百詩篇第8巻100番


原文

Pour l'abondance de larme1 respandue2
Du3 hault en bas par le bas au plus hault
Trop grande foy par ieu vie perdue4,
De soif mourir par habondant5 deffault.

異文

(1) larme : l'arme 1605 1611 1628 1649Xa 1649Ca 1650Le 1668, l'Armé 1672, larmes 1840
(2) respandue : respanduë 1605 1627 1628 1644 1649Xa 1649Ca 1650Le 1650Ri 1653 1665 1668 1716 1772Ri 1840, espandue 1611B
(3) Du : Eu 1611B
(4) perdue : perduë 1605 1627 1628 1649Xa 1649Ca 1650Le 1650Ri 1653 1665 1668 1716 1772Ri 1840
(5) habondant : abondant 1600 1610 1627 1644 1650Le 1650Ri 1665 1668 1672 1716 1840 1981EB, h'abondant 1611B

校訂

 ジャン=ポール・クレベールは3行目の par ieu vie をひとまずそのまま par jeu vie と読んだが、その一方で par l'envie の誤植の可能性を示した。
 ピーター・ラメジャラーは par ieu を pour Dieu と読んだ。
 3行目は明らかに1音節(以上)足りないので、何らかの単語が欠落している可能性もあるだろう。

日本語訳

多量の涙が撒き散らされるために、
高きから低きへ、低きから最も高きへ。
あまりにも大きな信頼、遊戯により生命が失われる。
渇望のせいで死ぬ、豊潤な欠乏により。

訳について

 3行目はクレベールの読み方も参考にしつつ、ほぼ直訳した。彼は原文通りに読んだ場合の読み方として、ある遊戯に危険がないものと信頼しすぎて命を落とすことを言ったのではないかとした。
 envieと読みかえる彼の校訂を受け入れるなら、「あまりにも大きな信頼(信仰)が、欲望によって失われる」となる。
 ラメジャラーの校訂を取り入れるなら、「神へのあまりに大きな信仰(により)、生命が失われる」となる。
 foy は「信仰」とも「信頼」とも訳せるが、(ラメジャラーの校訂を受け入れる場合を除いて)文脈からはどちらとも確定しがたい。
 4行目「豊潤な欠乏により」というのは矛盾した表現だが、クレベールによれば、泉のそばで渇き死ぬような意味合いだという。

 大乗訳1行目「大軍がちらばって」*1は、larme が l'arme になっている版の訳としては誤りではない。
 同4行目「なにもかも欠乏して 若くして死ぬ」は、「若くして」がどこから出てきたのか不明。

 山根訳3行目「信仰過多の遊びのせいで 人生がそこなわれ」*2は、補う言葉によっては成立する訳。

信奉者側の見解

 テオフィル・ド・ガランシエールは情景を敷衍したような解釈しかつけていなかった。なお、彼は1行目の larme (涙)を l'Armé としているので、軍隊が主題の詩とされている。


 エミール・リュイール(未作成)(1939年)は近未来の軍備増強に関する詩とした*3
 アンドレ・ラモンはヒトラーに関する詩とした*4

 エリカ・チータムは現代の読者には意味を持たない詩として片付け、後の版でも解釈を放棄していた*5。しかし、その日本語版『ノストラダムス全予言』では、現代日本でろくでもない新興宗教が次々と出現することという原秀人の解釈に差し替えられた。

同時代的な視点

 ピーター・ラメジャラーは自身の校訂の結果を踏まえ、宗教戦争期の混乱の描写とした*6

 ジャン=ポール・クレベールは特定の事件と結び付けていないが、2行目は混乱したさまの描写だという*7。さしずめ日本語で言えば「上を下への大騒ぎ」といったところだろう。

 すでに見たようにクレベールは3行目は危険性がないと過信していた遊戯で死ぬという意味に取れる可能性も示していたが、だとすると王太子フランソワの死(1536年)とも結び付けられるのではないだろうか。
 百詩篇第1巻65番の解釈でも示したが、王太子フランソワはポーム競技の後に喉が渇いて冷水を飲んだところ、容態が急変して4日後に死亡した。病死か毒殺かは不明だが、当時は毒殺が疑われ、王太子に水を渡したモンテククロが処刑された。王太子の突然の死は哀惜詩集が出版されるなど、当時の人々に大きな衝撃を与えた。
 詩の情景は、こうした史実にある程度当てはまっているように思われる。いずれにせよ、ラメジャラーのような校訂をしない限り、この詩には宗教問題を扱っていると断言できる要素が存在していない点は、注意されてしかるべきだろう。


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