予兆詩第42番

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予兆詩第42番(旧38番) 1559年4月について *原文 Roy salué&sup(){1} Victeur, [[Imperateur]]&sup(){2}. La foy faussée, le royal&sup(){3} fait congnu. Sang [[Mathien>Æmathien]], Roy fait [[superateur]]&sup(){4}. La gent&sup(){5} superbe, humble par pleurs venu. ((原文は Chevignard [1999] p.134 による。)) **異文 (1) salué : salvé 1650Le (2) Imperateur : Impereateur 1605 1649Xa (3) royal : Royal 1594JF 1605 1628 1649Xa 1649Ca 1650Le 1668 (4) superateur : supereatur 1605 1649Xa (5) La gent : De gent 1594JF 1605 1628 1649Xa 1649Ca 1650Le 1668 **英訳版原文 The Kynge saluted with Victor imperator. The trouth broken, the kyngly deed knowen, Learned bloud, the Kyng made governour. The proude people, through teares to becom humble. (注記)この英訳は[[英訳版『1559年向けの暦』>An Almanacke for the yeare of oure Lorde God, 1559.]]に掲載されていたものである。1559年向けの予兆詩はオリジナルが現存していないこともあるので、参考のため掲載しておく。 *日本語訳 王は勝利者、皇帝と称えられる。 信頼は裏切られ、王家の事件が認識される。 エマティアの血が王を征服者にする。 傲慢な民族が涙を流して謙虚になる。 **訳について  Sang [[Mathien>Æmathien]](サン・マチアン)はとりあえず一般的な読み方で訳したが、信奉者時代のピーター・ラメジャラーが推測していたように Saint Matthieu(サン・マチュー)の誤植などだとすれば、3行目は前置詞などを補って「聖マタイの祝日に、王は征服者(勝利者)にされる」と訳せないこともない。  4行目「涙を流して」は直訳すれば「涙を通じて」「涙によって」。 *信奉者側の見解  [[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]は1557年と1559年の出来事が描かれているとした。彼はエマティアの血をフェリペ2世と関連付けている((Chavigny [1594] pp.48&62))。  [[ジョン・ホーグ]]は1559年4月にカトー・カンブレジ条約が締結されたことを踏まえ、その時のフェリペ2世についてなどの予言とした。エマティアをマケドニア王フィリッポスと結びつけてフェリペを導く解釈は、シャヴィニーと実質的に同じである((Hogue [1997/1999]))。  [[アナトール・ル・ペルチエ]]は、Mathien を AEmathien の語頭音消失と捉えるところまでは同じだが、それをルイ14世と結びつけ、ルイ14世の血を引くルイ18世が、ナポレオンの百日天下の前後に二度王位についたことを指すとした((Le Pelletier [1867a] pp.235-236))。  [[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]は、未来に現れるフランス王についての予言とした((Fontbrune [1980/1982]))。 *同時代的な視点  [[マリニー・ローズ]]は sang Mathien はエマティアの血という意味とハンガリー王マーチャーシュ(Matthias)との言葉遊びになっているとした上で、ハンガリー王だったこともある神聖ローマ皇帝フェルディナント1世(在位1556年 - 1564年)について書かれたものと解釈した((Rose [2002c]))。  ただし、当「大事典」としては、むしろアンリ2世が勝利者として称えられることを期待した詩ではないかという観点を提示しておきたい。  この観点では、1559年4月に結ばれたカトー・カンブレジ条約を的中させたようにも見えるが、それは不適切である。  その条約はイタリア戦争を終結させたという意味では非常に大きかったが、メス、トゥール、ヴェルダン、カレーといった奪還した地域の領有権などを確認した一方、サヴォワとピエモンテを手放したことで弱腰という批判を様々な陣営から招いたからである((柴田ほか『フランス史2』))。「征服者」として称えられるという詩の内容には、あまり合致していない条約だったといえるだろう。 ---- #comment
予兆詩第42番(旧38番) 1559年4月について *原文 Roy salué&sup(){1} Victeur, [[Imperateur]]&sup(){2}. La foy faussée, le royal&sup(){3} fait congnu. Sang [[Mathien>Æmathien]], Roy fait [[superateur]]&sup(){4}. La gent&sup(){5} superbe, humble par pleurs venu. ((原文は Chevignard [1999] p.134 による。)) **異文 (1) salué : salvé 1650Le (2) Imperateur : Impereateur 1605 1649Xa (3) royal : Royal 1594JF 1605 1628 1649Xa 1649Ca 1650Le 1668 (4) superateur : supereatur 1605 1649Xa (5) La gent : De gent 1594JF 1605 1628 1649Xa 1649Ca 1650Le 1668 **英訳版原文 The Kynge saluted with Victor imperator. The trouth broken, the kyngly deed knowen, Learned bloud, the Kyng made governour. The proude people, through teares to becom humble. (注記)この英訳は[[英訳版『1559年向けの暦』>An Almanacke for the yeare of oure Lorde God, 1559.]]に掲載されていたものである。1559年向けの予兆詩はオリジナルが現存していないこともあるので、参考のため掲載しておく。 *日本語訳 王は勝利者、皇帝と称えられる。 信頼は裏切られ、王家の事件が認識される。 エマティアの血が王を征服者にする。 傲慢な民族が涙を流して謙虚になる。 **訳について  Sang [[Mathien>Æmathien]](サン・マチアン)はとりあえず一般的な読み方で訳したが、信奉者時代のピーター・ラメジャラーが推測していたように Saint Matthieu(サン・マチュー)の誤植などだとすれば、3行目は前置詞などを補って「聖マタイの祝日に、王は征服者(勝利者)にされる」と訳せないこともない。  4行目「涙を流して」は直訳すれば「涙を通じて」「涙によって」。 *信奉者側の見解  [[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]は1557年と1559年の出来事が描かれているとした。彼はエマティアの血をフェリペ2世と関連付けている((Chavigny [1594] pp.48&62))。  [[ジョン・ホーグ]]は1559年4月にカトー・カンブレジ条約が締結されたことを踏まえ、その時のフェリペ2世についてなどの予言とした。エマティアをマケドニア王フィリッポスと結びつけてフェリペを導く解釈は、シャヴィニーと実質的に同じである((Hogue [1997/1999]))。  [[アナトール・ル・ペルチエ]]は、Mathien を AEmathien の語頭音消失と捉えるところまでは同じだが、それをルイ14世と結びつけ、ルイ14世の血を引くルイ18世が、ナポレオンの百日天下の前後に二度王位についたことを指すとした((Le Pelletier [1867a] pp.235-236))。  [[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]は、未来に現れるフランス王についての予言とした((Fontbrune [1980/1982]))。 *同時代的な視点  [[マリニー・ローズ]]は sang Mathien はエマティアの血という意味とハンガリー王マーチャーシュ(Matthias)との言葉遊びになっているとした上で、ハンガリー王だったこともある神聖ローマ皇帝フェルディナント1世(在位1556年 - 1564年)について書かれたものと解釈した((Rose [2002c]))。  ただし、当「大事典」としては、むしろアンリ2世が勝利者として称えられることを期待した詩ではないかという観点を提示しておきたい。  この観点では、1559年4月に結ばれたカトー・カンブレジ条約を的中させたようにも見えるが、それは不適切である。  その条約はイタリア戦争を終結させたという意味では非常に大きかったが、メス、トゥール、ヴェルダン、カレーといった奪還した地域の領有権などを確認した一方、サヴォワとピエモンテを手放したことで弱腰という批判を様々な陣営から招いたからである((柴田ほか『フランス史2』))。「征服者」として称えられるという詩の内容には、あまり合致していない条約だったといえるだろう。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。

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