百詩篇第2巻53番

原文

La grande peste1 de cité maritime
Ne cessera que mort2 ne soit vengée3
Du iuste sang4, par pris5 damne6 sans crime,
De la grand dame7 par feincte8 n'outraigée9.

異文

(1) peste : Peste 1672
(2) mort : Mort 1672
(3) vengée : vangée 1590Ro
(4) sang : snng 1627
(5) par pris : par prix 1627 1644 1650Ri 1653 1665 1672
(6) damne : damné 1568B 1568C 1568I 1597 1600 1605 1610 1611 1627 1628 1644 1649Xa 1650Le 1650Ri 1653 1660 1665 1668 1672 1716 1772Ri
(7) grand dame : grand' dame 1589PV 1650Le 1668, grande dame 1605 1649Xa, grand Dame 1653 1665 1672
(8) feincte : saincte 1588-89 1649Ca
(9) n'outraigée 1555 1557U 1568 1597 1840 : n'outragée 1557B 1588-89 1589PV 1590Ro 1600 1605 1610 1611 1628 1644 1649Xa 1649Ca 1650Le 1650Ri 1653 1660 1668 1716, nioutragée 1627, noutragée 1665 1672

校訂

 3行目の damne は damné となるべきで、ピエール・ブランダムールをはじめとする実証的な論者たちの見解は一致している。

日本語訳

海辺の都市の大規模なペストは
死が復讐されることでしか止まらないだろう、
― 代償として罪なくして咎められた公正な血の(死が)―
偽りによって辱められた偉大な婦人によって。

訳について

 前半2行は多少の訳語の差はあれど、他に読み方はなく、ne soit の ne が虚辞であることも、まともな論者の間では異論がない。
 それに対し、後半2行は様々な読み方がある。少なくとも3行目を2行目の「死」に掛かる言葉とする点は多くの論者が一致しているが、その3行目にしても pris を prix と捉えるかどうかには見解の相違がある。
 4行目に至っては論者によってまちまちである。ピエール・ブランダムールは3行目と切り離して「彼女( ?)は、偉大な女性の偽りによって辱められない」と釈義したが、疑問符つきの上に、その読みは不確かなものであると断っている*1
 当「大事典」の訳は、ロジェ・プレヴォたちの解釈をある程度意識したものである(ただし、プレヴォは4行目そのものの読み方を明示していない)。4行目の ne が虚辞であるかどうかには議論があるが、ここでは虚辞と見なした。

 既存の訳についてもコメントしておく。
 大乗訳は、2行目「死にいたるまで報復をやめないだろう」*2が誤訳。 ne ... que は「~しかない」の意味で、この場合は que 以下のこと、つまり報復が満たされない限り止まないということである。報復がやまないということではない。
 後半にも微妙な要素は含まれているが、上述のように、専門家からも不確かな要素を含む訳しか提示されていないので、ここでは取り扱わない。

 山根訳は前半に何の問題もなく、後半もそう訳せないこともないという意味で許容範囲内である。

信奉者側の見解

 英語圏とフランス語圏では異なる解釈がそれぞれ展開されている。

 テオフィル・ド・ガランシエールは、1665年にロンドンで起こったペスト大流行と解釈し、それは1649年のチャールズ1世の処刑の天罰であり、その復讐が遂げられるまで止まなかったことの予言と解釈した。4行目の「偉大な婦人」はセント・ポール大聖堂のことで、そこに不敬な者たちが厩舎を建てて神聖性を汚したこととした*3
 その後、フランス語圏では20世紀まで解釈されなかったが、英語圏ではD.D.チャールズ・ウォードも同じように1665年のペストと解釈した。ガランシエールは2つ前の51番をロンドン大火(1666年)と解釈してこの詩と関連付けたが、D.D.らはその間の詩も同じ時期の英蘭戦争に関わる詩篇として、ひとまとめに捉えた*4。ガランシエール式の51番と53番のみをロンドン大火などと結びつける解釈は、ロルフ・ボズウェルアンドレ・ラモンヘンリー・C・ロバーツが踏襲した*5ジェイムズ・レイヴァーも51番と53番の解釈は踏襲し、52番も同じ時期の出来事である可能性を仄めかした*6エリカ・チータムもレイヴァーの解釈をほぼ踏襲した*7

 マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)は1723年のマルセイユでのペスト大流行と結びつけ、公正な血の死は、その年に死んだ「摂政」オルレアン公フィリップ2世と解釈した*8
 息子のジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌは1720年のマルセイユにおけるペスト大流行とした。こちらはグラン=サン=タントワーヌ号が原因となったことで有名な事件である。
 セルジュ・ユタンは18世紀のマルセイユのペスト流行と解釈しているので、フォンブリュヌ親子とだいたい重なっているといえる*9

同時代的な視点

 ロジェ・プレヴォジャン=ポール・クレベールピーター・ラメジャラーは1545年にマルセイユで流行したペストをモデルとする点で一致している。
 この年にはリュブロン(リュベロン)でヴァルド派の撲滅のために大虐殺が行なわれており、そこで流された血の復讐と位置づけられていると読んだのである。最後の行の「偉大な婦人」は、殺された異端派を擁護しようとしたが、当局によって屈辱的な形で欺かれたサンタルの修道女 (la dame de Cental) のことだという*10
 ノストラダムスは翌年にエクス=アン=プロヴァンスに広まったペストの治療に当たったが、そのときの凄惨な有様を『化粧品とジャム論』に綴っている。「そこで発生したペストは非常に悪性で激しいものであって、多くの者が、神による罰であると述べていた」*11。ノストラダムス自身、多くの犠牲者たちを看取る中で、その凄惨さの陰に何らかの因果関係を想定せずにはいられなかったのではなかろうか。そう考えれば、プロヴァンスのペスト大流行とリュブロンの大虐殺を結び付けた可能性は十分にあるだろうし、未来の事件を引き合いに出すまでもないだろう。


コメントらん
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  • 1665年のロンドンでペスト大流行のとき、英国王はチャールズ二世で、英国国教以外は認めなかった。(クラレンドン法典) 次に英国王になったのはジェームス二世で、彼と結婚したアリー・オブ・モデナもカトリック教徒であり、偉大な婦人は彼女を指している。彼はカトリック絶対王政を敷こうとした専制君主という歴史上の悪役であった。(ホイッグ史観) -- とある信奉者 (2012-03-10 18:14:00)
  • アリー・オブ・モデナじゃなくて、メアリー・オブ・モデナです。 -- 名無しさん (2012-03-10 18:15:47)
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