ピエール・ド・ノートルダム(Pierre de Nostredame, 1430年頃 - 1485年頃)は、
ノストラダムスの父方の祖父。アヴィニョンで穀物商と高利貸を営んでいた。
クレカ・ド・カルカソンヌ(Crescas de Carcassonne)、
ギ・ガソネ(Guy Gassonnet)、
ギドン・ガソネ(Guidon Gassonnet)、
ヴィド・ガソメ(Vido Gassomet)、
ペロ・ド・サント=マリー(Perrot / Peyrot de Sainte-Marie)など、多くの名で公文書に記録されている。
生涯
ダヴァン・ド・カルカソンヌの子供の一人として、アヴィニョンで生まれた。生まれたときの名はクレカといった。
1448年に18歳くらいで結婚しているため、1430年頃の生まれと推測できる。ただし、亡くなったときの年齢とは、若干の齟齬がある。
最初の妻はシストロン(Sisteron)という町に住んでいたクレカ・ド・カステロの孫ステラ・ド・カステロ(Stella de Castello)だった。
クレカは小麦やカラス麦を扱う卸売商(courtier)として活動し、高利貸も営んでいた。
時期は不明だが、モントゥー(Monteux)に住んでいたジェセ・ガソネ(Jessé Gassonet, ジョス Josse とも)の娘ブナストリュジー・ガソネ(Benastrugie Gassonet)と再婚した。ブナストリュジーは、アストリュグ(Astrugue)とも言ったらしい。ジェセはクレカの親戚だったらしく、キリスト教徒に改宗していた。
しかし、ブナストリュジー自身は、クレカがキリスト教徒に改宗した後も改宗を拒み、結局1463年6月に正式に離婚が認められた。
クレカが改宗した時期ははっきりしない。
エドガール・ルロワは1454年頃とし、改宗後の名であるピエール・ド・ノートルダム(ペトロ・デ・ノストラ・ドミナ)は、1455年の穀物取引記録ですでに見られるとしている。
その一方、ウジェーヌ・レーは、1460年1月24日に先立つ5ヶ月の間に改宗したとしており、1457年の時点で「クレカ・ド・カルカソンヌ」が「アヴィニョンのユダヤ人」とされている記録も挙げている。また、改宗の背景として、1459年6月にカルパントラで起きたユダヤ人虐殺事件が、切迫した恐怖を呼び起こした可能性を指摘した。
いずれにしても、1460年代初頭までにキリスト教に改宗し、そのことがブナストリュジーとの離婚につながったことは確かなようである。
ピエールは生涯、穀物商人として活動し、不動産取引に関心を示した時期もあったようである。
正確な没年は不明だが、1485年2月の記録を元に、1484年から1485年にかけて、52歳くらいで亡くなったと推測されている。
最終更新:2011年04月07日 20:17