詩百篇第10巻17番


原文

La royne1 Ergaste2 voiant sa fille blesme,
Par3 vn regret dans l'estomach4 encloz,
Crys5 lamentables seront lors d'Angolesme6,
Et au germain7 mariage fort clos8.

異文

(1) royne 1568 : Royne T.A.Eds. (sauf : Reyne 1653AB 1665Ba 1672Ga 1720To, reyne 1840)
(2) Ergaste : estrange 1606PR 1607PR 1610Po 1627Ma 1627Di 1644Hu 1650Ri 1653AB 1665Ba 1716PR 1720To
(3) Par : Prr 1650Mo
(4) l’estomach : l’estomac 1650Mo
(5) Crys : Grys 1649Xa
(6) d'Angolesme : d'Angoulesme 1590Ro
(7) au germain : au germains 1606PR 1606PR 1610Po 1716PR, aux germains 1627Ma 1644Hu 1650Ri 1650Le 1653AB 1665Ba 1667Wi 1668A 1668P 1720To, aux germins 1627Di
(8) fort clos 1568 1590Ro 1772Ri : forclos 1591BR & T.A.Eds.

(注記)マリオ・グレゴリオが公表している1628dRの異本では d'Angoleime となっているように読める。

校訂

 1行目 Ergaste か estrange かについては、前者の読み方が難しいとはいえ、後者を支持する理由はないだろう。
 4行目 fort clos はむしろ forclos (除外された)の方が意味が通りやすい。

日本語訳

一計を案じる王妃は蒼ざめた娘を見る、
肚の中に閉じ込められた後悔によって。
そのとき、悲痛な叫びがアングレームから発するだろう。
そしてゲルマニア人との結婚はきっぱりと閉ざされる。

訳について

 1行目は Ergaste の読み方によっては、「囚われの王妃」とも訳せる。また、Royne は「王妃」「女王」のどちらにも訳せる。
 4行目 germain は「ゲルマニア人」とも「兄弟」とも訳せるが、ここではロジェ・プレヴォジャン=ポール・クレベールピーター・ラメジャラーらの読み方に従った。

 山根訳はほとんど許容範囲内であろう。
 大乗訳1行目「女王アーガストは彼女の娘を真っ青にし」*1は、voyant をなぜ使役の意味に取れるのか不明。2行目「胸中に後悔をおこさせ」も同じような理由で不適切。

信奉者側の見解

 テオフィル・ド・ガランシエールは Ergaste が意味不明なのを除けば平易だと述べていたが、具体的には説明していなかった。

 アナトール・ル・ペルチエは、この詩をマリー・アントワネットとその娘マリー=テレーズ=シャルロット・ド・フランスに結びつけた。「囚われの王妃」とは、フランス革命中にタンプル塔に幽閉されていたことを指すと同時に(Ergastulus は抑留された奴隷をさすことから)自分の手で繕い物をしなければならなかった幽閉中の状況に合致するとした。
 後半はマリー=テレーズ=シャルロットが1787年に9歳で血の繋がった従兄弟のアングレーム公と婚約し、公妃となることが約束されながら、革命によって1799年まで結婚できなかったことを的中させたとした。
 なお、ル・ペルチエは普段ピエール・リゴー版を重視していたが、この詩についてはブノワ・リゴー版の royne Ergaste を採用した。ただし、ピエール・リゴー版に見られる royne estrange (異国の王妃)も、オーストリア出身のマリー・アントワネットによく当てはまると、脚注で補足していた*2

 この解釈は信奉者達の間でほぼ定説化し、チャールズ・ウォードジェイムズ・レイヴァーエリカ・チータムセルジュ・ユタンジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌクルト・アルガイヤーら、多くの欧米の信奉者たちが踏襲している*3

同時代的な視点

 ロジェ・プレヴォは、ここでの「王妃」をフランス王妃アンヌ・ド・ブルターニュと見なし、この詩のモデルは1504年に彼女の計画が挫折したことと解釈した。アンヌは娘のクロードを、神聖ローマ皇帝の孫カール(のちの皇帝カール5世)に嫁がせようとした。しかし、ブロワの会議は一致してこれを認めず、「ゲルマニア人との結婚はきっぱり閉ざされる」こととなった。
 代わりにクロードは、アングレーム家のフランソワ(のちのフランス王フランソワ1世)に嫁ぐこととなった。当時、フランス王ルイ12世には男児がなかったので、順当に行けばフランソワに王位が転がり込むことになっていた。しかし、アンヌは自らが男児を懐妊することにも望みをつないでおり、そのことがフランソワの母ルイーズ・ド・サヴォワを嘆かせること(「アングレームからの悲痛な叫び」)につながった*4。実際にはアンヌが世継ぎを懐妊することはなく、フランソワが王位を継いだ。
 ピーター・ラメジャラーはこの解釈を支持している*5


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最終更新:2019年01月01日 19:33

*1 大乗 [1975] p.288

*2 Le Pelletier [1867a] p.184

*3 Ward [1891] p.263, Cheetham [1973/1990], Hutin [1978/2002], Fontbrune [1980/1982] , Allgeier [1989], レイヴァー [1999] pp.255-257

*4 Prévost [1999] pp.89-90

*5 Lemesurier [2003b]