ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1605年)

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 1605年版の『予言集』は、出版社名も出版地も記載されていない版だが、内容上は非常に重要である。 #ref(1605.JPG) 【画像】第一部の扉((画像の出典:[[http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nostradamus_Centuries_1605.jpg]])) *正式名 第一部 - Les Propheties de M. Michel Nostradamus. --Reueues & corigées sur la coppie Imprimee à Lyon par Benoist Rigaud.1568. -ミシェル・ノストラダムス師の予言集 --1568年にリヨンで出されたブノワ・リゴーの版に基づき校正・改訂された版 第二部 -Les Propheties de M. Michel Nostradamus. --Centuries VIII.IX.X. Qui n'auoient esté premierement Imprimees : & sont en la mesme edition de 1568. -ミシェル・ノストラダムス師の予言集 --初版では印刷されず、1568年になって刊行された百詩篇第八・九・十巻 *内容  第一序文([[セザールへの手紙]])、百詩篇第1巻~第7巻、第二序文、百詩篇第8巻~第10巻、第11巻と第12巻の断片、予兆詩、六行詩の順に収録されている。  第6巻には[[補遺篇の100番>百詩篇第6巻100番]]が収録された。  第7巻には補遺篇の[[73番>百詩篇第7巻73番]]、[[80番>百詩篇第7巻80番]] [[82番>百詩篇第7巻82番]] [[83番>百詩篇第7巻83番]]が収録された。ここには「百詩篇第7巻に含まれる12篇から引用されたその他の四行詩。そのうち、先行する百詩篇に存在する8篇は削除された」(Autres Quatrains tirez de 12. soubz la Centurie septiesme : dont en ont esté reiectez 8. qui se sont trouuez és Centuries precedentes.)という題名がある(意味は後述)。  第8巻には「元々百詩篇第8巻として印刷されたその他の四行詩」(Autres Quatrains cy devant imprimez soubz la Centurie huictiesme.)という題名とともに、補遺篇(番外詩)の[[1番>百詩篇第8巻1番 (補遺篇)]]から[[6番>百詩篇第8巻6番 (補遺篇)]]が収録された。  第10巻には[[101番と位置付けられることもある四行詩>Adiousté depuis l'impression de 1568.]]を含んでいる。これらの補遺篇や第11巻と第12巻の断片が『予言集』に組み込まれたのはこの版が最初である。  第11巻と第12巻が『予言集』に組み込まれたのもこれが初めてだが、ロベール・ブナズラは特に[[百詩篇第12巻56番]]の存在を強調している。というのは、1611年のピエール・シュヴィヨ版や1627年にリヨンで出された版などの第12巻には、この詩だけが載っていないからである。  また、毎年発表されていた予兆詩が「予兆詩集」としてひとまとめにされて『予言集』に併録されたのも、このときが初めてである。この予兆詩は[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]が『フランスのヤヌスの第一の顔』で紹介していた題材に基づいており、シャヴィニーが自分の解釈順に提示していたものを、発表時の年代順に並べなおして141番まで番号を振っている。[[ベルナール・シュヴィニャール]]が154篇の校訂版を発表するまで、この番号は踏襲され続けた。  六行詩も、[[ヴァンサン・セーヴ]]による1605年3月19日付の献辞とともに初めて登場した。 *特色  上記の通り、百詩篇補遺、予兆詩、六行詩が初登場したという点で重要である。また、当「大事典」の原文比較などからも明らかなように、[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]の異文を踏襲しているのも特徴的である。  その顕著な例として[[百詩篇第7巻17番]]を挙げておこう((当「大事典」上方の検索窓に「1594JF」と入力すれば、シャヴィニーの異文(1594JF)が存在する他の百詩篇の記事をリストアップすることができる。))。また、シャヴィニーが誤って詩番号を記載していた事例でもきちんと異文を取り込んでおり、作成者がかなり慎重に原文比較を行ったことが窺える。  また、百詩篇第7巻と第8巻の補遺篇については、1588年から1589年にかけてパリで出版された版(例えば[[ニコラ・ロフェ未亡人版>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (ニコラ・ロフェ未亡人、1588年)]])から転載しているが、その際に予兆詩との比較を行い、重複していた7つの詩篇を省いている((「8つの詩篇」を省いたとしているのは、補遺篇の第7巻72番が第6巻31番との重複によって省かれたため))。  [[百詩篇唯一のラテン語詩>愚かな批評家に対する法の警句]]も、[[クリニトゥス]]のオリジナルに近い異文を含んでおり、先行する『予言集』を写したのでなく、オリジナルとの比較を行った可能性がある。  これらからは、底本としたであろう[[1568年版>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1568年)]]以外にもいくつもの参考文献を基にしたことが窺える。それらは非常に強い思い入れを持って編纂したことを示しているが、反面、誤植の多さや業者名を伏せて出版していることなど、情熱の強さと矛盾する要素を含んでいることも事実である。 *出版業者  扉に記載はなく、奥付も存在しない。しかし、以前からトロワの[[ピエール・デュ・リュオー]]が出版したのではないかといわれてきた((cf. Chomarat [1989] p.90))。[[ロベール・ブナズラ]]は帯模様などの比較などを通じ、その推測には十分な根拠があることを示した((Benazra [1990] p.156))。  しかし、1605年頃はリュオー家の中で活動していた人物がいない時期であったことも意識しておく必要はあるだろう。  なお、[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]のように、早合点して[[ブノワ・リゴー]]を出版業者名として掲げる論者もいるが、それはありえない。リゴーは1597年3月に歿しているからだ。  また、[[ヴァンサン・セーヴ]]を出版業者として挙げる論者もいるが、セーヴの経歴は不明なので慎重さを欠く推測といえるだろう。 *出版年  扉には「M.DCV.」とあり、1605年に出版されたと主張している。ブナズラは六行詩に添えられた献辞の日付との一致や、新しく追加された六行詩4篇などを根拠に、確かに1605年に出版されたとしている((Benazra [1990] pp.156, 164))。  [[ミシェル・ショマラ]]は反マザランの偽の詩篇([[偽42番>百詩篇第7巻42番bis]]、[[偽43番>百詩篇第7巻43番]])が含まれていないことから、確かに1605年に出版されたものと推測している((Chomarat [1989] p.90))。  他方で偽作説も存在している。この版は[[偽1568年版>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1649年頃の偽版)]]と共通する木版画を表紙に掲げている。ただし、よく見ると非常に細かい部分に違いがいくつもあり、そのまま転用されたわけではない。  通常は、偽版の作者が底本とした1605年版の木版画をそのまま剽窃したためと理解されるが、[[ダニエル・ルソ]]はこれら全てがまとめて1649年頃に偽作されたと主張していた。 *所蔵先 -フランス国立図書館、オルレアン市立図書館、サンス市立図書館、グルノーブル市立図書館、ル・ピュイ市立図書館、リブルヌ市立図書館、ニオール市立図書館、アルスナル図書館、マザラン図書館、サントジュヌヴィエーヴ図書館、[[ポール・アルボー博物館]]、大英図書館、オックスフォード大学ボドレー図書館、ウェルカム医学史研究所、オーストリア国立図書館、デンマーク王立図書館、ポルトガル国立図書館、スペイン国立図書館、チェコ国立図書館、スウェーデン王立図書館、アールガウ州立図書館(スイス)、ゾロトゥルン中央図書館(スイス)、リヨン市立図書館ショマラ文庫  私蔵している人物として[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]、[[マリオ・グレゴリオ]]らがいる。かつては[[ダニエル・ルソ]]の蔵書にも含まれていた。  当「大事典」管理者も1冊私蔵している。  これらは全く同じ時期・工房で出版されたわけではないのだろう。実際、ブナズラはニオールとグルノーブルの蔵書では、六行詩のタイトルで「ノストラダムス」となるべき箇所が「モストラダムス」(Mostradamus)と書かれていることを指摘している((Benazra [1990] p.161))(マリオ・グレゴリオが公開している版や、当「大事典」の蔵書もそうなっている)。  大英図書館の蔵書などではそうなっておらず、これらの版が組版を改められて刷られたことを示唆している。 ---- #comment
 1605年版の『予言集』は、出版社名も出版地も記載されていない版だが、内容上は非常に重要である。 #ref(1605.JPG) 【画像】第一部の扉((画像の出典:[[http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nostradamus_Centuries_1605.jpg]])) *正式名 第一部 - Les Propheties de M. Michel Nostradamus. --Reueues & corigées sur la coppie Imprimee à Lyon par Benoist Rigaud.1568. -ミシェル・ノストラダムス師の予言集 --1568年にリヨンで出されたブノワ・リゴーの版に基づき校正・改訂された版 第二部 -Les Propheties de M. Michel Nostradamus. --Centuries VIII.IX.X. Qui n'auoient esté premierement Imprimees : & sont en la mesme edition de 1568. -ミシェル・ノストラダムス師の予言集 --初版では印刷されず、1568年になって刊行された百詩篇第八・九・十巻 *内容  第一序文([[セザールへの手紙]])、百詩篇第1巻~第7巻、第二序文、百詩篇第8巻~第10巻、第11巻と第12巻の断片、予兆詩、六行詩の順に収録されている。  第6巻には[[補遺篇の100番>百詩篇第6巻100番]]が収録された。  第7巻には補遺篇の[[73番>百詩篇第7巻73番]]、[[80番>百詩篇第7巻80番]] [[82番>百詩篇第7巻82番]] [[83番>百詩篇第7巻83番]]が収録された。ここには「百詩篇第7巻に含まれる12篇から引用されたその他の四行詩。そのうち、先行する百詩篇に存在する8篇は削除された」(Autres Quatrains tirez de 12. soubz la Centurie septiesme : dont en ont esté reiectez 8. qui se sont trouuez és Centuries precedentes.)という題名がある(意味は後述)。  第8巻には「元々百詩篇第8巻として印刷されたその他の四行詩」(Autres Quatrains cy devant imprimez soubz la Centurie huictiesme.)という題名とともに、補遺篇(番外詩)の[[1番>百詩篇第8巻1番 (補遺篇)]]から[[6番>百詩篇第8巻6番 (補遺篇)]]が収録された。  第10巻には[[101番と位置付けられることもある四行詩>Adiousté depuis l'impression de 1568.]]を含んでいる。これらの補遺篇や第11巻と第12巻の断片が『予言集』に組み込まれたのはこの版が最初である。  第11巻と第12巻が『予言集』に組み込まれたのもこれが初めてだが、ロベール・ブナズラは特に[[百詩篇第12巻56番]]の存在を強調している。というのは、1611年のピエール・シュヴィヨ版や1627年にリヨンで出された版などの第12巻には、この詩だけが載っていないからである。  また、毎年発表されていた予兆詩が「予兆詩集」としてひとまとめにされて『予言集』に併録されたのも、このときが初めてである。この予兆詩は[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]が『フランスのヤヌスの第一の顔』で紹介していた題材に基づいており、シャヴィニーが自分の解釈順に提示していたものを、発表時の年代順に並べなおして141番まで番号を振っている。[[ベルナール・シュヴィニャール]]が154篇の校訂版を発表するまで、この番号は踏襲され続けた。  六行詩も、[[ヴァンサン・セーヴ]]による1605年3月19日付の献辞とともに初めて登場した。 *特色  上記の通り、百詩篇補遺、予兆詩、六行詩が初登場したという点で重要である。また、当「大事典」の原文比較などからも明らかなように、[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]の異文を踏襲しているのも特徴的である。  その顕著な例として[[百詩篇第7巻17番]]を挙げておこう((当「大事典」上方の検索窓に「1594JF」と入力すれば、シャヴィニーの異文(1594JF)が存在する他の百詩篇の記事をリストアップすることができる。))。また、シャヴィニーが誤って詩番号を記載していた事例でもきちんと異文を取り込んでおり、作成者がかなり慎重に原文比較を行ったことが窺える。  また、百詩篇第7巻と第8巻の補遺篇については、1588年から1589年にかけてパリで出版された版(例えば[[ニコラ・ロフェ未亡人版>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (ニコラ・ロフェ未亡人、1588年)]])から転載しているが、その際に予兆詩との比較を行い、重複していた7つの詩篇を省いている((「8つの詩篇」を省いたとしているのは、補遺篇の第7巻72番が第6巻31番との重複によって省かれたため))。  [[百詩篇唯一のラテン語詩>愚かな批評家に対する法の警句]]も、[[クリニトゥス]]のオリジナルに近い異文を含んでおり、先行する『予言集』を写したのでなく、オリジナルとの比較を行った可能性がある。  これらからは、底本としたであろう[[1568年版>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1568年)]]以外にもいくつもの参考文献を基にしたことが窺える。それらは非常に強い思い入れを持って編纂したことを示しているが、反面、誤植の多さや業者名を伏せて出版していることなど、情熱の強さと矛盾する要素を含んでいることも事実である。 *出版業者  扉に記載はなく、奥付も存在しない。しかし、以前からトロワの[[ピエール・デュ・リュオー]]が出版したのではないかといわれてきた((cf. Chomarat [1989] p.90))。[[ロベール・ブナズラ]]は帯模様などの比較などを通じ、その推測には十分な根拠があることを示した((Benazra [1990] p.156))。  しかし、1605年頃はリュオー家の中で活動していた人物がいない時期であったことも意識しておく必要はあるだろう。  なお、[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]のように、早合点して[[ブノワ・リゴー]]を出版業者名として掲げる論者もいるが、それはありえない。リゴーは1597年3月に歿しているからだ。  また、[[ヴァンサン・セーヴ]]を出版業者として挙げる論者もいるが、セーヴの経歴は不明なので慎重さを欠く推測といえるだろう。 *出版年  扉には「M.DCV.」とあり、1605年に出版されたと主張している。ブナズラは六行詩に添えられた献辞の日付との一致や、新しく追加された六行詩4篇などを根拠に、確かに1605年に出版されたとしている((Benazra [1990] pp.156, 164))。  [[ミシェル・ショマラ]]は反マザランの偽の詩篇([[偽42番>百詩篇第7巻42番bis]]、[[偽43番>百詩篇第7巻43番]])が含まれていないことから、確かに1605年に出版されたものと推測している((Chomarat [1989] p.90))。  他方で偽作説も存在している。この版は[[偽1568年版>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1649年頃の偽版)]]と共通する木版画を表紙に掲げている。ただし、よく見ると非常に細かい部分に違いがいくつもあり、そのまま転用されたわけではない。  通常は、偽版の作者が底本とした1605年版の木版画をそのまま剽窃したためと理解されるが、[[ダニエル・ルソ]]はこれら全てがまとめて1649年頃に偽作されたと主張していた。 *所蔵先 -フランス国立図書館、オルレアン市立図書館、サンス市立図書館、グルノーブル市立図書館、ル・ピュイ市立図書館、リブルヌ市立図書館、ニオール市立図書館、リヨン市立図書館ショマラ文庫、アルスナル図書館、マザラン図書館、サントジュヌヴィエーヴ図書館、[[ポール・アルボー博物館]] -大英図書館、オックスフォード大学ボドレー図書館、ウェルカム医学史研究所、オーストリア国立図書館、デンマーク王立図書館、ポルトガル国立図書館、スペイン国立図書館、チェコ国立図書館、スウェーデン王立図書館、アールガウ州立図書館(スイス)、ゾロトゥルン中央図書館(スイス) -私蔵している人物として[[マリオ・グレゴリオ]]がいる。かつては[[ダニエル・ルソ]]、[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]の蔵書にも含まれていた。 -当「大事典」管理者も1冊私蔵している。  これらは全く同じ時期・工房で出版されたわけではないのだろう。実際、ブナズラはニオールとグルノーブルの蔵書では、六行詩のタイトルで「ノストラダムス」となるべき箇所が「モストラダムス」(Mostradamus)と書かれていることを指摘している((Benazra [1990] p.161))(マリオ・グレゴリオが公開している版や、当「大事典」の蔵書もそうなっている)。  大英図書館の蔵書などではそうなっておらず、これらの版が組版を改められて刷られたことを示唆している。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。

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