemesurier [2003b]))。  ルネサンス期に「帝国」「皇帝」といえば、普通は神聖ローマ帝国が想定されていると考えるべきだろう。ただし、ノストラダムスはしばしば古代ローマ帝国をモデルにした詩を書いている。仮にこの詩もそうであった場合、候補となる「皇帝」はさらに増えることだろう。 ---- &bold(){コメントらん} 以下のコメント欄は[[コメントの著作権および削除基準>著作権について]]を了解の上でご使用ください。なお、当「大事典」としては、以下に投稿されたコメントの信頼性などをなんら担保するものではありません (当「大事典」管理者である sumaru 自身によって投稿されたコメントを除く)。 - 皇帝ナポレオン1世(仏)と同時に、皇帝ウィルヘルム1世(独)を二重に予言。(前者だけの説は有名すぎて省略)、後者の場合の“どのような人々…”は、首相ビスマルク(独)そして、大統領ティエール(仏)を指す。両者は普仏戦争の後に成立したパリ・コミューンを弾圧して、3万人の犠牲者が出たから。《共通の出来事の到来》とセザールの手紙に書かれているように、曖昧なのは、二つの事件を一つの詩篇で予言しているからだ! -- とある信奉者 (2013-03-05 23:19:40) - この詩のモデルは、ガリア帝国か??・・・ 《ローマ帝国軍人皇帝時代の260年から274年まで帝国から分離・独立して割拠した独立国家である。ローマ帝国の属州から離脱したガリア(ガリア・アクィタニア、ガリア・ベルギカなど)、ゲルマニア、ブリタンニア、ヒスパニア(タッラコネンシス、およびさらに南の平穏なヒスパニア・バエティカ)などから成り立った。》…Wikipediaより。 -- とある信奉者 (2013-03-08 22:31:52) #comment
[[詩百篇第1巻]]>60番* *原文 Vn Empereur naistra pres d'Italie&sup(){2}, Qui à&sup(){3} l'Empire&sup(){4} sera vendu&sup(){5} bien cher, Diront auecques quels&sup(){6} gens il&sup(){7} se ralie&sup(){8} Qu'on trouuera&sup(){9} moins prince&sup(){10} que&sup(){11} boucher&sup(){12}. **異文 (1) naistra : n’aistra 1612Me (2) d'Italie : dItalie 1716PRa (3) Qui à : Quia 1605sn, Qu'à 1611B 1981EB, Qui a 1628dR (4) l'Empire : l'empire 1605sn 1628dR 1649Xa (5) vendu : veu du 1605sn 1628dR 1649Xa (6) auecques quels 1555 1589PV 1590SJ 1840 : auec quels &italic(){T.A.Eds.}(&italic(){sauf} : auec ques 1653AB 1665Ba) (7) il : ilz 1557U 1557B 1568X 1590Ro (8) se ralie : les ralie 1588-89 1612Me, se r'alie 1611B 1981EB (9) trouuera : treuuera 1627Di 1627Ma (10) prince : Prince 1588-89 1590SJ 1612Me 1644Hu 1649Ca 1650Le 1650Ri 1653AB 1665Ba 1667Wi 1668 1672Ga (11) que : q̃ 1557B 1612Me (12) boucher : Boucher 1672Ga (注記)q̃ は q の上に ~ が載っている字体。 *日本語訳 一人の皇帝がイタリアの近くに生まれ、 帝国にとても高く売られるだろう。 彼がどのような人々に加わるのかと噂され、 君主というよりも肉屋と思われるであろう。 **訳について  1行目について、[[ピーター・ラメジャラー]]は pres de を en や à に近い意味で理解し、「イタリアに生まれるだろう」と読んでいる。ラメジャラーはノストラダムスがしばしばそのような表現を用いているとしているが((Lemesurier [2003b]))、ここではとりあえず直訳した。中期フランス語の pres de は普通 auprès de(近くに、そばに)の意味であり((DMF))、[[ピエール・ブランダムール]]、[[高田勇]]・[[伊藤進]]、[[リチャード・シーバース]]らも「近く」の意味合いを入れて訳している。  2行目は「帝国に高い代償を払わせる」というように訳されることがあり、実質的にそういう意味だということは[[ピエール・ブランダムール]]らも支持しているのだが、ここでは直訳した。[[高田勇]]・[[伊藤進]]による訳でも直訳されている。  3行目 diront の主語がないが、三人称複数未来形であることから、ils(彼ら)などが省略されていると見るべき。また、噂の内容は「何という人々に加わるのか」とも訳せる。  既存の訳についてコメントしておく。  [[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]について。  2行目 「だれがその帝国を高く買うだろうか」((大乗 [1975] p.60。以下、この詩の引用は同じページから。))は誤訳。この場合の Qui は疑問代名詞ではなく関係代名詞だし、「買う」は受動態 sera vendu の訳として明らかにおかしい。  3行目「かれらは仲間の人々といい合う」も、quels が訳に反映されていないとしか思えず、不適切。Diront に続く内容は噂される中身を示しているという点は、諸論者が一致している。  4行目「彼は自分が王子よりも虐殺者の方が似合いだと気付くだろう」も不適切。元になったはずの[[ヘンリー・C・ロバーツ]]の英訳でも He shall de found... ((Roberts (1947)[1949] p.29))と受動態になっており、彼が自分のことを、といった意味合いにはなっておらず、根拠が不明である。  [[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]は大意としては問題ないが、後半2行「人々は彼が手を結ぶ連中を見ていうだろう/あいつは君主というより屠殺人だと」((山根 [1988] p.56))は原文に即して考えれば不適切。  3行目に「『見て』言う」という言葉はない。4行目は on trouvera(人々は思うだろう=世間からそう思われるだろう)が訳に反映されていない。 *信奉者側の見解  19世紀に入るまでにこの詩を解釈したのは[[テオフィル・ド・ガランシエール]](1672年)のみのようである。少なくとも、[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]、[[ジャック・ド・ジャン]]、[[バルタザール・ギノー]]、[[D.D.]]の各著作および[[1620年の匿名の解釈書>Petit discours ou Commentaire sur les Centuries]]、[[1656年の匿名の解釈書>Eclaircissement des veritables Quatrains de Maistre Michel Nostradamus]]には見当たらない。  ガランシエールは、ノストラダムスの時代から現在(1672年)までにそのような皇帝は登場しなかったから、未来の予言だろうとコメントしていた((Garencieres [1672]))。  ナポレオン・ボナパルトが登場すると、この詩は彼に適合するとされるようになった。  ナポレオンはイタリア本土近くのコルシカ島の出身で、度重なる戦争でフランス第一帝政に財政負担を強いた。その戦争とそこでの犠牲の多さは、肉屋・畜肉業者(フランス語では俗語的に多くの犠牲を強いる将軍などをこう呼ぶ)と呼びうるものである。  以上のような解釈を誰が最初に言い出したのかはよく分からない。  1800年の匿名の解釈書『暴かれた未来』には載っていない。8篇の詩をナポレオンに結び付けている[[テオドール・ブーイ]](1806年)も、この詩に触れていない。同じ年のベローの『ノストラダムスによって予言された初代皇帝ナポレオン』にも、この詩の解釈は載っていない。  その一方、1805年の『ランビギュ(混成物)、すなわち文学的・政治的雑報集』第10集には、この解釈が掲載されている((L'Ambigu: ou variétés littéraires et politiques, Tome.X))(この点後述)。  当「大事典」で確認している範囲で次に古いのは、アレクサンドル・ボニファスの『預言者たちによって予言されたボナパルト』(1814年)およびシャルル・マロの『ボナパルトの数奇な運命』(1814年)である。これらの本では、本文の一番初めに取り扱われているのがこの詩なのである((A. Boniface, Buonaparte prédit par des prophètes..., Paris, 1814 ; Ch. Malo, Aventures extraordinaires de Buonaparte, Paris, 1814))。  その後、[[フランシス・ジロー]](1839年)、[[ウジェーヌ・バレスト]](1840年)、[[アナトール・ル・ペルチエ]](1867年)、[[チャールズ・ウォード]](1891年)らがナポレオンと結びつけ、20世紀以降にそのような解釈をした論者は[[マックス・ド・フォンブリュヌ]]、[[アンドレ・ラモン]]、[[ロルフ・ボズウェル]]、[[ジェイムズ・レイヴァー]]らをはじめ、枚挙に暇がない((Le Pelletier [1867a] p.168, Girault [1839] p.34, Bareste [1840] p.521, Ward [1891] p.236, Fontbrune (1938)[1939] p.86, Lamont [1943] p.100, Boswell [1943] p.135, Laver [1952] p.165...))。   **懐疑的な視点  非常に有名な分、[[エドガー・レオニ]]、[[エヴリット・ブライラー]]、[[志水一夫]]といった懐疑論者からも検証されてきた。  レオニはこの詩が17世紀の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世にもよく当てはまると指摘している。彼はグラーツに生まれ、ヴァレンシュタインらを取り巻きとし、三十年戦争によって帝国に損害を与えたからである((Leoni (1961)[1982]))。  これに触発されたのか、志水は「かつてこの詩は、(中略)フェルディナンド二世(1578-1637)を予言したものではないかとされていたこともある」((志水 (1991)[1997] p.156。「フェルディナンド」という表記は原文のまま。))と、あたかもナポレオン登場以前の解釈であるかのように主張していたが、事実に反する疑いが強い。  上述のように、ナポレオン登場以前のこの詩の解釈例自体がほとんど無いに等しく、フランス革命以前の主要な論者の著書には見当たらないからである。仮にレオニの指摘だけを念頭に置いていたのだとすれば、ナポレオンに当てはまるのと同様にフェルディナントにも当てはめられるというレオニの指摘と比べて、志水の紹介は明らかにミスリードを招く方向でニュアンスが異なっている。  志水はほかに、アドルフ・ヒトラーにも当てはまるとした上で、「イタリアの近く」とはいえないもののベニート・ムッソリーニに当てはめた者もいることを指摘し、「イタリアの近く」という地理的限定があまりにも曖昧だと指摘していた((志水 (1997)[1999] pp.155-156))。  ブライラーはより一般的にローマ皇帝の何人かにも当てはまるとしている((LeVert [1979]))。  この詩はノストラダムスの曖昧さの好例として、度々取り上げられてきた。そうした論者の例としては、上記以外だと[[ジェイムズ・ランディ]]、[[テレンス・ハインズ]]、[[山本弘]]((Randi [1982] , ハインズ [2011] p.90, 山本弘ほか『トンデモ超常現象99の真相』文庫版、p.349))などを挙げることが出来る。 **ナポレオン解釈の初出  現在確認できる最も古い言及は、前述の『ランビギュ』のもので(([[詩百篇1-60、ナポレオンの予言詩>>http://asakura.asablo.jp/blog/2018/09/14/8960082]]))、ボニファスとマロの各文献がそれに次ぐ。  『ランビギュ』の該当箇所を訳出しておこう。 「ナポレオンがコルシカで生まれ、フランス帝国に高い代価を払わせる運命にあったことを、ノストラダムスは見通していたように思えないだろうか。そして彼が加わることになる社交界というのは、フーシェ家、バラス家、タリアン家、サリセッティ家、ブリュヌ家、レアル家、オージュロー家、チュリオ家、メルラン家その他多くのことである。『彼らに加わる者〔訳者注:この解釈ではナポレオン〕は、君主としてではなくむしろ肉屋として受け止められるだろう』と我らの予言者が書き記した時、その双眼には、あれらの吸血鬼ども全てが映っていたのではなかったろうか。」  ナポレオンが皇帝になって間もなくこういう解釈が出ていることは興味深いが、『ランビギュ』はフランス語の文献であるのに、出版地が「ロンドン」となっている。  そして、同じ時期にフランスで刊行されていた解釈書では、ブーイもベローもナポレオンには結びつけていなかったのである。  この時期がナポレオンの絶頂期であり、イギリスは対仏大同盟で争っていた当事国であったこと、「君主というより肉屋」がフランス国内で確認できる最古の言及が(今のところ)1814年というのは興味深い。  ナポレオンがロシア遠征に失敗し、その権威が失墜すると、「コルシカの食人鬼」とする風刺画が多く出回るようになっていた((柴田・樺山・福井『フランス史2』p.450))。この詩をナポレオンと結びつける見解がフランス国内で広まったのは、もともとそうした政治的風刺の意味も込められていた可能性もある。  それゆえ、ナポレオンとする解釈について、フランス国内で1812年よりも遡るのは難しいのではないかと思われる。仮に遡れるとしても、おそらくは匿名の政治的パンフレットや地下出版の類ではないかと思われ、現代人が追跡するのには少なからぬ困難が伴うだろう。 *同時代的な視点  [[ロジェ・プレヴォ]]は13世紀の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世がモデルになっていると解釈した((Prévost [1999] pp.219-220))。  フリードリヒ2世はイタリア人の母を持つイタリア生まれ・イタリア育ちの人物で、両シチリア王も兼ねた。彼は現実主義者でアラビア語を解し、イスラーム文化にも敬意を払っていた。十字軍遠征においては、エルサレムを領有していたアイユーブ朝のスルタン、アル=カーミルと交渉を重ね、戦火を交えずにエルサレムを奪還した。彼らは書簡を交わして親交を深めてもいた((フリードリヒの事跡に関しては、プレヴォの解説が簡潔なため、菊池良生『神聖ローマ帝国』pp.102-112 も参照した))。  詩の情景は確かにあてはまる。フリードリヒ2世は中世においては「終末の皇帝」のモデルとなっており、祖父フリードリヒ1世(バルバロッサ)とともに、特別な存在でもあった。  [[ピーター・ラメジャラー]]もフリードリヒ2世をモデルとする読み方を支持している((Lemesurier [2003b]))。  ルネサンス期に「帝国」「皇帝」といえば、普通は神聖ローマ帝国が想定されていると考えるべきだろう。ただし、ノストラダムスはしばしば古代ローマ帝国をモデルにした詩を書いている。仮にこの詩もそうであった場合、候補となる「皇帝」はさらに増えることだろう。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。 ---- &bold(){コメントらん} 以下に投稿されたコメントは&u(){書き込んだ方々の個人的見解であり}、当「大事典」としては、その信頼性などをなんら担保するものではありません。  なお、現在、コメント書き込みフォームは撤去していますので、新規の書き込みはできません。 - 皇帝ナポレオン1世(仏)と同時に、皇帝ウィルヘルム1世(独)を二重に予言。(前者だけの説は有名すぎて省略)、後者の場合の“どのような人々…”は、首相ビスマルク(独)そして、大統領ティエール(仏)を指す。両者は普仏戦争の後に成立したパリ・コミューンを弾圧して、3万人の犠牲者が出たから。《共通の出来事の到来》とセザールの手紙に書かれているように、曖昧なのは、二つの事件を一つの詩篇で予言しているからだ! -- とある信奉者 (2013-03-05 23:19:40) - この詩のモデルは、ガリア帝国か??・・・ 《ローマ帝国軍人皇帝時代の260年から274年まで帝国から分離・独立して割拠した独立国家である。ローマ帝国の属州から離脱したガリア(ガリア・アクィタニア、ガリア・ベルギカなど)、ゲルマニア、ブリタンニア、ヒスパニア(タッラコネンシス、およびさらに南の平穏なヒスパニア・バエティカ)などから成り立った。》…Wikipediaより。 -- とある信奉者 (2013-03-08 22:31:52)

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