百詩篇第9巻26番

原文

Nice 1 sortie sur 2 nom des letres 3 aspres,
La 4 grande cappe 5 fera present non sien,
Proche de vultry 6 aux murs de vertes 7 capres
Apres 8 plombin 9 le vent à bon essien 10 .

異文

(1) Nice : Niee 1568A, Niée 1590Ro, Nise 1605 1649Xa 1672
(2) sur : fut 1668P
(3) letres : Lettres 1672
(4) La : la 1665
(5) cappe : Cappe 1672
(6) vultry : Vultry 1627 1644 1650Le 1650Ri 1653 1660 1665 1668 1672 1840
(7) de vertes : des vertes 1649Xa 1672, de verres 1772Ri
(8) Apres : A pres 1611B 1653
(9) plombin : plombi 1611B, plombim 1605 1611A 1628 1649Xa 1649Ca 1650Le 1660 1668, lombin 1653 1665, Plombin 1672
(10) essien : essient 1590Ro, escient 1672

校訂

 1行目の Nice は1568Aの異文に従う限りでは、Niée の誤植の可能性がある。
 3行目の vultry は Voltry の、4行目 plombin は Piombin の誤記もしくは綴りの揺れという点で多くの論者が一致している。
 4行目の à bon essien は à bon escient と同じである *1

日本語訳

拒否され、ざらついた文字の名前に直面させられ、
偉大なケープは彼のではないものを贈るだろう。
ヴォルトリに近い青々とした風蝶木の蕾の壁で。
ピオンビーノの後で順風に。

訳について

 1行目冒頭は 1568A の異文を尊重し Niee と判断した。Nice とする場合も、「ニース(で)ざらついた文字の名前に直面させられ」というように、sortie が女性形であることから、その動作主は2行目の「偉大なケープ」だろう。なお、sortir sur は「直面する」を意味する中期フランス語の成句。
 3行目 vultry、4行目 Plombin は、いずれも有力と思われる説(地名)を採った。

 大乗訳1行目「おろかものがさって 痛烈な手紙で」 *2 は、中期フランス語では一般形容詞として「愚か者」の意味を持つ nice があったことに基づくのだろう。ロバーツの英訳の転訳だが、元をただせばテオフィル・ド・ガランシエールの英訳に行き着く。
 同2行目「大きな帽子が他人に与えられ」の「帽子」は、cappeを「頭巾、フード」と解釈する説もあるので、必ずしも誤りとはいえない。ただし、non sien を「他人」と訳すのは、文脈上やや強引ではないかと思える。

 山根訳1行目「辛辣な文書から出たニースのあだ名」 *3 は、エリカ・チータムの英訳をそのまま転訳したもの。「あだ名」は sur nom を surnom と理解したことによる。
同2行目「法王が何物かを贈るだろう 彼自身の物ではないが」は誤りではないが、「法王」は La grand cappe を意訳した結果で原文に沿った訳ではない。
 同3行目「ヴォルテの近く 緑色の柱の壁にて」はチータム訳の直訳だが、そもそも capre (ケーパー、西洋風蝶木の蕾)を column と英訳した理由が分からない。

信奉者側の見解

 テオフィル・ド・ガランシエールは、そのまま敷衍したような解釈、つまり教皇の動向と2つのイタリア都市が脅威にさらされるという漠然とした解釈しか示していなかった *4
 その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、ジャック・ド・ジャンバルタザール・ギノーD.D.テオドール・ブーイフランシス・ジローウジェーヌ・バレストアナトール・ル・ペルチエチャールズ・ウォードマックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)アンドレ・ラモンロルフ・ボズウェルジェイムズ・レイヴァーの著書には載っていない。

 セルジュ・ユタンは、1行目はニースのフランスへの編入(1860年)に近いとする一方で、「偉大なケープ」はルイ・カペー(ルイ16世)のことではないかとした *5

同時代的な視点

 「偉大なケープ」がローマ教皇を指すという点ではほぼ合意ができているといってよい *6
 ルイ・シュロッセ(未作成)は、教皇パウルス3世が仲介したエグ・モルトの休戦(1538年)と関連付けた。この時フランスは神聖ローマ帝国・サヴォワ公国と争っており、教皇は休戦のための会談を提案した。当初その会談はニースで行なわれる予定で、教皇もニースに向けて出立していたが、サヴォワ公の強硬姿勢もあって事前交渉は難航し、交渉が妥結するまで教皇はヴォルトリ、ついでピオンビーノにとどまる羽目になったという *7

 ピーター・ラメジャラー百詩篇第10巻65番と同様に、「ざらついた文字」をローマ掠奪(1527年)に際しドイツ兵を率いてきたゲオルク・フォン・フルンツベルク(Georg von Frundsberg)のことで、彼の名前がドイツ語独特の書体(いわゆるヒゲ文字)で書かれたことを言っているとした *8


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