百詩篇第3巻56番

原文

Montauban 1 , Nismes, Auignon, & Besier 2 ,
Peste, tonnerre & gresle 3 à fin de Mars 4 :
De Paris pont 5 , Lyon 6 mur 7 , Montpellier 8 ,
Depuis six cent & sept XXIII. 9 pars.

異文

(1) Montauban : Mont-auban 1588Rf 1589Rg, Mont-aubam 1589Me, Montaubant 1600 1867LP
(2) Besier : Besiers 1590Ro 1649Ca 1650Le 1660 1665 1668 1772Ri
(3) tonnerre & gresle : Tonnerre & Gresle 1672
(4) Mars : mars 1716
(5) pont : Pont 1588-89 1600 1610 1672 1716, pour 1589PV
(6) Lyon : de Lion 1672
(7) mur : murs 1557B, Mur 1588-89 1672
(8) Montpellier : Mont-pellier 1588-89, Monpelier 1672
(9) sept XXIII. 1555 1627 1644 1650Ri 1653 1665 : sept xxiij. 1557U 1589PV, sept. xxiij. 1557B, sept xxiii 1588-89, sept vingt trois 1568A 1590Ro 1605, sept vingts trois 1568B 1568C 1568I 1597 1600 1610 1716 1772Ri, sept-vingt trois 1611 1628 1649Xa 1660, sept xxiii. 1649Ca 1650Le 1668, sept vingt, trois 1672, sept XXIII 1840

日本語訳

モントーバン、ニーム、アヴィニョン、ベジエで、
三月の終わりにペスト、雷鳴、雹が。
パリの橋、リヨンの壁、モンペリエ。
六百と七に二十三の部分。

訳について

 ピエール・ブランダムールは、3行目と4行目の動詞は省略されているとし、3行目は「パリの橋、リヨンの壁、モンペリエの壁は崩壊するだろう」、4行目は「六百と七に二十三の部分が足される」という意味だとした *1 。特に3行目は十分に説得的な読みといえるが、とりあえずここでは直訳した。
 ブランダムールはかつて4行目を「六百と七の二十三分以降に」といった形で読んでいた(詳しくは後述)。本人はこの読み方を放棄したが、ジャン=ポール・クレベールは評価をしている。

 大乗訳については固有名詞の読み方をとりあえず棚上げにする。3行目「パリの橋 リヨンの壁 モンテペリエーは落ち」 *2 は、上述の通り「落ち」が原文にないが、一つの可能性として許容されうる読み方だろう。
 しかし、4行目「六〇〇と七から多くを三つの部分に」は誤訳。元になったはずのヘンリー・C・ロバーツの英訳は From six hundred and seven score three parts. *3 となっているが、この場合の score は言うまでもなく「20」の意味で用いられている。実際、ロバーツの解釈には12143という数字が出ており、607 x 20 + 3 と読んだことが明らかである。

 山根訳も4行目「六百と二十の七倍と三の二倍とを経て」 *4 が微妙。エリカ・チータムの英訳が since six hundred and seven score three pairs. *5 なので、その訳としては正しい。parsを pairs と訳すことはエドガー・レオニなども積極的に行ってはいたものの、ピエール・ブランダムールロジェ・プレヴォなどの20世紀後半以降の実証的論者たちからは支持されていない。

信奉者側の見解

 テオフィル・ド・ガランシエールは3月末に挙げられている都市が落雷の被害を受けることとした *6

 その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、バルタザール・ギノーテオドール・ブーイフランシス・ジローウジェーヌ・バレストアナトール・ル・ペルチエチャールズ・ウォードマックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)アンドレ・ラモンロルフ・ボズウェルの著書には載っておらず、基本的には全訳本の類以外で触れられることはほとんどなかったようである。

 ヘンリー・C・ロバーツはフランスで破壊が広がり12143箇所に及ぶと解釈した *7
 エリカ・チータムエドガー・レオニの読み方(後述)を踏襲していくつかの年代を挙げつつ、1行目と3行目のつながりなどが分からないとした *8
セルジュ・ユタンはここに示されている気象上の記述は象徴的なもので、フロンドの乱を予言したものではないかとした *9
 ジョン・ホーグは4行目の示す年の可能性として1653年や1746年を挙げたが、前者の時期にあったフロンドの乱は挙げられた都市のほとんどと関係がなく、後者の時期のネーデルラントとの戦争はいわずもがなであったことから、未成就の予言か外れた予言だろうとした *10

同時代的な視点

 エドガー・レオニは曖昧な詩とした上で、4行目の指し示す年代について、1653年(607 + 23 x 2 = 653とした上で千の位を補う)、1746年(600 + 7 x 20 + 3 x 2 = 746 とした上で千の位を補う)、2208年(この詩が出版された1555年に前出の653を足す)、2301年(出版年に前出の746を足す)などの可能性を挙げていた *11エヴリット・ブライラーは1600年7月23日と読む可能性を示していた *12

 ピエール・ブランダムールは4行目について、当初1607年5月20日ごろと推測していた。占星術では1年も60分割することがあり、「二十三分」は60分の23を指しているのだろうとしたことが根拠だった。365日 ÷ 60 × 23 は約140日となり、年初から140日目の5月20日を指すというわけである。ブランダムールは、ノストラダムスが1607年の災厄を暦書の中で何度か述べていたことから、この詩もその一環と解釈していた *13
 ジャン=ポール・クレベールはそうした読み方に好意的だが、ブランダムール自身は後にこの解釈を撤回し、3月の終わりに起こる天災は、1547年3月のフランソワ1世の死の前後に起きた凶兆がモデルとする解釈に差し替えた。同じ年の12月にはパリのサン・ミシェル橋が洪水で壊されたという。この解釈では4行目の数字は謎とされた *14
 ピーター・ラメジャラーはフランソワ1世の死とする解釈を支持した上で、4行目については、当時次々と勃興していた新宗派が1607年以降に23に増えることを言ったものという可能性を挙げていた *15

 ロジェ・プレヴォは1561年の出来事がモデルになっていると推測した。
 その年の4月にはパリのサン=ミシェル橋近くのプレ=オ=クレールで暴動が起き、リヨンでも聖体祭の日に宗教上の衝突が起き、さらにモンペリエではノートル=ダム=デ=ターブル大聖堂がプロテスタントに占拠される事件が起こったことに対応するという。
 プレヴォは百詩篇に記載された年代に切りの良い数字を除算(加算)することでモデルの年が出てくるという仮説を提唱しており、4行目については、600 + 7 x 23 = 761 に切りの良い数字800を足してやるとモデルの年1561を導けるとした *16
 しかし、この詩の初出は1555年のことなので、1561年をモデルとするのは無理があるだろう。



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