悪魔的未来人「サタン」の超逆襲!

 『 悪魔的未来人「サタン」の超逆襲! 』は2012年にヒカルランドから刊行された浅利幸彦の著書。後述するように、一部にウィキペディアなどから盗用した記述が存在する。


【画像】『悪魔的未来人「サタン」の超逆襲!』

内容

 全9章であり、浅利が過去に主張してきた世界観が下敷きになっている。ごく大まかに要約すると、1999年は人類が天使的未来人から救済される期限で、それまでに天使的未来人を呼べなければ、悪魔的未来人に支配される悲惨な未来しかない。自分は天使的未来人に選ばれた聖書とノストラダムス予言の最終解読者であり、人類救済の使命を負っていた、というものである。

 浅利が1999年までに出版した著書は救済の可能性を示すものであった。だが、本書は逆に、人類は自分の主張に耳を貸さず、期限までに天使的未来人を呼べなかったのだから、近々悪魔的未来人がやってきてどれほどひどい未来に直面するかということを延々述べ、救いは全くないと主張している。

コメント

 基本設定に対する疑問点は浅利幸彦セザール・ノストラダムスの超時空最終預言の2記事に示してある。以下では、この本で新たに登場した点についてコメントしておきたい。

不適切な転載と盗用

 まず不適切な転載と盗用を1件ずつ指摘しておく。
 当「大事典」の姉妹サイト「ノストラダムス雑記帳」の「アンリ2世への手紙・対訳」から解説文が転載されているが、URLはおろかサイト名すら記載されていない。これは著作権法第48条が定める出所の明示を満たしておらず、正当な引用ではない
 また、姉妹サイトでは 「石をラテン語訳すれば petra になる」 と書いてあった解説を、彼は 「石をラテン語訳すれば petræ になる」 と改変している。これは厳密に言えば著作権法第20条が定める同一性保持権の侵害である。なお、これは petra で全く何の問題もない。仮に浅利がノストラダムスの原文に petræ と書いているからという理由で勝手に改変したのだとすれば、彼はおそらくラテン語の格変化を知らない。

 もっとひどいのは聖マラキの予言に関する解説で、212ページから213ページにかけての3段落がウィキペディア日本語版の記事からのほぼ丸写しである。ウィキペディアへの言及が全くないまま地の文の一部として扱われており、句読点の位置などまで含めて丸写ししておきながら、ほんの数語程度の改変を加えているので、引用と解釈することはできず、完全に盗用である *1 。ウィキペディアも引用に際しては適切な手続きが必要なのは言うまでもない *2
 ちなみに、上記の聖マラキについての盗用は、当時のローマ教皇ベネディクト16世の時代に、ローマ・カトリック教会とそれに象徴される地球人社会の崩壊を予言している、とする解釈の冒頭でなされたものだった。すでに次の教皇フランシスコが即位している現在となっては、盗用してまで提示する価値のある解釈だったのか、はなはだ疑問である。

サロン・ペトラ

 さて、上記の対訳に関する解説文の盗用は、アンリ2世への手紙の署名での住所表記が 「サロン・ペトラ」 となっていることを強調するもので、ノストラダムスはそれによって、自身がイエスから鍵を授かった真のペテロであることを示したというものである。
 浅利は 「サロン・ペトラ」 という表現が「アンリ2世への手紙」と1562年のピウス4世宛の献辞にしか登場しないかのように述べていて、後者はローマ教会に対する大胆な挑発だったというが *3 、非常に疑問である。
 サロン・ペトラはサロン・ド・クローに対応するラテン語表現であり、『1557年向けの大いなる新占筮と驚異の予言』でのナヴァル王アントワーヌ宛、『1559年9月16日に起こる蝕の意味』のヴィヴィエ司教宛の献辞などにも登場している。また、顧客宛などのプライベートな手紙類でも頻出しており、なんら特別な表現ではない。浅利が上記の2例しかないように認識していたのは、該当するもののうちでその2種類の献辞しか、日本語サイトで公表されていなかったためだろう。

 ちなみに、1562年のピウス4世宛ての献辞は複数あり、「サロン・ペトラ」は出版されることがなかったバージョンに見られる表記で、実際に出版された 『1562年向けの新たなる暦』 に収録されたバージョンでは使われていない。おそらく、サイト「ノストラダムスサロン」にあるその手紙の解説文あたりをもとに早合点したのだろうが、浅利の言うとおり「挑発」だったのだとすれば、ノストラダムスは人目に触れないバージョンでだけ威勢がよかったことになってしまう。
 同じ教皇に宛てたほぼ同じ書簡ですら使ったり使わなかったりしている時点で、ノストラダムスが「サロン・ペトラ」という署名を大して重視していなかったことが明らかである。

 また、「アンリ2世への手紙」は国王に全巻を捧げた時の手紙だから、作品全体の署名になっていると主張するが *4 、事実ではない。姉妹サイトにきちんと掲示してあるように、第4節にはこう明記されている。

  • 我が予言集の残りの3つの百詩篇を陛下に捧げに参るべきかと、長い間悩んでおりました。

 要するに、献上が事実だとしても、第8巻から第10巻しか献上していないのである。

 そもそも、上記「サロン・ペトラ」についての解説を最初に当「大事典」の姉妹サイトにアップロードしたのは、2008年5月のことであった。浅利がそれを見てから上記の解釈を固めたということは、その時点で解釈は完成していなかったということだ。
 1999年がタイムリミットだと主張する一方で、最終解読者を自認する著者が2008年になっても解読を完了させられていなかった(完成させたはずの解釈にも上記のように問題点がいろいろある)というのでは、人類救済など覚束なくても無理はない。

恐怖の大王に関する二説

 浅利は恐怖の大王について存在する2つの異文について、アポストロフ(アポストロフィ)がない deffraieur は購い主イエスを表しており、d'effrayeur と読む場合には、effrayant (恐怖の)と effracteur (押し込み強盗)の合成語であり、悪魔的未来人を指す多義構文になっていたと主張した。
 しかし、そもそもノストラダムスは多義構文として予言したことをはっきり否定しており(浅利幸彦の記事参照)、浅利の解釈は根本的に成り立たない。

 そして、deffraieurを「購い」と理解するには単語の本来的な意味に隔たりがありすぎる(deffraieurの記事参照)。

 ただ、effrayeur については、本来のフランス語に存在しない単語ということもあり、浅利の読み方が絶対にありえないとまでは断言できない。
 しかし、普通に捉えれば、それはeffrayer (怖がらせる)の活用語尾(-er は一般的な動詞の活用語尾)を名詞化の接尾辞 -eur に換えたものと見るのが自然だろうし、そこには effracteur の出る幕などない。単語の一部分でも一致すればその合成語だと主張できるのなら、どんなこじ付けでも成立してしまう。
 また、浅利はこの「押し込み強盗」は、聖書で「主の日」が盗人に喩えられていることを指しており、救済の期限が1999年であることを示したものだと主張している。
 しかし、聖書における盗人の比喩は、「主の日」がいつ来るか分からないものとして描写されていることは明らかである。たとえば、浅利は「ヨハネの黙示録」第3章3節を引用するが、そこには、彼自身が引用しているように、「わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたには決して分からない。」(新共同訳)ともある。また、再臨の時は分からないとする主張の根拠としてよく持ち出される「マルコによる福音書」第13章32節の

  • その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である。(新共同訳)

について、浅利は「馬鹿の一つ覚え」 *5 と揶揄しているが、キリスト教徒の中には、子(イエス)が知識を持たなかったわけではなく、人々に教える必要がない、あるいは教える使命を持たなかったことを意味するという見解がある *6
 実際、浅利が引用していない箇所として、「使徒行伝」(使徒言行録)第1章7節には、

  • イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。(新共同訳)

と、教える使命を持たなかったからとする見解を支持するかのような記述もある。

 要するに「盗人」が、いつ来るか分からないものの喩えとして使われている本来の文脈を離れて、1999年というはっきりした時期を示すキーワードだ、などと真逆の解釈を展開したところで、説得力に乏しいものと思われる。

 なお、effrayeur という単語は『1565年向けの暦』にも「大いなる effrayeurs が人々に対して増大するだろう。そしていっそう大いなるpeurs が(以下略)」という形で登場しており *7 、単に peur (恐怖) の類語として使われていることは明らかである。それとも、近未来に地球を支配するはずの悪魔的未来人とやらは、1565年の地球にやってきていたのだろうか?

666=マイクロチップ説

 浅利幸彦はかつて「666=バーコード」説を採っていたが *8 、666は、悪魔的未来人が人間の脳に埋め込むICチップ(マイクロチップ)を予言していたと解釈するようになった。彼の解釈では1999年までに解釈が示されることが重要だったが、その時点ではマイクロチップが一般的でなかったため、かわりにバーコードを比喩として使ったのだという *9
 しかし、マイクロチップはIC(集積回路)の小型化(大規模集積化)の延長線上にあり、MSIからLSI、さらにVLSIやULSIへという大規模集積化の動きは浅利が著書を刊行した時点で普通に存在していた。ゆえに、浅利個人がどうだったかは知らないが、1980年代や1990年代の一般人がICチップという概念を想像できなかったとは考えがたい(昔の特撮ヒーロー番組やアニメによく出てきた腕時計型通信機などは、まさにそうした技術の実現を前提としている)。
 また、小型機械を脳に埋め込むという発想についても存在していた。1950年代から1960年代のアメリカでは患者の脳に電極を埋め込んだり、小型機械を埋め込むという実験が行われており、それらを元に手塚治虫は『ブラック・ジャック』のエピソードとして「快楽の座」(1975年)を発表したこともある(ただし、雑誌掲載のみで未単行本化 *10 )。
 ゆえに、QRコードなどの比喩だというのならまだしも、ICチップを予言するために、それとほぼ無関係なバーコードによって喩えなければならなかったという主張は意味不明である。ましてや、666の記事で説明したように、666をバーコードと解釈すること自体がバーコードの規格に対する誤解に由来しているのだから、二重の意味で意味不明な主張となっている。

ネット上での宣伝行為

 この本の発売前後には、2ちゃんねるの各スレッドや、ノストラダムスに少しでも言及しているブログ(当「大事典」の姉妹サイトを含む)などに、見境のない宣伝リンクを貼りまくる人物が出現し *11 、2ちゃんねるに専用スレッドを立てて集中砲火を食らう人物まで現れた *12

 ちなみに当「大事典」の姉妹サイトでAZと名乗っていた人物は「ノストラ研究家を自称しているなら買わなきゃだめよ。ただし、理解できるかどうかは別だけど」などと述べていたが、理解できるかどうかと支持できるかどうかは全く別の話である。理解できるが支持しないという選択肢は当然に存在しており、支持されなかったことを「あいつは理解できなかったからだ」などと決め付けるのは、論理的思考ができないことを示している。
 大体その理屈で言えば、従来のノストラダムス理解や聖書理解と全く違う説を唱える浅利は、「従来の説を理解できなかったから支持しようとしない」ということになってしまう。
 AZがもしも浅利の熱心な支持者なら、「浅利説を支持しないのは理解できないから」などというお粗末な理屈を振りかざすのは、上記のように浅利自身を貶めることにつながってしまうのを理解しておいた方がいいだろう(AZがもしも浅利本人だったら、という仮定についてはあえて述べないでおく)。


コメントらん
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  • 立ち読みしましたけど、斬新な展開はありませんでしたね。 -- オカルトナ裏窓 (2012-06-02 21:37:20)

  • 予告どおり、荒らし投稿を掲示板の方に移転しました。管理者は投稿者のIPを見られるので、成りすましは一目瞭然です(文体と内容からして隠す気がなかったようにも見えましたが)。懲りずに投稿があるなら、該当するIPの投稿制限その他を検討します。 -- sumaru (2012-06-10 11:38:32)

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