詩百篇第9巻34番


原文

Le part soluz1 mary2 sera mittré3,
Retour conflict passera4 sur le5 thuille :
Par cinq cens vn trahyr6 sera tiltré7,
Narbon & Saulce par coutaux8 auons d'huille9.

異文

(1) soluz / solus : sous 1649Ca 1650Le 1668
(2) mary : Mary 1672Ga
(3) mittré : mitté 1611A, Mitré 1672Ga
(4) passera : passer 1611B
(5) le thuille : la thuille 1611B 1650Le 1667Wi 1668P 1981EB
(6) trahyr : traïr 1627Ma, trait 1627Di, trahy 1653AB 1665Ba 1720To 1840
(7) tiltré : tultré 1672Ga
(8) coutaux 1568 1591BR 1597Br 1603Mo 1650Mo 1650Le 1672Ga 1772Ri : coustaux 1590Ro, couteaux 1606PR 1607PR 1610Po 1627Ma 1627Di 1644Hu 1650Ri 1653AB 1716PR 1720To, contaux 1605sn 1611 1628dR 1649Ca 1649Xa 1667Wi 1668 1981EB, coûteaux 1665Ba, quarteaux 1840
(9) d'huille : dhuille 1568X

校訂

 ロジェ・プレヴォは1行目の mary (mari, 夫)を marri (残念がっている、遺憾に思っている)と校訂している。
 また、4行目の par coutaux avons (ナイフによって我々は持っている)を par conte aux anons (補給を考慮することにより)と校訂している。
 conte は現代の compte と同じで、anons はラテン語 annona からの借用だという。
 ピーター・ラメジャラーはこれを支持している。

日本語訳

取り分が破棄され、司教冠の持ち主は遺憾に思うだろう。
反撃で、紛争がタイルを通過するだろう。
五百人によって一人が裏切り者の烙印を押されるだろう、
ナルボンヌとサルスで油の補給が考慮されることにより。

別訳

独りになった妻帯者が司教冠を授けられるだろう。
戻ると、紛争がタイルを通過するだろう。
五百人によって一人の裏切り者が爵位を与えられるだろう。
ナルボンとソース、我々はナイフのための油を持つ。

(注記)当「大事典」で採用した訳が従来知られている読みに比べてかなり異質なため、語法上ある程度許容されると思われる範囲で、既存の読み方に近づけた「別訳」も掲げておく。

訳について

 当「大事典」の訳はプレヴォ、ラメジャラーらの校訂を踏まえたものである。
 3行目について、エヴリット・ブライラージェイムズ・ランディ(未作成)は前半律が un までであることから、「500人により、1人・・・」とは訳せないと指摘している。
 確かに韻律を忠実に捉えるならその批判は正しいし、信奉者側でもテオドール・ブーイのように「501人により」と訳した者はいる。しかし、プレヴォやラメジャラーはこの点についてコメントしていない。
 当「大事典」では、ノストラダムスの場合、韻律が崩れている箇所があるとしばしば指摘されていることから、この場合もそれにあたるものとひとまず判断している。
 なお、3行目は不定形の trahir の扱いも難しい。「裏切り者」という訳は信奉者、非信奉者を問わず広く見られ、ここでも踏襲したが、少々強引であることを附記しておく。

 山根訳は2行目でタイルを「チュイルリー」と訳しているのが解釈をまじえすぎではあるが、従来型の訳としてはおおむね許容範囲だろう。
 なお、その1行目「配偶者がただひとり司教冠をかぶる」*1は、信奉者側で好んで用いられる訳し方だし、「別訳」はそれに近づけたが、前半律が soluz までであることや、partの処理の仕方の点でやや強引に感じられる。
 また、4行目の「ナルボンヌとソース 我々は短剣用の油を手にするだろう」は上で掲げた「別訳」ともほとんど同じものだが、これらの場合、d'huille の de が余計なため、やはり若干強引な訳し方ではある。

 大乗訳も4行目「ナルボンとサウルスがクインタルで聖別される」*2を除けば、従来型の読みとしておおむね許容されるだろう。ちなみにキンタル(quintal, カンタル)は重さの単位で、couteaux (ナイフ)をその誤植とする説はしばしば見られる。

信奉者側の見解

 テオフィル・ド・ガランシエールは、ほとんどそのまま敷衍したような読み方しか示していなかった。
 参考のために要約しておくと、1行目は妻と別れた夫が教会でしかるべき地位につくこと、2行目は彼が戻ると戦いに出くわし、タイルのある場所から逃れること、3行目はある重要人物が500人の部下から裏切られること、4行目はラングドック地方のナルボンヌとサルス(Salces)が大量の油を扱うことを描いているとした*3

 ジャック・ド・ジャンバルタザール・ギノーは解釈していなかったが、フランス革命中にヴァレンヌ逃亡事件(1791年6月20日)や8月10日事件(1792年)が起こると、それらと関連付ける論者が現れた。

 当「大事典」で確認している範囲では、最も古いのはテオドール・ブーイ(1806年)の解釈である。
 ブーイの解釈にはのちの解釈で定番になる要素があらかた出揃っている。
 まず1行目は、ヴァレンヌ逃亡事件で連れ戻されたルイ16世が共和派の赤帽をかぶせられたことを、司教冠を授けられたことになぞらえたと解釈した。
 partという語が用いられているのは、ヴァレンヌ事件を予言した詩百篇第9巻20番に出てきた deux pars の片割れを意味するという。

 2行目のタイル(thuille)はタイル製造所を語源とするチュイルリー宮殿(Thuileries, 現代フランス語では Tuileries)を意味し、ヴァレンヌ事件から国王一家が連れ戻された後に、たくさんの人々が押し寄せて王を裏切ったことが3行目にかけて予言されていたとした。

 4行目の「ナルボン」は、ベルトラン・ド・モルヴィルの『大革命の歴史』という文献*4で述べられている、王に好意的ではなかった陸軍大臣ナルボンヌ伯のこととした。「ソース」は同じ『大革命の歴史』第7巻126ページに出てくる、ヴァレンヌ事件のときに国王を泊め、革命派に引き渡した香辛料商人ソース(Sauce)のこととした。クトー(couteaux, ナイフ)をカルトー(quartaut, 小樽)と読み替えることもブーイの解釈で既に登場している*5

 この解釈は、フランシス・ジロー(1839年)、ウジェーヌ・バレスト(1840年)、アナトール・ル・ペルチエ(1867年)らに引き継がれる中でさらに補強され*6、20世紀以降の論者の間でも特に有名な的中例として多く引き合いに出されている。
 補強の例としては、500人の扱いについてが挙げられる。ル・ペルチエはチュイルリー宮殿に民衆が押しかけたときに、それを主導する立場にあったマルセイユ連盟兵たちの数が500人であったと主張した。

 日本では、五島勉の『ノストラダムスの大予言II』(1979年)での紹介が、最も早い時期に属する解釈例であろうと思われる(断片的な言及はコリン・ウィルソン『オカルト』などにも見ることができる)。
 そこでは、ヴァレンヌ事件の後、パリに連れ戻されたルイ16世が僧帽をかぶらされたことや、チュイルリー宮殿で王の親衛隊500人が反乱を起こしたこと、その指揮官が陸軍大臣ナルボンであったことや、ヴァレンヌ事件で国王逮捕のきっかけになる密告をしたのが油商人ソールスであったことなどを的中させたと紹介された。
 のみならず、生前のノストラダムスは、この詩を書くよりも先に、建設中のチュイルリー宮殿の前でカトリーヌ・ド・メディシスにその予言の断片を語ったとも述べられていた*7
 五島は後に、ヴァレンヌ事件でソールスの密告を受けて国王を逮捕した革命軍兵士の隊長がナルボンだったと修正したが*8、基本的な骨子は『ノストラダムスの大予言・最終解答編』(1998年)でも維持された。

懐疑的な視点

 ジェイムズ・ランディ(未作成)はいくつかの点から信奉者側の解釈を批判した*9

 タイルがチュイルリーと解釈され、ノストラダムスがその詩を書いたときにはまだチュイルリー宮殿が建造されていなかったとされることについては、その強引さを指摘するとともに、チュイルリーは1564年に着工されたが、それ以前から計画は広く知られていたことを指摘した。

 500人については、チュイルリーに押し寄せた民衆は全部で2万人ほどだったとしてル・ペルチエを批判した。
 ただこの点は、ル・ペルチエがそもそも民衆を主導した連盟兵の数について述べているだけで、総数には触れていないため、議論がかみ合っていない。
 連盟兵の数については、当「大事典」では未確認である。スイス衛兵と人民の衝突の際の人民側の死傷者数を500人とする文献ならある*10

 ランディはナルボンヌ伯について多くの歴史書に当たったが、そのような人物を見つけ出せなかったと述べている。
 しかし、これは調査不足であろう。
 ナルボンヌ伯は主戦派の一人であり、対外的に強硬姿勢を示したことで革命戦争につながる要因の一つとなった(彼はルイ16世の不興を買って陸軍大臣職を解任された)。
 また、当時スタール夫人の愛人としても知られており、大臣起用もそれが一因となっていた。このため、革命について詳細に論じている著書になら、彼の名前は載っている*11

 なお、五島の解釈についてだが、ほとんどの部分が歴史的に見て誤りである。
 そもそも五島はヴァレンヌ事件と8月10日事件がどちらも1792年に起きたと度々語っているが、前者は1791年である*12
 ルイ16世は僧帽(司教冠)をかぶらされたのではない。五島はルイ16世がヴァレンヌ逃亡事件のときに僧侶に扮装したことをからかわれたのだとしたが、そもそも逃亡時の扮装はロシア貴族であって僧侶ではない*13
 また、チュイルリーのスイス衛兵は、なだれ込んできたマルセイユ連盟兵や民衆を相手に戦い、謀反を起こしたりはしていない。その人数は死者だけで約600人に達したというから*14、500人しかいなかったはずもない。
 ナルボンヌ伯は1792年3月に陸軍大臣の職を解かれており、8月10日事件には何も関わっていない。
 なお、ナルボンヌ伯が陰謀を企んだとか国王への裏切り行為を働いたとする見解は、他の信奉者側の著作にも見られるが、そういうものではない。
 この点は、詩句にあわせて解釈がエスカレートしていったものであろう。
 ヴァレンヌ事件のときに国王一行がソース邸に留め置かれたのは事実だが、それはヴァレンヌ入りした時点で国王一行であることが疑われており、行く手を阻まれた上でソース邸に連れ込まれただけである。
 ソースが初めて気付いて密告した事実はない(最初に気付いたのはサントムヌーのドルエで、彼がヴァレンヌまで追いかけてきたことが露見のきっかけになった)*15
 チュイルリーの着工は1564年のことだが、この詩がそれより後に書かれたという確証はない。
 そもそもそれは1558年に完全版が出されたという五島の主張とも矛盾する。ゆえにカトリーヌに語ったというエピソードも、史実であると信ずべき根拠が何もない。

同時代的な視点

 ロジェ・プレヴォはドートンの『ルイ12世年代記』(1499年-1508年)に描かれた16世紀初頭のフランスの軍事情勢がモデルになっている可能性を示した。
 その主張を要約すると以下の通りである。なお、以下の記述のうち「 」部は『年代記』からの引用(厳密に言えばプレヴォからの孫引き)になっている。

 フランスはアラゴンとグラナダ条約(1500年)を結び、ナポリを分割支配することを決めたが、実際にナポリを陥落させた後で支配範囲を巡って争いになった。その結果、条約は破棄され、ナポリはスペインの手に落ちた。(取り分が破棄された

 グラナダ条約をはじめとする各種条約を締結し、イタリアにおけるフランスの利権拡大に努めていたのは、外交手腕に優れていたルーアン大司教ジョルジュ・ダンボワーズであった。彼はローマ教皇の座をも狙っていたが、ナポリでのつまずきでその芽が潰えた。(司教冠の持ち主は遺憾に思う

 ルイ12世はスペインへの反撃を画策し、1503年にサルス(Salces, サルセス)の攻囲に乗り出した。サルスはピレネー地方でスペインの前線基地の役割を果たしていた都市で、ナルボンヌからわずか数 km の場所に位置している。(ナルボンヌとサルス

 その地方の住居はタイル屋根に特色がある。(反撃で、紛争がタイルを通過するだろう
 しかし、この攻囲に派遣された軍で指導的立場にあったリュー元帥(Maréchal de Rieux)はスペイン軍との交戦を禁じ、破れば処刑すると命じていた。このため、兵卒の間からも裏切り行為だとの声が上がり、「500人のフランス兵を率いていた」リュー元帥は更迭された。(五百人によって一人が裏切り者の烙印を押されるだろう

 また、フランス側は補給物資をスペイン側に奪われてしまっており、その責任者ジエ元帥(Maréchal de Gié)はトゥールーズの高等法院で訴追された。その補給物資には「油14荷、蝋燭25キンタル」が含まれていた。(油の補給が考慮される*16

 いくつかの詩句を修正する必要があるとはいえ、詩の状況は確かに『年代記』の叙述と一致している。ソース(Saulce)とサルス(Salces /現 Salses-Le-Château)は綴りの揺れの範囲だろう。
 DNLF ではSalces と La Sauce が同じ語源であると説明されている。ナルボンヌだけ直接的な関連性が薄いが、サルスの位置に関する補足情報といった位置づけなのかもしれない。
 ピーター・ラメジャラーもプレヴォの読み方を支持している。ジャン=ポール・クレベールは1行目を「取り分が確定し、妻帯者が司教冠をかぶる」とし、選挙の様子ではないかとはしているが、他方でプレヴォの読み方も紹介している*17

 プレヴォ以前にも、いくつか歴史的モデルを想定する試みはあった。
 エヴリット・ブライラーはどの行にも様々な読み方がありうることを詳細に示しているが、その中でも特に3行目の Par cinq cens un を Par cinq sans un と読み替え、「5 引く 1 によって」=「4(quatre, カトル)によって」と解釈することで、当時のフランス王妃カトリーヌ(Catherine)と結びつけた。
 カトリーヌはナルボンヌ司教管区に関連する聖職売買の事件に巻き込まれたことがある上、お抱えの廷臣の中には、ディアーヌ・ド・ポワチエ(アンリ2世の愛人)の鼻をナイフで削ぎ落とすことを提案したソース(Saulce)という人物がいたことで、詩の情景に適合するという*18

 ルイ・シュロッセ(未作成)はメス攻囲戦をモデルと見なした。
 これは、1552年にフランス軍がメスなど三都市を占領したことに対し、神聖ローマ皇帝軍が奪還しようと同年10月に仕掛けた攻囲戦で、3ヶ月ほどの戦いを経てフランス側が防衛に成功した。
 このとき、当初フランス側の使節として交渉に当たったのはヴァンヌ司教シャルル・ド・マリヤック(Charles de Maryllac)だったが、交渉は決裂した。
 彼は後にヴィエンヌ大司教になっている。
 なお、ランディは「ウィーン」(Vienna)と英訳している。Vienne にはウィーンとヴィエンヌの2通りの可能性があるが、シュロッセによればマリヤックは大司教になった後もアンリ2世の重臣だったらしいので、神聖ローマ領内のウィーンよりもヴィエンヌの方が適合するように思える。
 ヴィエンヌは大都市とはいえないが、かつてヴィエンヌ王国の首都だったために大司教座が置かれていた。少なくともウィキペディアフランス語版の「ヴィエンヌ大司教の一覧」には、元ヴァンヌ司教マリヤックの名がある。)

 2行目は攻囲戦の情景で、「タイル」はメス周辺の防壁がタイル張りだったことを指しているという。
 3行目は1人の裏切り者が500人に追撃されることを言っており、神聖ローマ皇帝側の指揮官の一人、アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクとの裏切りを巡る交渉が決裂した翌日に、フランス側がオマール公と500騎の騎兵隊を派遣したことを指すという。
 なお、この騎兵隊は追撃に失敗し、多くが殺された。

 4行目のナルボンとソースは地名でなく、兵站を担当していたジャック・ダルボン(Jacques d'Albon)とガスパール・ド・ソー(Gaspard de Saulx)のことで、彼らが夏場のうちにギーズ公に送っていた書簡の補給物資一覧には、タイル、タル詰めの油脂、縄、ナイフなどが含まれていたという*19
 ジェイムズ・ランディ(未作成)はブライラーの解釈とシュロッセの解釈を並列的に紹介している*20


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詩百篇第9巻
最終更新:2020年02月17日 01:59

*1 山根 [1988] p.294

*2 大乗 [1975] p.266

*3 Garencieres [1672]

*4 Bertrand de Morville, Histoire de la Révolution

*5 Bouys [1806] pp.61-63

*6 Girault [1939] p.27, Bareste [1840] p.515, Le Pelletier [1867a] pp.177-179

*7 五島 [1979] pp.202-204

*8 五島『ノストラダムスの超法則・死活の書』pp.146-154

*9 Randi [1990] pp.200-203 / ランディ [1999] pp.281-286

*10 マチエ『フランス大革命(上)』岩波文庫、1958年、p.299

*11 例えばマチエ前掲書、pp.264, 274, 280, 285 ; 箕作元八『フランス大革命史(二)』講談社学術文庫、1977年、pp.210, 249, 252, 259. など。ウィキペディアフランス語版でも「ルイ・マリー・ド・ナルボンヌ=ララ」として記事が立っている。

*12 『ノストラダムスの超法則・死活の書』でだけ、「一説によると1791年」とも書かれている。

*13 マチエ、前掲書、p.240

*14 柴田・樺山・福井『フランス史2』p.367

*15 マチエ前掲書 pp.341-342, 箕作、前掲書、pp.187-190

*16 Prévost [1999] pp.31-33

*17 Lemesurier [2003b], Clébert [2003]

*18 LeVert [1979]

*19 Schlosser [1986] pp.191-192

*20 Randi [1990] pp.204-205/ランディ [1999] pp.287-291