ジャン・ド・ヴォゼル

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 &bold(){ジャン・ド・ヴォゼル}(Jean de Vauzelles, 1495年? - 1557年?)は、フランスの詩人、翻訳家。著書では本名を書かずに、銘句「真の熱情で」(D'un vray zèle)を筆名代わりとすることがまま見られた。 *生涯  [[リヨン]]で生まれ、イタリアで法学博士号と司祭の資格を手に入れた。フランスに戻ってからは、サン=ロマンの主任司祭に任命され、後にフランス王[[フランソワ1世]]の礼拝堂司祭にも任命されている。  詩人クレマン・マロやモーリス・セーヴの知人であり、自身でも作詩を多く行った。ちなみに、兄マチュー・ド・ヴォゼルの妻はセーヴの妹クローディーヌである。  彼の詩の中で最も知られるのは、『死神の幻影と飾られた顔』である。これは、ハンス・ホルバインによる51枚の木版画に合わせて四行詩を並べたもので、エンブレム・ブックの一つである。  ヴォゼルは[[マルグリット・ド・ナヴァル]]とも接点があり、しばしば詩を捧げていた。また、マルグリットの劇作品には、ヴォゼルが協力したものがあった可能性も指摘されている。  翻訳家としては、イタリア人作家ピエトロ・アレティーノの作品の翻訳を手掛けた。ヴォゼルはアレティーノの作品を多く訳しているが、これは、両者に交流があり、かつヴォゼルの翻訳を評価していたアレティーノが、ヴォゼルの許に新作を送っていたためである。ヴォゼルが翻訳を手掛けたアレティーノの作品は、フランス王宮でも受け入れられ、アレティーノの知名度の向上に貢献していた((生涯と書誌については、Georges Grente/ Michel Simonin (direction), &italic(){Dictionnaire des lettres françaises: le XVI&sup(){e} siècle}, Paris, 2001 ; Hoefer(direction), &italic(){Nouvelle biographie universelle depuis les temps les plus reculés jusqu'à nos jours}, Tome 46, Paris, 1866 ; Ludvic de Vauzelles, "Notice sur Jean de Vauzelles", &italic(){Revue du Lyonnais}, T.13, 1872 などによった。))。 **書誌 -自著 --『四人の福音書記者の福音的歴史』(リヨン、1526年) --『王太子の入市』(L'entrée de Monseigneur le Dauphin)、『王妃の入市』(L'entrée de la Reine)(リヨン、1533年) --『死の紋章』(Blason de la mort)(リヨン、1537年) --『死神の幻影と飾られた顔』(Les simulacres et histories faces de la mort)(リヨン、1538年) -翻訳 --『イエス・キリストの人間味』(Trois livres de l'Humanité de Jésus-Christ)(リヨン、1539年) --『イエス・キリストの情熱』(同上) --『懺悔の七つの聖詩』(Les sept psaumes de la penitence)(パリ、1541年) --『創世記』(La Genèse)(リヨン、1542年) いずれも原著はアレティーノの著作である。 *ノストラダムス関連  冒頭に記載した没年は通説によるものだが、ノストラダムスの『[[1562年向けの新たなる占筮>Pronostication Novvelle, Pour l'an mil cinq cents soixante deux. (Lyon)]]』には、ヴォゼルから受け取った書簡への返信の形をとった献辞が掲載されている。  この献辞の内容からするならば、ヴォゼルの没年は通説よりも後のこととなるだろう。  ちなみに、ヴォゼルは[[百詩篇第3巻55番]]を解釈して、ノストラダムスが[[アンリ2世]]の死を予言していたと褒めたらしいことが、献辞の文面から読み取れる。 ---- #comment
 &bold(){ジャン・ド・ヴォゼル}(Jean de Vauzelles, 1495年? - 1557年?)は、フランスの詩人、翻訳家。著書では本名を書かずに、銘句「真の熱情で」(D'un vray zèle)を筆名代わりとすることがまま見られた。 *生涯  [[リヨン]]で生まれ、イタリアで法学博士号と司祭の資格を手に入れた。フランスに戻ってからは、サン=ロマンの主任司祭に任命され、後にフランス王[[フランソワ1世]]の礼拝堂司祭にも任命されている。  詩人クレマン・マロやモーリス・セーヴの知人であり、自身でも作詩を多く行った。ちなみに、兄マチュー・ド・ヴォゼルの妻はセーヴの妹クローディーヌである。  彼の詩の中で最も知られるのは、『死神の幻影と飾られた顔』である。これは、ハンス・ホルバインによる51枚の木版画に合わせて四行詩を並べたもので、エンブレム・ブックの一つである。  ヴォゼルは[[マルグリット・ド・ナヴァル]]とも接点があり、しばしば詩を捧げていた。また、マルグリットの劇作品には、ヴォゼルが協力したものがあった可能性も指摘されている。  翻訳家としては、イタリア人作家ピエトロ・アレティーノの作品の翻訳を手掛けた。ヴォゼルはアレティーノの作品を多く訳しているが、これは、両者に交流があり、かつヴォゼルの翻訳を評価していたアレティーノが、ヴォゼルの許に新作を送っていたためである。ヴォゼルが翻訳を手掛けたアレティーノの作品は、フランス王宮でも受け入れられ、アレティーノの知名度の向上に貢献していた((生涯と書誌については、Georges Grente/ Michel Simonin (direction), &italic(){Dictionnaire des lettres françaises: le XVI&sup(){e} siècle}, Paris, 2001 ; Hoefer(direction), &italic(){Nouvelle biographie universelle depuis les temps les plus reculés jusqu'à nos jours}, Tome 46, Paris, 1866 ; Ludvic de Vauzelles, "Notice sur Jean de Vauzelles", &italic(){Revue du Lyonnais}, T.13, 1872 などによった。))。 **書誌 -自著 --『四人の福音書記者の福音的歴史』(リヨン、1526年) --『王太子の入市』(L'entrée de Monseigneur le Dauphin)、『王妃の入市』(L'entrée de la Reine)(リヨン、1533年) --『死の紋章』(Blason de la mort)(リヨン、1537年) --『死神の幻影と飾られた顔』(Les simulacres et histories faces de la mort)(リヨン、1538年) -翻訳 --『イエス・キリストの人間味』(Trois livres de l'Humanité de Jésus-Christ)(リヨン、1539年) --『イエス・キリストの情熱』(同上) --『懺悔の七つの聖詩』(Les sept psaumes de la penitence)(パリ、1541年) --『創世記』(La Genèse)(リヨン、1542年) いずれも原著はアレティーノの著作である。 *ノストラダムス関連  冒頭に記載した没年は通説によるものだが、ノストラダムスの『[[1562年向けの新たなる占筮>Pronostication Novvelle, Pour l'an mil cinq cents soixante deux. (Lyon)]]』には、ヴォゼルから受け取った書簡への返信の形をとった献辞が掲載されている。  この献辞の内容からするならば、ヴォゼルの没年は通説よりも後のこととなるだろう。  ちなみに、ヴォゼルは[[百詩篇第3巻55番]]を解釈して、ノストラダムスが[[アンリ2世]]の死を予言していたと褒めたらしいことが、献辞の文面から読み取れるといわれている([[ヴォゼルによる百詩篇第3巻55番の解釈]]を参照のこと)。 ---- #comment

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