ミラノ

 ミラノ (Milan, ミラーノ) はイタリア北部ロンバルディア州の州都にしてミラノ県の県庁所在地。古代ローマ時代にはメディオラヌム (Mediolanum, 平原の中心) と呼ばれていた。英語・フランス語ではミラン (Milan) という。


【画像】邸景一 『ミラノ・イタリア湖水地方』

 現代イタリア経済の中心地であり、金融業や諸工業が発達している。また、世界遺産「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院」に代表される建築・美術の見所も多く抱える観光地である。
 スポーツの面でも、ACミランとインテル・ミラノという2つの有名サッカークラブチームのホームタウンとなっている。

歴史

 古代にガリア人が築いた都市が基盤になるが、紀元前222年にローマ人によって占領された。

 紀元3世紀以降、西ローマ帝国の首都だった時期があり、キリスト教徒に信仰の自由を認めたミラノ勅令が発されたのもこの地である。

 ロンゴバルド人によってロンゴバルド王国が建国されると、その中心都市をパヴィーアに譲ったが、10世紀には再び中心都市の座に返り咲いた。

 神聖ローマ帝国の干渉にも毅然と立ち向かい、1167年には近隣諸都市とともにロンバルディア同盟を結成し、レニャーノの戦いで勝利したことによって自治権を獲得した。

 ヴィスコンティ家、スフォルツァ家が相次いでミラノを支配し、スフォルツァ家のルドヴィーコ・イル・モーロ (1452 - 1508年) のときに文化的にも大いに栄えたが、ミラノ公国の継承権を主張するルイ12世 (ヴィスコンティ家の血も引いていた) がフランス王についたことで、イタリア戦争に巻き込まれた。

 1499年にルイ12世はミラノ占領に成功したものの、その後の紆余曲折を経て、1513年に放棄する羽目になった。後を継いだフランソワ1世もたびたびミラノ攻略を行なったが、パヴィーアの大敗を経たマドリード条約(1526年)でミラノの放棄に同意した。

 しかし、1535年に亡くなったスフォルツァ最後の当主フランチェスコに跡継ぎがいなかったことから、ミラノへの野心を燃やしたフランス、ハプスブルク両陣営によってイタリア戦争が再開される原因となった。この戦争の結果、ミラノはスペイン領となり、イタリア戦争の終結を最終的に確認したカトー=カンブレジ条約 (1559年) でも、まったく異論は示されなかった。

 スペインの支配は結局1715年まで続くことになる。のちにミラノはナポレオン戦争の混乱期にチザルピナ共和国(1797年)、イタリア王国(1805年)、ロンバルド=ヴェネト王国(1815年)などの首都に相次いでなった*1

ノストラダムス関連

 ノストラダムスはたびたびイタリアに足を伸ばしていたため、ほぼ間違いなくミラノも訪れていたと思われる。

 暦書のうち、最古の外国語版である1557年イタリア語版をミラノの業者インノチェンティオ・チコネラが刊行していたことも、おそらくノストラダムスがミラノを訪れていた(はずである)ことと無関係ではないだろう。


 また、第8巻13番に登場する「千年」(mil ans) も、文脈からしてミラノ (Milan) の言葉遊びや誤植ではないかと考えられている。言葉遊びということでいうと、予兆詩第27番予兆詩第34番に登場する「半分の羊毛」(mi-laine, demi laine) もミラノを意味する言葉遊びと考えられている。「半分の羊毛」はノストラダムスのオリジナルではなく、当時のアルチャートの『エンブレマタ』に由来するという説もある。

 また、ミラノには優れた美術品の収蔵でも有名なアンブロジアーナ図書館があり、ここには、前記の1557年イタリア語版の暦書をはじめとして、貴重なノストラダムス関連文献がいくつも所蔵されている。



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最終更新:2012年09月21日 22:15

*1 以上、ミラノの基本情報は主に『コンサイス外国地名事典』第3版、『ミシュラングリーンガイド・イタリア』、柴田・樺山・福井『フランス史2』などによった。