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&bold(){フロラン・ド・クロクス}あるいは&bold(){フロラン・ド・クロー}(Florent de Crox, 生没年未詳)は、16世紀フランスの占星術師である。[[ノストラダムス]]に便乗して、自著の著者名に「故ミシェル・ノストラダムス師の弟子」という肩書きを常につけていたが、ノストラダムス本人との接点は確認されていない。
#ref(crox.PNG)
【画像】フロラン・ド・クローの肖像画(『1570年向けの暦』扉の木版画)((画像の出典:[[http://www.propheties.it/]]))
*著作
この人物による著作は現存しないものも含めて5冊確認されているが、すべて暦書である。
-『1570年向けの暦』(Almanach, Pour l'An M.D.LXX., 1569年頃)
-『1574年向けの暦』(Almanach pour l'an 1574)
-『1583年向けの暦と占筮』(Almanach et Pronostication pour l'an 1583.)
-『1586年向けの暦書あるいは改訂された天文暦』(Almanach, ou Ephemeride Reformez pour l'An de grace, mil cinq cens quatre vingts & six)
-『閏年である1596年向けの暦』(Almanach pour L'an de Bissexte, M.D.IIII.XX.XVI.)
これら以外の年、特に1570年から1585年までの確認されていない各年向けにも暦書を刊行していた可能性は当然想定されるべきだが、確認されていない。
*経歴
この人物の経歴は一切明らかになっていない。[[ラ・クロワ・デュ・メーヌ]]は[[ジャン・ル・プルチエ]](Jean le Peletier)だとしていたが、ラ・クロワ・デュ・メーヌの書誌にはジャン・ル・プルチエという人物は載っていない((La Croix du Maine et Antoine Du Verdier, Les bibliothèques françoises de La Croix du Maine et de Du Verdier, Tome 2, 1772, p.296))。
18世紀の段階でジャン・ル・プルチエは、コレージュ・ド・ナヴァルの神学教授ジャン・ペルチエ(Jean Pelletier)を兄に持つ著名な詩人ジャック・ペルチエ(ジャック・ペルチエ・デュ・マン, 1517年-1582年)の誤りだとする見解が存在していた。日本では[[高田勇]]がこの見解を支持している((ibid., p.297 ; 高田勇「フランス文学史の中のノストラダムス」『ノストラダムスとルネサンス』p.46))。
他方で[[ピエール・ブランダムール]]は、ラ・クロワ・デュ・メーヌが指摘したのはあくまでもジャン・ル・プルチエであって、ペルチエ・デュ・マンと混同すべきではないと指摘している((Brind'Amour [1993] pp.57-58))。
*読み方
この人物の名前 Crox は「クロクス」とも「クロー」とも読める。ブランダムールは「クロー」と読み、[[ノストラダムス2世]]が自分以外の偽ノストラダムスを批判する時に挙げた「ノストラダムスがいた地域の名を姓に使っている者」は、このクロクスを仄めかしたものではないかと指摘した((ibid.))。ノストラダムスが晩年に暮らしていた町サロンはクロー平野(Crau)にあったからである。
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&bold(){フロラン・ド・クロクス}あるいは&bold(){フロラン・ド・クロー}(Florent de Crox, 生没年未詳)は、16世紀フランスの占星術師である。[[ノストラダムス]]に便乗して、自著の著者名に「故ミシェル・ノストラダムス師の弟子」という肩書きを常につけていたが、ノストラダムス本人との接点は確認されていない。
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【画像】フロラン・ド・クローの肖像画(『1570年向けの暦』扉の木版画)((画像の出典:[[http://www.propheties.it/]]))
*著作
この人物による著作は現存しないものも含めて5冊確認されているが、すべて暦書である。
-『1570年向けの暦』(Almanach, Pour l'An M.D.LXX.)
-『1574年向けの暦』(Almanach pour l'an 1574)
-『1583年向けの暦と占筮』(Almanach et Pronostication pour l'an 1583.)
-『1586年向けの暦書あるいは改訂された天文暦』(Almanach, ou Ephemeride Reformez pour l'An de grace, mil cinq cens quatre vingts & six)
-『閏年である1596年向けの暦』(Almanach pour L'an de Bissexte, M.D.IIII.XX.XVI.)
これら以外の年、特に1570年から1585年までの確認されていない各年向けにも暦書を刊行していた可能性は当然想定されるべきだが、確認されていない。
*経歴
この人物の経歴は一切明らかになっていない。[[ラ・クロワ・デュ・メーヌ]]は[[ジャン・ル・プルチエ]](Jean le Peletier)だとしていたが、ラ・クロワ・デュ・メーヌの書誌にはジャン・ル・プルチエという人物は載っていない((La Croix du Maine et Antoine Du Verdier, Les bibliothèques françoises de La Croix du Maine et de Du Verdier, Tome 2, 1772, p.296))。
18世紀の段階でジャン・ル・プルチエは、コレージュ・ド・ナヴァルの神学教授ジャン・ペルチエ(Jean Pelletier)を兄に持つ著名な詩人ジャック・ペルチエ(ジャック・ペルチエ・デュ・マン, 1517年-1582年)の誤りだとする見解が存在していた。日本では[[高田勇]]がこの見解を支持している((ibid., p.297 ; 高田勇「フランス文学史の中のノストラダムス」『ノストラダムスとルネサンス』p.46))。
他方で[[ピエール・ブランダムール]]は、ラ・クロワ・デュ・メーヌが指摘したのはあくまでもジャン・ル・プルチエであって、ペルチエ・デュ・マンと混同すべきではないと指摘している((Brind'Amour [1993] pp.57-58))。
*読み方
この人物の名前 Crox は「クロクス」とも「クロー」とも読める。ブランダムールは「クロー」と読み、[[ノストラダムス2世]]が自分以外の偽ノストラダムスを批判する時に挙げた「ノストラダムスがいた地域の名を姓に使っている者」は、このクロクスを仄めかしたものではないかと指摘した((ibid.))。ノストラダムスが晩年に暮らしていた町サロンはクロー平野(Crau)にあったからである。
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