百詩篇第3巻77番

原文

Le tiers 1 climat soubz Aries comprins
Lan 2 mil sept cens vingt & sept 3 en Octobre,
Le roy 4 de Perse par ceux 5 d'Egypte 6 prins:
Conflict, mort, perte 7 : à la croix 8 grand opprobre 9 .

異文

(1) tiers : Tiers 1712Guy
(2) Lan 1555 1840 : L'an T.A.Eds. (sauf : L'au 1668A, L'An 1672)
(3) vingt & sept : & sept 1665, vingt sept 1672, vingt-sept 1712Guy
(4) Le roy 1555 1557U 1557B 1568A 1590Ro 1840 : Le Roy T.A.Eds.
(5) par ceux : par 1600 1610 1716
(6) d'Egypte : d'Eygpte 1665, d'Ægypte 1672
(7) perte : ~pte 1555, pte 1840
(8) croix : Croix 1672 1712Guy
(9) opprobre : o~pbre 1557B

(注記)~pte の ~ は、p の縦棒の下部に交差している横線の代用。o~pbre の ~ は p の左下についている尻尾のようなものの代用。~pte の部分は「原文」欄で使用すると分かりづらいので、便宜上1555以外の全ての版に見られる perte を採用した。

日本語訳

白羊宮に含まれる第三の地帯で、
千七百二十七年の十月に、
ペルシアの王はエジプトの人々によって捕らわれる。
衝突、死、損失。十字架に大きな恥辱が。

訳について

 大乗訳1行目「第三の情勢が白羊宮に含まれ」 *1 は climat を「情勢」と訳すのが不適切。
 同2行目「一七〇〇年十月二十七日に」は、可能な訳。

 山根訳はおおむね問題はないが、3行目「ペルシアの王が エジプトの諸王の捕虜になる」 *2 は微妙。ceux は確かに前の roy を受けていると見ることもできるが、この場合は単なる「人々」の意味だろう。実際、ピエール・ブランダムールらはそう読んでいる。

信奉者側の見解

 テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は、1700年10月27日に、ペルシアの王がエジプト人にとらわれることや、キリスト教徒たちが大いに不面目を被ることが実際に起こるだろうと解釈していた。

 バルタザール・ギノー(1712年)は、1727年10月にここに書かれている出来事が起こるだろうとした。なお、「白羊宮に含まれる第三の地帯」は、占星術的にフランスの一部、イギリス、スウェーデン、ポーランド、ドイツ、パレスティナ、シリア、シュレジエンなどに該当するとした *3


 おそらく史実と結びつける形で最初に解釈したのはジェイムズ・レイヴァーだろう。
 彼は1727年10月に当時エジプトも支配していたオスマン帝国とペルシアの間で結ばれた条約について指摘した。この条約によってペルシアのシャーはオスマン帝国のスルタン(非宗教的専制君主の地位)をカリフ(ムハンマドの後継者たる宗教的権威)の正当な継承者と認めさせられた。また、その条約でアルメニアやグルジア南部のキリスト教徒の共同体は、ペルシアからトルコへと割譲された *4

 この解釈はスチュワート・ロッブエリカ・チータムジョン・ホーグデイヴィッド・オーヴァソンら、特に英語圏の信奉者達に引き継がれた。特にロッブは、コロンビア大学の数学科の教授に算定してもらったという数値を引き合いに出している。それは、当時あった国を15カ国と仮定し、そのうち2カ国が予言の範囲である2242年間に起こす戦争について、年月と勝敗まで示した上で的中させられる確率はどれくらいか、というものである。計算式は省略するが、それは1129万9680分の1以下であるという *5
 ジョン・ホーグもこの数字を援用し、ジェイムズ・ランディ(未作成)がこの詩に触れなかったのは、彼らの懐疑論の息の根を止めるものだからだと批判した *6

 ほかの解釈もある。
 セルジュ・ユタンは該当する事件を見つけられないとしていたが、ボードワン・ボンセルジャンによる補訂では、2年間違えたのではないかとする見解が示されている。1725年にペルシアのシャーはトルコ人に殺され、その後継者アシュラフも1729年に殺された。1727年はちょうどその間に当たっているとした *7

 ヘンリー・C・ロバーツは325年を加算する独自の年代計算に基づいて、2025年に東洋で起きる事件を描写したものとした *8

 五島勉高木彬光が外れた予言とした批判を受け、ここで示されている数字は『創世記』のノアの大洪水で10月、17日、27日などの数字が出ていることをモデルにしたもので、ノアの大洪水に代わる未来の破滅が中東大戦の形をとって現れることとした *9

懐疑的な視点

 ホーグはランディがこの詩に触れていないと批判したが、そのホーグはエドガー・レオニによる懐疑論に全く触れていない。
 レオニによれば、このときの戦いは「ペルシアのシャーの座を簒奪したアシュラフがトルコを破った」ものであり、「どれほど想像力をたくましくしようと、彼ら(トルコ人)は、ペルシアの支配者を捕獲どころか負かすことさえしていない」のだという *10
 信奉者たちは実質的にはトルコに優位な条約が結ばれた旨を強調している。しかし原文が「エジプトがペルシアに囚われる」だったらどうなっていたか。おそらく名目上の勝利を強調したことであろう。つまりこれを当てたと無条件に見なすことはできないのではないだろうか。
 また、年月を当てたということについても、レオニはトルコとペルシアが16世紀以来ずっと断続的な交戦状態にあったことを指摘している。
 ちなみに、ウィキペディア英語版の Ashraf Khan の記事では、講和の成立は1727年9月とされている *11
 なお、エリカ・チータムジョン・ホーグの解釈にはエムヴァン(Emvan)という地名がたびたび登場しているが、レオニの指摘の中に出てくるエリヴァン(Erivan)を写し間違えたものだろう。エリヴァンは現在のアルメニアの首都エレヴァンの綴りの揺れである。

同時代的な視点

 ピエール・ブランダムールは、プトレマイオスの『アルマゲスト』では、アレキサンドリアと下エジプトが第三の地帯(le troisième climat)に該当し、『テトラビブロス』ではユダヤ、エドム、パレスティナ、シリアの一部が白羊宮に支配されている地域に該当することを指摘し、ここでペルシアが白羊宮の下に置かれているのは、プトレマイオスではなくマニリウスに従ったものだろうとした。
 しかし、ブランダムールによれば、1727年10月も1700年10月27日(グレゴリオ暦11月7日)も占星術的に特筆すべき要素はないという *12ブリューノ・プテ=ジラールはブランダムールの見解を踏襲した *13

 ロジェ・プレヴォは、1727年から切りの良い数字1100を引いた年627年にモデルがあると推測し、東ローマ皇帝ヘラクレイオス1世の治世下での出来事と関連付けた。
 627年夏にヘラクレイオス1世は国内が混乱していたペルシアに大攻勢をかけた。翌年、ペルシア皇帝ホスロー2世を暗殺して跡を継いだ長男シルウィ(カワード2世)はヘラクレイオスと講和条約を結び、東ローマ帝国から奪っていたエジプトなどの領土を返還するとともに、614年にエルサレムから強奪していた聖十字架の返却も行った *14ピーター・ラメジャラーはこの解釈を支持した *15
 確かに「27年」「ペルシア」「十字架」などモチーフに共通性は見られるが、必ずしも文脈に沿っていないようにも思える。


コメントらん
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  • この詩篇は一言で済ますことができない。1700年に勃発した北方戦争と1727年5月死亡のエカテリーナ一世とオスマントルコによる亡命スェーデン王カール12世を受け入れ、1979年に始まったイラン革命で亡命エジプト大統領受け入れなどを予言。1727年10月1日(あるいは10日)が選ばれたのはホロスコープ上での形が整っているからだと思う。 -- とある信奉者 (2010-09-05 00:41:39)
  • 白羊宮は東経30度まで。・・・ロシアの旧首都であったサンクト・ペテルブルグは北緯59度56分、東経30度20分に位置する。 角度の20分というのはちょうど60分の三分の一(Le tiers)にあたる!! この都市は北方戦争の過程で、スウェーデンから奪取したバルト海・フィンランド湾沿岸のイングリアに新都として1703年に築かれた!! -- とある信奉者 (2010-09-05 01:03:28)
  • 訂正:亡命エジプト大統領→亡命イラン大統領をエジプトが受け入れ -- とある信奉者 (2010-09-05 13:23:01)
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