百詩篇第9巻49番

原文

Gand 1 & Bruceles 2 marcheront 3 contre Enuers 4
Senat 5 de Londres mettront à mort leur roy 6
Le sel & vin 7 luy seront à l'enuers 8 ,
Pour 9 eux auoir 10 le regne 11 en 12 desarroy.

異文

(1) Gand : G and 1649Ca, Grand 1653 1665
(2) Bruceles : Bruxelles 1572Cr 1627 1644 1650Ri 1672 1712Guy 1840, Brucelles 1590Ro 1650Le 1668, bruceles 1611A, bruxelles 1653 1665
(3) marcheront : sa cageront 1572Cr
(4) contre Enuers 1568 1590Ro 1772Ri : Enuers 1572Cr, contre Anuers 1597 1600 1605 1610 1611 1628 1644 1649Ca 1650Ri 1650Le 1653 1660 1665 1668 1672 1712Guy 1716 1840, contre Anuet 1627
(5) Senat : Seant 1572Cr
(6) roy 1568 1772Ri : Roy 1572Cr 1597 1600 1605 1610 1611 1627 1628 1644 1649Ca 1650Ri 1650Le 1653 1660 1665 1668 1672 1712Guy 1716 1840
(7) Le sel & vin : Le Sel & Vin 1672 1712Guy
(8) l'enuers : lenuers 1568A 1590Ro
(9) Pour : Pnur 1611B
(10) auoir : avoit 1772Ri
(11) regne : Regne 1672 1712Guy
(12) en : or 1672

(注記)1649Xa は比較せず

校訂

 綴りの揺れの範囲であろうが、1行目の Envers は Anvers となっているべき。なお、ジェイムズ・ランディ(未作成)は Anvers をアントウェルペンの古称としていたが *1 、オランダ語とフランス語を公用語とするベルギーでは、フランス語名として現在でもアンヴェルス(Anvers)を使っている。

日本語訳

ヘントとブリュッセルはアントウェルペンに対して行進するだろう。
ロンドンの上院は彼らの王を死なせるだろう。
塩とワインが彼を逆さまの立場にするだろう。
それらのせいで王国は混乱する。

訳について

 山根訳も大乗訳も4行目が若干微妙だが、おおむね許容範囲内だろう。

信奉者側の見解

 2行目が読んだままなので、イングランドにおけるピューリタン革命と国王チャールズ1世の処刑(1649年)と関連付けるのが定説化している。

 1668年アムステルダム版『予言集』の冒頭に掲載されたごく簡略な解釈集でも、チャールズ1世の処刑と関連付けられている。

【画像】1668年アムステルダム版の口絵。上半分でチャールズ1世の処刑が描かれており、鮮やかな的中例として宣伝されている *2

 テオフィル・ド・ガランシエールもピューリタン革命とした。彼の場合、詩番号の49は処刑の年を示していると解釈した。なお、当時のイングランドは年初を3月25日としていたため、処刑があった1月30日は1648年になってしまうことについて、世界基準は1月1日を年初としているので云々という釈明が付いている。3行目の塩とワインはフランスとスペインのことだという。

 バルタザール・ギノーもチャールズ1世処刑の明確な詩としたが、2行目以外はしるし(Signes)でしかないとして、具体的な事件と関連付けていない。フランシス・ジローも、ノストラダムスの時代に誰が王に死刑を宣告できるなどと考えるのかと優れた的中であることを強調しているが、2行目以外は解釈していない *3

 テオドール・ブーイは、1行目は当時のオランダが独立をめぐってあちこちの都市で争いがあったこととし、後半については、「塩とワイン」が「力と知恵」の隠喩で、チャールズに力や知恵が欠けていた結果、彼は処刑され、国内が混乱したこととした *4ウジェーヌ・バレストは、ブーイの解釈をそのまま踏襲した *5

 アナトール・ル・ペルチエはブーイの解釈を踏襲しつつも拡充し、1行目はほぼ同じ頃(1648年のウェストファリア条約締結まで)にフェリペ4世がオランダで戦っていたこととした *6チャールズ・ウォードも踏襲したが、彼はフェリペ4世の行軍について、北部七州を攻めるときにはヘントやブリュッセルからアントウェルペンを通るルートを取ることになると指摘した *7
 このブーイ、ル・ペルチエ、ウォードの解釈がのちの解釈に定型的な土台になったといえる。それを基本線として、ロルフ・ボズウェルアンドレ・ラモンジェイムズ・レイヴァーエリカ・チータムセルジュ・ユタンクルト・アルガイヤーらが踏襲した *8

同時代的な視点

 エヴリット・ブライラーは、1行目をオランダ・ベルギー周辺の内戦の様子かと疑問符つきで解釈した上で、残りは15世紀の英国史にモデルがあった可能性を指摘した。
 イングランド王ヘンリー6世はばら戦争の最中にロンドン塔に幽閉されてまもなく死んだが、この措置に議会は反対しなかった。それとほぼ同じ頃に、イングランドは塩とワインの調達先として機能していたギュイエンヌ地方を失っていた *9
 ジェイムズ・ランディ(未作成)はありうる可能性としてこれを引用した。また、1行目は1555年頃の神聖ローマ皇帝カール5世のベネルクス地域における動きから説明できる可能性を示した *10 。なお、ランディの日本語版では、ギュイエンヌが「ギニア」と表記されている上に、ブライラーからの引用であることを示すくだりが省かれ、ランディ自身の説であるかのように書かれている *11

 ピーター・ラメジャラーはフロワサールの年代記からと見て、1326年にイングランド王エドワード2世が特別招集された議会の決定に従い廃位されたことがモデルになっているとした(エドワードはこの後幽閉され、程なくして死去した)。1行目にベルギーの地名が登場しているのは、エドワード廃位を裏で画策していた王妃イザベラがフランデレン地方に一時逃れていたことと関連付けた *12


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