原文
Quand1 l'animal2 à l'homme3 domestique
Apres grands peines4 & saults5 viendra parler :
Le6 foudre à vierge7 sera si maleficque8,
De terre9 prinse10,& suspendue11 en l'air12.
異文
(1) Quand : Quan 1772Ri
(2) l’animal : animal 1589PV 1712Guy, l’Animal 1672
(3) l’homme : l’Homme 1672
(4) grands peines : grand peine 1589Me 1649Ca 1712Guy
(5) saults : saluts 1589Me
(6) Le : De 1557U 1557B 1568 1588-89 1590Ro 1597 1600 1605 1610 1611 1628 1649Xa 1716 1772Ri 1981EB
(7) vierge : Vierge 1712Guy 1716
(8) si maleficque : sifum alique 1627
(9) terre : Terre 1672 1712Guy
(10) prinse : Prinse 1557U
(11) suspendue : suspendre 1557B, suspenduë 1605 1611 1628 1644 1649Ca 1650Ri 1650Le 1653 1665 1668 1712Guy 1716 1772Ri 1981EB
(12) l’air : lair 1590Ro, l’aïr 1650Ri, l’Air 1672
日本語訳
飼い馴らされた動物が人へと
大変な骨折りと跳躍の末に話しかけに来るであろう時、
雷は乙女へと大いに害をなすだろう。
(彼女は)大地から取られ、空中に吊るされる。
訳について
1行目の domestique は l’homme ではなく l’animal に係っている。かなり変則的な係り方のようだが、ラテン語詩ではしばしば見られるものであると指摘されている。animal domestique を「飼い馴らされた動物」と訳したが、これは要するに
高田勇・
伊藤進訳にあるように「家畜」のことである。
4行目は活用語尾(単数の女性形)からいって、3行目の vierge (乙女) を受けていると見るのが自然である。
既存の訳についてコメントしておく。
大乗訳について。
1行目「動物が野獣のような人間になるとき」は意味不明。
ヘンリー・C・ロバーツの英訳も When the beast familiar to mankindという誤訳なのだが、それを何か勘違いして転訳した結果と思われる。
2行目「努力して とびあがるものが 話をするようになるだろう」は apres (後に) が無視されているし、この場合の viendra parler は普通に「話しに来る」でよいだろう。
3行目「雷光は未知の世界に不吉なしるしをつけ」は vierge (乙女) を「未知の世界」と訳すのがかなり強引に思われる。
4行目「この世から姿を消して 天界へいくだろう」は誤訳。air は空中の「空」であって、超常的な「天」のニュアンスはない。
山根訳について。
1行目「人に飼いならされた動物が」は、à l'homme の処理の仕方が若干不適切。
2行目「悪戦苦闘のすえにしゃべりはじめるとき」は意訳の範囲内かもしれないが、sauts (跳躍) が訳に反映されているか疑問である。
3行目「杖にあれほど悪さをする雷が」は不適切。これは
エリカ・チータムが英訳において、古フランス語において verge (杖) は vierge とも綴られたと主張していたことによる。もっとも、
エドガー・レオニらはそのように主張しておらず、LAFなどにもそうした綴りの揺れは載っていない。
アナトール・ル・ペルチエは近い読み方をしていたが、彼の場合は読み替えの結果である。
なお、
五島勉も
『ノストラダムスの大予言』シリーズに収録することはなかったが、この詩を翻訳していた。その訳についても検討しておこう。
1行目「その獣が人類を飼い慣らすとき」は誤訳。仮に domestique が l’homme に係るのだとしても、それなら「家内奉公人」などの意味に解するべきだろうし、前置詞の位置から言っても、飼い慣らされる対象が「人類」とは読めない。
2行目「大きな困難と飛躍のうちに (人は)電光によって話し合うようになり」も不適切。「うちに」は「のちに」の誤植かもしれないが、「電光によって」というのは原文にない。
3行目「電光による処女の像が現われ それは不吉な結果となる」もおかしい。「像として現われ」に該当する句が原文には存在しないし、主語の取り方もおかしい。
4行目「それは地上から発せられ 空中にかかるようになる」は、prendre (prinse の原形) を「発する」と訳せるかが疑問である。
信奉者側の見解
テオフィル・ド・ガランシエールはそのまま敷衍するように、飼い犬が飼い主の若い女性にほえて飛び掛ろうとするのは、彼女が雷に殺されて宙に吊り上げられるから、とだけ解釈した。
バルタザール・ギノーは、前半と後半をそれぞれ驚くべき出来事と解釈し、前半は人間の産業発展の結果、犬などの家畜が話すようになることを予言したもので、後半は悪魔がもたらす災厄と解釈した。
アナトール・ル・ペルチエは1630年から1671年の銃火器の改良と解釈した。「飼い慣らされた動物」を「犬」と見るのはガランシエールたちと同じだが、ル・ペルチエはそれを「撃鉄」と解釈した(フランス語で犬を意味する chien は撃鉄の意味もある)。その「跳躍」とはバネの跳ね上がりのことで、さらに、vierge (乙女) をラテン語を援用した読み替えによって「硝石」と解釈した。つまり、彼の解釈によれば、この詩は改良された小銃で弾を発射する時の解説ということになる。
この解釈は
チャールズ・ウォード、
アンドレ・ラモンらが踏襲した。
エリカ・チータムは、避雷針、無線通信、電力など、ノストラダムスの時代に存在しなかったテクノロジーについて暗示したものと解釈した。
五島勉は上の「訳について」の節に掲げた独自の訳を元に、テレビ電話のような対話システムや、空中スクリーンに投影される映像技術などを予言していたと解釈した。
同時代的な視点
高田勇・
伊藤進はガランシエールの読み方が穏当なものであるとの認識を示し、古典古代以来しばしば見られた、落雷に関する怪異譚との関連性を指摘した。かつて落雷は様々な信じがたい死の状況を生み出すものと信じられたのである。
ピーター・ラメジャラーはユリウス・オブセクエンスが似たような驚異を記録していることを指摘したほか、1545年にメヘレンの火薬庫に落雷があり、大事故になったことも投影されているのかもしれないとした。
多少強引な解釈かもしれないが、雷そのものに跳ね飛ばされるよりも、落雷が引き起こした爆発で吹き飛ばされ、(木の枝などに引っかかり?)宙吊りになる方が、まだありえそうな情景なのは事実だろう。
ロジェ・プレヴォは1560年代の災厄の数々を、当時の人々が旧約聖書の情景と重ね合わせていたことを指摘しつつ、この詩でも同じような認識が示されていると解釈した。もっともプレヴォの解釈は単語の様々な読み替えを必要とする上に、この詩が1555年に公刊されていたこととも整合しないので、ここで採用することはできないだろう。
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コメントらん
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- 電話、無線、電球の発明と、リンカーン暗殺で絞首刑になった 四人の共犯者の一人にメアリーという女性がいた。 メアリーはマリアの英語名であり、彼の妻も同じ名前。そして 聖母である処女マリアとも同じ。マッキンレー大統領は1901年9月6日 おとめ座の時にニューヨーク州のバッファロー(水牛)という都市で 狙撃され、同年月の14日に死亡。電球の発明者はエジソンでなくて ジョセフ・スワン(白鳥)という名の英国の科学者。 -- とある信奉者 (2018-02-28 06:02:49)
最終更新:2018年02月28日 06:02