百詩篇第10巻73番

原文

Le temps present auecques 1 le passé,
Sera iugé par grand Iouialiste 2 ,
Le monde 3 tard luy 4 sera lassé,
Et desloial 5 par le clergé 6 iuriste 7 .

異文

(1) auecques : auecque 1665 1672
(2) Iouialiste : Jomaliste 1672
(3) monde : Monde 1672
(4) luy : de luy 1568A 1590Ro 1672, par luy 1644 1650Ri 1653 1665 1660 1668 1840
(5) desloial : desloyl 1611A
(6) clergé : clerge 1568A 1590Ro 1627, Clergé 1644 1653 1665 1672 1840
(7) iuriste : Iuriste 1644

(注記1)1672の Jomaliste は英訳では正しく Jovialiste と表記されている。
(注記2)1840 は3行目 par luy を採用しているが、解釈部分では (de) luy とカッコ付きの de に書き換えている。

校訂

 3行目についてピエール・ブランダムールは、luy と par luy を比較し、韻律上は par luy が好ましいとしていた *1 。もっとも、それならば意味の上でもほとんど変わらない 1568A の de luy が本来の形ではなかったかと思える(ブランダムールの時点では、この異文自体が認識されていなかった)。

日本語訳

今の時代は過去とともに、
偉大なユピテル主義者に裁かれるだろう。
世界は後に彼に疲弊させられ、
そして教会の法曹家により不誠実とされるだろう。

訳について

 le clergé iuriste はピーター・ラメジャラーの英訳 priestly lawyers *2ジャン=ポール・クレベールの釈義 les juristes eccléastiques *3 を参照し、直訳した。

 大乗訳2行目「陽気な人にさばかれ」 *4 は jovial (陽気な)の派生語と捉えたものだろうが、歴史的に考えるならユピテル主義者と理解すべきだろう。
 同3行目「世界はついに彼を疲れさせる」は不適切。de luy ないし par luy を採用する場合、こうした訳は決して採れない。
 同4行目「そして信頼なく教会は危機をむかえる」は誤訳。ヘンリー・C・ロバーツの英訳 And shall be thought without faith by churchly critics. *5 の critics を crisis と見間違えたのではないだろうか。

 山根訳は後半が微妙に思えるが、一応そうも訳せないことはないかもしれない。

信奉者側の見解

 テオフィル・ド・ガランシエールはフランソワ・ラブレーについての予言とした。アンドレ・ラモンヘンリー・C・ロバーツも同じ見解だが、こうした解釈では、ラブレーが非常に陽気な人物であり、その作品はいつまでも飽きられることなく読み継がれるが、聖職者たちからは不道徳なものと見なされることを言い当てているなどとされる *6

 ウジェーヌ・バレストは、ヴォルテールについての予言とした *7

 マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)は1999年の出来事の直後でこの詩をとりあげ、Jovialiste を神(Dieu)と解釈した。ただし、全体的な解釈は漠然としている *8
 ロルフ・ボズウェルはJovialiste をヤハウェ(Jehovah)と読み替え、ピラミッドロジー(大ピラミッドの回廊に予言が秘められていて1999年頃に世界が終わるとされた)と関連付けた *9

同時代的な視点

 ピエール・ブランダムール高田勇伊藤進ジャン=ポール・クレベールらは、ユピテル主義者をほかの詩でも出てくる木曜日を祝日とする者と同一視した。そして、当時のカトリック信徒は、プロテスタントが聖木曜日に瀆神的な儀式を行っているという風説を信じていたらしいので、「偉大なユピテル主義者」はルターやカルヴァンの可能性があると指摘していた *10

 この詩をカルヴァンと結びつける見解ならば、エドガー・レオニがつとに指摘していたため、信奉者側でもジョン・ホーグのようにそういう立場を採る者もいる *11

 ピーター・ラメジャラーは『ミラビリス・リベル』にも見られる天使教皇による教会の刷新と解釈した *12

その他

 五島勉は、ノストラダムスが百詩篇第10巻72番の特殊性を強調するために、テーマの異なる73番を第10巻の一番最後に回したと主張していた *13
 しかし、そのような構成をとっているのはヘンリー・C・ロバーツ原書(改訂版)だけである。ロバーツの場合、初期の版では普通に72番の後に73番を配置していたのだが、改訂版では72番の解説を充実させた関係上、(おそらく以降のページ割りをずらさないで済ませるために)73番だけ第10巻最後の余白に回すという構成をとったのである。
 五島はそれを一般的な配置と誤認していたものと考えられる。


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