詩百篇第8巻96番


原文

La synagogue1 sterile sans nul fruit
Sera receu2 entre les infideles3
De Babylon4 la fille du porsuit5
Misere & triste luy trenchera les aisles6.

異文

(1) synagogue : Synagogue 1605sn 1611 1628dR 1644Hu 1649Xa 1649Ca 1650Le 1667Wi 1668 1672Ga 1772Ri 1840 1981EB, synaguogue 1627Ma 1627Di
(2) receu 1568X 1568A 1653AB 1665Ba : receue 1568B 1568C 1603Mo 1606PR 1607PR 1610Po 1672Ga 1772Ri, receüe 1591BR 1597Br 1644Hu, receuë 1605sn 1611 1627Ma 1627Di 1628dR 1649Ca 1649Xa 1650Ri 1650Mo 1650Le 1667Wi 1668 1716PR 1840 1981EB, reçû 1697Vi 1720To
(3) infideles : Infideles 1672Ga
(4) Babylon : Baqylon 1611B
(5) porsuit : poursuit 1568C 1605sn 1627Ma 1644Hu 1649Xa 1650Ri 1650Le 1653AB 1665Ba 1667Wi 1668 1672Ga 1697Vi 1720To 1840 1981EB, poursuits 1627Di
(6) aisles : aesles 1568X, æisles 1590Ro, Aisles 1672Ga

(注記)版の系譜の考察のために1697Viも加えた。

日本語訳

何の実も宿さない不妊のシナゴーグ
不信心者たちの間で受け入れられるだろう、
― 追い立てられた者の娘バビロンの(不信心者たちの間で)―。
悲惨と悲しみがその翼を切り落とすだろう。

訳について

 後半の訳が非常に難しい。
 娘とバビロンを並列的に理解するのはジャン=ポール・クレベールの読み方に従ったものだが、リチャード・シーバースピーター・ラメジャラーは2行目と切り離し、「バビロンの娘」のように読んでいる。
 ただし、後述するシーバースの理解どおり、1行目にイザヤ書の表現が投影されているのなら、3行目にもイザヤ書の表現である「娘バビロン」が投影されていてもおかしくないだろうと判断し、上のように訳した。
 あるいは「バビロンによって迫害された男(ユダヤ人)の娘」とでも訳しても、文脈に整合するだろう。
 4行目の Misere は名詞、triste は形容詞なので、双方を形容詞的か副詞的に理解してどこかに係ると考えるか、双方を名詞と理解して4行目の主語に取るかのいずれかの読み方が採用されることになるだろう。
 ラメジャラーらは前者と考え、クレベールは後者と理解した。当「大事典」では後者を採った。

 既存の訳についてコメントしておく。
 大乗訳は、後半がおかしい。
 3行目「バビロンでしいたげられた娘は」*1は、du porsuit (poursuit) が poursuite になっていれば成立しうるが、原文に忠実に訳す限りでは du porsuit は 「追い立てられた男の」 という意味にしかならず、poursuit を娘に直接係らせることはできない。
 4行目「あわれで悲しく 髪を切る」は「翼」(ailes) が「髪」になる理由が不明。この意味不明な訳はヘンリー・C・ロバーツの英訳の時点で見られた。

 山根訳は、特に問題はない。1行目「なんの成果も生まぬ不毛のユダヤ教」*2にしても、シナゴーグがユダヤ教ないしユダヤ教徒の隠喩なのは事実であろうから、そのように意訳するのは許容されるだろう。

 この詩は五島勉のベストセラー『ノストラダムスの大予言・中東編』でも訳されているが、その3行目「その娘はバビロンから追及され」*3が、上述の大乗訳と同じ問題点を抱えている。

信奉者側の見解

 テオフィル・ド・ガランシエールは、シナゴーグがキリスト教徒の教会に当たるものだと説明した上で、ごく簡略に詩の情景を敷衍しただけだった*4
 その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、ジャック・ド・ジャンバルタザール・ギノーD.D.テオドール・ブーイフランシス・ジローウジェーヌ・バレストアナトール・ル・ペルチエチャールズ・ウォードジェイムズ・レイヴァーの著書には載っていない。

 ロルフ・ボズウェルは近未来にイスラーム信徒がユダヤ教に改宗することを描いているのかもしれないとした*5
 アンドレ・ラモンはパレスチナのユダヤ人居住区(ラモンが解釈した1943年の時点ではイスラエルは建国されていない)についてと解釈し、そこには安寧が存在せず、戦争と混乱の中で、ユダヤ人たちはパレスチナから立ち去ることになる予言と解釈した*6

 セルジュ・ユタンはイスラエルに対抗するアラブ諸国の連盟に関する予言と解釈した*7

 ヴライク・イオネスクは、シナゴーグを現代のイスラエルの隠喩と解釈し、第四次中東戦争の予言と解釈した*8

 五島勉はイラクのクウェート侵攻(湾岸危機、1990年)を踏まえて、近い将来アラブ諸国とイスラエルがぶつかり、イスラエルが敗戦国になることの予言と解釈した*9

同時代的な視点

 エドガー・レオニはノストラダムスがこれを書いていた時代のユダヤ人の境遇と解釈した。
 当時、スペインやイタリアで迫害されていたユダヤ人は、異教徒に寛容な政策を取っていたスレイマン1世のオスマン帝国に逃れることがまま見られたのである。1553年にコンスタンティノープルに逃れたドン・ジョセフ・ナッシ (Don Joseph Nassi) のように、その地で勢力を伸ばした者もいた*10
 ピーター・ラメジャラーはこの解釈を支持した上で、『ミラビリス・リベル』に描かれた未来図も投影されている可能性を示した*11

 後半が史実とどう対応するのか不鮮明だが、ユダヤ教徒がイスラーム勢力に積極的に身を寄せることがよくない結果につながると警告したものか。

 なお、しばしば1行目がユダヤ教に強く否定的な表現であると読まれているが、リチャード・シーバースはイザヤ書第54章1節の表現との類似性を指摘している。

「喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。
 歓声をあげ、喜び歌え
 産みの苦しみをしたことのない女よ。
 夫に捨てられた女の子供らは
 夫ある女の子供らよりも数多くなると主は言われる」*12

 イザヤ書がいう「不妊の女」は、新しいシオンの復興を描くにあたり、シオン(エルサレムの一地域で、エルサレムそのものの換称としても用いられる)をたとえたものだという*13
 もしもこの表現が念頭に置かれていたのなら、果たして強く否定的だったのかには疑問も残る。

 なお、イザヤ書第47章1節にはバビロンを娘に喩えたくだりが存在する。

「身を低くして塵の中に座れ
 おとめである娘バビロンよ。
 王座を離れ、地に座れ、娘カルデアよ。
 柔らかでぜいたくな娘と呼ばれることは二度とない」*14

 これは旧約の預言者がしばしば町を娘に喩える表現に沿ったもので、バビロニアの首都がカルデア人の娘として描かれているという*15


【画像】関根 清三、旧約聖書翻訳委員会 『旧約聖書〈7〉イザヤ書』


※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。


コメントらん
以下に投稿されたコメントは書き込んだ方々の個人的見解であり、当「大事典」としては、その信頼性などをなんら担保するものではありません。
 なお、現在、コメント書き込みフォームは撤去していますので、新規の書き込みはできません。

  • イオネスク説を支持する。彼の説以外は説得力を持たない。 -- とある信奉者 (2012-10-05 22:35:27)

タグ:

詩百篇第8巻
最終更新:2020年06月28日 10:53

*1 大乗 [1975] p.254。以下、この詩の引用は同じページから。

*2 山根 [1988] p.284。以下、この詩の引用は同じページから。

*3 五島『ノストラダムスの大予言・中東編』p.108。以下、五島による訳はこのページから。

*4 Garencieres [1672]

*5 Boswell [1943] p.326

*6 Lamont [1943] pp.308-309

*7 Hutin [1978], Hutin [2003]

*8 イオネスク [1991] pp.151-154

*9 五島『ノストラダムスの大予言・中東編』pp.108-117

*10 Leoni [1961]

*11 Lemesurier [2003b], Lemesurier [2010]

*12 新共同訳による。

*13 関根正雄訳『イザヤ書・下』p.171

*14 同上

*15 関根、前掲書、p.157