百詩篇第9巻1番

原文

DANS la maison du 1 traducteur 2 de Bourc 3
Seront les 4 lettres trouuees 5 sus 6 la table 7 ,
Bourgne 8 roux, blanc, chanu 9 tiendra de cours 10 ,
Qui changera au nouueau connestable 11 .

異文

(1) du : dn 1611A
(2) traducteur : tractateur 1627, Traducteur 1672 1772Ri
(3) Bourc : Bours 1611B 1660, Boure 1605 1649Xa 1672
(4) les : es 1628
(5) trouuees : rreuuees 1627, trouués 1653
(6) sus 1568 1590Ro 1597 : sur T.A.Eds.
(7) table : Table 1672
(8) Bourgne 1568A 1568B 1590Ro 1653 1665 : Borgne T.A.Eds.
(9) chanu : chenu 1605 1611 1644 1649Xa 1649Ca 1650Le 1660 1668 1672, chénu 1627
(10) cours : court 1568A 1653 1665
(11) connestable 1568 1590Ro 1653 1665 : Connestable T.A.Eds.

(注意)冒頭のDANS は第9巻の巻頭としての大文字化なので、異文を採録していない。

校訂

 1行目 Bourc については、Bourd. とする可能性を提案しておきたい。詳細はBourc参照。

 3行目のchanu を chenu とするべきというのは、多くの論者が一致しており、訳はそれに従った。ただし、その場合、blanc(白)と chenu(白髪)で意味が重複してしまうことになる。ヴライク・イオネスクはギリシャ語の音訳として chanu を「空疎な」と訳しているが、これが妥当かについては何とも言えない。
 同じ行の tiendra de cours は、de の存在が不自然に思える。ジャン=ポール・クレベールが指摘するように、tiendra decours (decors)と読むべきであろう。

日本語訳

ブールの翻訳者の邸宅で
机上の手紙が発見されるだろう。
隻眼、紅毛、白、白髪が衰えつづけ、
新しい大元帥に交替するだろう。

訳について

 1行目。Bourc はこの綴りが正しいとしても、3行目との韻を考えれば、c は発音しないはずである。
 3行目。「衰えつづけるだろう」は「経過(流れ)を保ち続けるだろう」とも訳せる。山根訳の「講義を続ける」では de をどう扱っているのかがよく分からない。
 4行目について。connestable は(大)元帥、総司令官、官房長など、いくつかの訳がありうる。山根訳の「宮内庁長官」は許容範囲だと思えるが、大乗訳の「巡査」は不適切であろう。当「大事典」では、普通の元帥(maréshal)と区別するために「大元帥」とした。

信奉者側の見解

 ヴライク・イオネスクは、Bourc はブカレストの古称 Boucour のこととし、「ブカレストの翻訳者」はイオネスク自身にほかならず、詩の前半は自分が共産主義政権時代のルーマニアで家宅捜索を受け、テーブルの上にあったノストラダムス予言の解釈原稿もチェックされたことを言い当てたとしていた。後半は、ルーマニアの独裁者チャウシェスクに関するものと解釈した *1

 中村惠一は、3行目の隻眼の赤白を「日の丸」(白地に赤の片目)と解釈し、日本に救世主が現れる予言だとした *2 。ただし、3行目の roux は色としては赤褐色を意味し、日の丸の真紅にはそぐわない。

 セルジュ・ユタンはペタン元帥の予言とした。

 エリカ・チータムジョン・ホーグはエチエンヌ・ド・ラ・ボエシーに関する詩としているが、それについては以下を参照のこと。

同時代的な視点

 エドガー・レオニは、エチエンヌ・ド・ラ・ボエシー(1530年-1563年)の描写と解釈した *3 。ラ・ボエシーはモンテーニュに大きな影響を与えた翻訳家・思想家で、死後出版された翻訳書『クセノフォンの倹約論およびプルタルコスの結婚の規則』(1571年)でも知られている。
 彼は、1548年のボルドー一帯で起きた反塩税一揆に触発されて、暴政に抗議した諷刺書『自発的隷従論』(『反一人論』)を執筆した。この文献が公刊されたのはラ・ボエシーもノストラダムスも死んだ後の1570年だが、影響力のある文献として、生前すでに手稿が回覧されていたらしい。
 その反塩税一揆で弾圧を行ったのが、大元帥アンヌ・ド・モンモランシーである。モンモランシーはラ・ボエシーに批判された格好になったわけだが、言論弾圧などには踏みきらなかった。しかし、ノストラダムスは、その後任の大元帥によってラ・ボエシーが弾圧される可能性を想定したのではないかというのが、レオニの見解である。
 レオニも指摘しているが、モンモランシーは1567年に死ぬまで大元帥の地位にあったので、大元帥の交替を見ずしてラ・ボエシーは亡くなっている。
 ピーター・ラメジャラーも、ラ・ボエシーとモンモランシー大元帥を描写したものだという解釈を支持している。ただし、彼らは3行目の「隻眼、紅毛、白、白髪」に触れておらず、そうした描写がモンモランシーに該当するのかはよく分からない。

 ノストラダムスがラ・ボエシーの手稿を知っていたのかについても、確定的なことはいえない。アンリ2世への手紙第61節には celle servitude benigne & volontaire という、『自発的隷従論』の原題(De la servitude volontaire)とよく似た表現が登場しているが、偶然なのか意図的なものなのかは分からない。

 仮にラ・ボエシーについての詩でなかったとしても、レオニやマリニー・ローズが指摘するように、フランス史において大元帥の地位が存在したのは1626年までであり、廃れていたこの称号が1538年に復活してから、任命されたのは僅かに4人である。用語に忠実にこの詩を読むならば、該当する事件は1626年以前に求められなければならないだろう。


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