百詩篇第4巻88番

原文

Le grand Antoine du 1 nom de faict 2 sordide 3
De Phthyriase 4 à 5 son dernier rongé:
Vn qui de plomb vouldra estre cupide,
Passant le port d'esleu 6 sera plongé 7 .

異文

(1) du : de 1627 1644 1650Ri 1653 1665 1867LP
(2) nom de faict : moindre faict 1557B 1589PV 1649Ca 1650Le 1668, nom se fait 1588-89
(3) sordide : fordide 1589PV
(4) De Phthyriase : Phthyriase 1588-89, De phintriase 1557B, De Phthyraise 1590Ro, De Phytriase 1589PV 1649Ca 1668, De Phihyriase 1649Xa, De Phtyriase 1650Le, De Phthyriaise 1600 1610 1716
(5) à : a 1588-89
(6) d' esleu : d' Esleu 1672
(7) plongé : plonge 1557B

日本語訳

名のある偉大なアントワーヌは卑しい行為によって
その最期にはシラミに齧られる。
鉛を貪ることになるであろう一人は
港を過ぎると、選ばれた者に沈められるだろう。

訳について

 1行目 nom は普通に訳せば「名前」だが、中期フランス語では「称号」「名声」などの意味にもなった *1
 既存の訳についてコメントしておく。
 大乗訳1行目「小さな者の中の大きなアントニーは」 *2 は、moindre という異文を含む底本に基づいたもの。
 同4行目「エスリウ港を通って 水中に沈むだろう」は、ロバーツの原文が le Port d'Esleu と固有名詞のように書かれていたせいでもあるとは思うが、前半律は port までなので、普通はle port と d'esleu は区切られるべきである。ただし、古フランス語の port と解釈するロジェ・プレヴォは、4行目を「選ばれた者の待遇を失い、沈められるだろう」のように読んでおり、許容される余地はある。

 山根訳は特に問題はない。

信奉者側の見解

 テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は、ヘロデ、フェリペ2世などシラミに苦しんだ歴史上の人物を何人か挙げたが、アントワーヌについては何も説明せず、あまり具体的には解釈していなかった *3
 その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、ジャック・ド・ジャンバルタザール・ギノーD.D.テオドール・ブーイフランシス・ジローウジェーヌ・バレストアナトール・ル・ペルチエチャールズ・ウォードアンドレ・ラモンロルフ・ボズウェルジェイムズ・レイヴァーの著書には載っていない。

 マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)(1939年)は、アントワーヌ・ド・ブルボン(ナヴァル王でアンリ4世の父、1518年 - 1562年)が晩年にシラミに苦しんだとして前半をそのことと結びつけ、後半はアンリ4世がシュリーを登用して財政再建に当たったことと解釈した *4 。息子のジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ(1980年)は全体をアントワーヌ・ド・ブルボンの死と関連付けた *5 。アントワーヌ・ド・ブルボンの可能性は、マリニー・ローズも示していた *6

 エリカ・チータム(1973年)はこのアントワーヌが誰なのか不明として具体的には解釈していなかったし *7セルジュ・ユタン(1978年)に至っては一言も解釈をつけていなかった(ボードワン・ボンセルジャンの補注では2行だけ解釈が加わったが、ノストラダムスが評価していなかったらしい卑しい人物の予言という、具体性の全くない解釈に過ぎない)。

 パトリス・ギナール(未作成)(2007年)は、大型商船グラン・サン・タントワーヌ号 (Grand Saint-Antoine) が原因で起こったマルセイユのペスト大流行(1720年)と解釈した *8ジャン=ポール・クレベールは2003年の時点で複数の信奉者がその解釈を採っていることを指摘していたので *9 、当「大事典」では未確認だが、フランス語圏ではギナール以前にもそういう解釈を採用していた論者はいるものと思われる。

同時代的な視点

 ジャン=ポール・クレベールは中期フランス語の慣用表現「サン=タントワーヌの火」 (feu (de) Saint-Antoine) と関連する可能性を示した。サン=タントワーヌの火はある種の伝染病につけられたあだ名で、聖アントニウス(サン=タントワーヌ)自身かその聖遺物によって鎮められると伝えられていることに基づくのだという。
 LLS にもこの慣用表現は登場しており、「丹毒」 (érysipèle, 急性・化膿性の伝染病の一種) とされている *10 。DMF の場合、「壊疽」 (gangrène) とされている。
 ちなみに、1行目の nom (名声)によく似たフランス語として noma (水癌)がある。

 ロジェ・プレヴォはここでの「アントワーヌ」を、サンス枢機卿で教皇特使にして大法官であったアントワーヌ・デュプラ (Antoine Duprat) であろうとした。
 デュプラは権勢を誇ったが、1530年にフランソワ1世の身代金支払いに際し、金貨に鉛を混ぜて品位を落とし、差額を着服した疑いをかけられ、身代金取りまとめ役を解任された。その5年後、彼はシラミが原因で皮膚病に罹って死んだ *11
 詩の情景は一致しており、ピーター・ラメジャラーはこの解釈を支持している *12

 なお、信奉者たちの解釈で言及されているナヴァル王アントワーヌ・ド・ブルボンも確かにノストラダムスの同時代人ではあるが、この詩は1555年5月4日から1557年9月6日の間に書かれており、1562年に歿したナヴァル王をモデルにしたと考えることは出来ない。そもそもエドガー・レオニによれば、アントワーヌ・ド・ブルボンがシラミによる皮膚病で死んだとしている記録は見当たらないといい *13 、実際、4行全てをナヴァル王と結び付けているJ.-Ch.ド・フォンブリュヌでさえ、アントワーヌ・ド・ブルボンはルーアン攻囲戦の負傷が悪化して死んだと述べている。
 また、ノストラダムスはこの詩を書いたのと同じ頃(1556年3月21日付)に、「いとも卓越し、高貴にして力強きナヴァル王アントワーヌ・ド・ヴァンドームへ」と題する献辞を執筆し、『1557年向けの大いなる新占筮と驚異の予言』(1557年)に収録した(アントワーヌ・ド・ヴァンドームはアントワーヌ・ド・ブルボンの別名であり、言うまでもなく同一人物である)。もしも、四行詩がナヴァル王についてなのだとしたら、ほぼ同じ時期に公表した献辞では過剰なまでに褒め称えていた一方で、四行詩では中傷していたことになり、明らかに矛盾する。

 たとえば、献辞を捧げた直後に当人から酷評され、恨みに思って態度を変えたというような可能性は否定できないのかもしれないが、そういう根拠のない想定をするのであれば、アントワーヌ・クイヤールの方がよほど可能性があるのではないだろうか。ノストラダムスは上記の暦書の扉にも「私を何度も死に至らしめようとした人々に抗して」という言葉を書き、批判者たちへの対決姿勢をはっきりと打ち出していた。クイヤールは1556年にノストラダムスの『予言集』のパロディ本を出し、最も早い時期から批判していた人物である。
 そこでノストラダムスは、「クイヤールのような卑しい奴は同じアントワーヌという名を持つ人物でも、ナヴァル王のような高貴な方には程遠く、皮膚病で死んだデュプラのような悲惨な末路を辿る」といった見通しを織り込んだのではないか、という可能性も想定できる。

 以上は根拠のない憶測に過ぎないが、アントワーヌ(アントニウス、アンソニー、アントニオ・・・)は特段珍しい名ではなく、一部信奉者のように人名ではなく船の名とさえできるのなら、当然に教会や街路の名前もありうることになるだろう。その場合に「シラミ」がペストその他の疫病の隠喩とされるのだとすれば、この詩は特定性が高いどころか、むしろ当てはまる事例は今後他にも見出されることになるだろう。
 ちなみに、アントワーヌという名はそう珍しいものではなく、ノストラダムスの周辺にほかにもいた。彼の弟にもアントワーヌ・ド・ノートルダムがいたし、この詩を最初に出版した業者もアントワーヌ・デュ・ローヌといった。


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