百詩篇第5巻6番

原文

Au roy1 l'Augur2 sus3 le chef la main mettre
Viendra prier pour la paix4 Italique:
A la main gauche viendra changer le5 sceptre6
De7 Roy viendra Empereur pacifique.

異文

(1) roy 1557U 1557B 1568 1589PV 1772Ri : Roy T.A.Eds.
(2) l'Augur : l'Agur 1557B, laugur 1590Ro, l'augur 1597 1610 1611 1644 1650Ri 1653 1660 1716 1840, l'angur 1600 1867LP, langur 1627, l'augure 1649Ca 1650Le 1668, l'augut 1665
(3) sus 1557U 1557B 1568A 1588-89 1589PV 1649Ca : sur T.A.Eds.
(4) paix : Paix 1672
(5) le : se 1649Ca, de 1650Le 1668
(6) sceptre : septre 1557B, Sceptre 1649Ca 1650Le 1668 1672
(7) De : Du 1665 1867LP

校訂

 1行目 Augur はラテン語の表記であり、フランス語式には Augure の方が正しいが、原文そのものを校訂すべきとする見解は見られない。

日本語訳

卜占官が王の頭上に手を置いて、
イタリアの平和を祈ることになるだろう。
王杖を左手に持ち替えることになるのだ。
王から平穏な皇帝になるだろう。

訳について

 実証的な論者の間では、大きな読みの違いは見られない。

 既存の訳についてコメントしておく。
 大乗訳は、3行目「左手で彼は王権を変え」*1がまず微妙。確かに王杖 (sceptre, 王笏) は王権のシンボルであり、大乗のように訳せないわけではないが、文脈からすると不自然ではないかと思える。
 同4行目「王から彼は平和な皇帝と呼ばれるだろう」は不適切。王から呼ばれる、とは訳せない。大乗が元にしたはずのヘンリー・C・ロバーツの英訳でも From a King he shall become a pacific Emperor*2となっており、大乗がどういう根拠で訳したのか不明。

 山根訳は問題ない。

信奉者側の見解

 テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)はアウグルが古代ローマの卜占官の意味である一方、神官一般の意味の可能性もあることに触れてはいたが、解釈そのものは詩の情景をほとんどそのまま敷衍したようなもので、具体性を欠いていた*3

 アンリ・トルネ=シャヴィニー(1860年)はルイ・フィリップが没落したあと、ナポレオン3世によって再びフランスに帝政が敷かれたことと解釈した。「平穏な皇帝」については、ナポレオン3世の言葉「帝国、それは平和である」と結びつけた*4。この解釈はジェイムズ・レイヴァーエリカ・チータムらが踏襲した*5

 アナトール・ル・ペルチエは、未来に現れるシャルルマーニュの再来といえる「偉大なケルト人」に関する詩と解釈した*6
 共和政になった20世紀以降においても、フランスが未来において王政復古を遂げるときに現れる偉大な国王とする解釈は見られ、エミール・リュイール(未作成)マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)ロルフ・ボズウェルアンドレ・ラモンジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌヴライク・イオネスクらが細部に違いはあれども、その線での解釈を展開した*7

 ヘンリー・C・ロバーツはナポレオン(1世)と解釈した。なお、その日本語版において、augur が「裁判官」の意味にも解釈できる旨の注記があるが、原書の clergyman という語を訳し間違えたものだろう。

同時代的な視点

 エドガー・レオニは、アンリ2世が皇帝になることを期待した詩篇の1つだったのではないかとした*8

 ジョルジュ・デュメジルはティトゥス=リウィウスの『ローマ建国史』に見られる儀式の描写との類似性を指摘した*9
 伝説上の王ヌマ・ポンピリウスの時代に行われたとされる儀式では、右手に卜占杖 (lituus, 先の曲がった杖) を携えた卜占官が王に近づき、卜占杖を左手に持ち替えて空いた右手を王の頭上に置き、王にふさわしい人物かどうか神に伺いを立てた。
 また、ヌマ・ポンピリウスは平和的な君主の代名詞として古代ローマでは知られていた。例えば、アントニヌス・ピウス帝のお抱え伝記作家は主人を称えてこう記していた。「そして、幸運と平穏と宗教儀式を保持し続けたことで、ヌマその人にたとえられた」*10

 ティトゥス=リウィウスを出典と見る解釈はピエール・ブランダムールジル・ポリジ(未作成)ブリューノ・プテ=ジラールジャン=ポール・クレベールピーター・ラメジャラーらが踏襲しており、ほぼ定説化している*11。なお、そうした解釈の積み重なりの結果、儀式の様子が描かれたもうひとつの出典の可能性として、1556年に出版されたギヨーム・デュ・クール (Guillaume Du Choul) の『古代ローマ宗教論』の存在も指摘されている。

 ロジェ・プレヴォは例外的に、執筆時期から見て比較的近い時期にモデルがあると見なし、15世紀末にイタリア戦争を開始したフランス王シャルル8世と解釈した*12


名前:
コメント:
最終更新:2012年03月19日 22:25

*1 大乗 [1975] p.150。以下、この詩の引用は同じページから。

*2 Roberts [1949] p.147

*3 Garencieres [1672]

*4 Torné-Chavigny [1860] pp.40-42

*5 Laver [1952] p.200, Cheetham [1973], Cheetham [1990]

*6 Le Pelletier [1867a] p.341

*7 Ruir [1938] p.127, Fontbrune [1939] p.243, Lamont [1943] p.300, Boswell [1943] pp.297-298, Fontbrune (1980)[1982], イオネスク [1993] pp.156-157

*8 Leoni [1961]

*9 Dumézil [1984] pp.51-52

*10 クリス・スカー 『ローマ皇帝歴代誌』 創元社、p.139

*11 Brind’Amour [1996] p.XLVI, Polizzi [1997] pp.51-52, Petey-Girard [2003], Clébert [2003], Lemesurier [2010]

*12 Prévost [1999] p.216