イスタンブル

 イスタンブル (Istanbul, イスタンブール) はトルコの首都アンカラをしのぐ同国最大の都市である。イスタンブル州の州都で、ボスポラス海峡の入り口に位置している。ビュザンティオンビュザンティウムコンスタンティノポリス (コンスタンティノープル) など、時代ごとに様々な名前で呼ばれてきた。

歴史

 紀元前7世紀に古代ギリシアの都市国家メガラの植民都市として建設された。メガラのビュザスが建設したことからビュザンティオンと名づけられたとも言われる。その後、スパルタ、アテネ、マケドニアなどに領有権が移った。これは交易と軍事の両面で利用価値の高い場所に位置していたためである。
 2世紀にローマ帝国の領土となると、ローマ式にビュザンティウムと呼ばれるようになった。4世紀にはここに遷都した皇帝コンスタンティヌスが自らの名前を冠してコンスタンティノポリスと改名した。
 ローマ帝国分裂後は東ローマ帝国の首都として栄えたが、第四次十字軍のコンスタンティノープル占領などの混乱も経験した。その後、東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン帝国が占領すると、ここを新たな首都と定め、のちにイスタンブルと呼ばれるようになった。

 都市はアジア側とヨーロッパ側に分かれ、ヨーロッパ側の旧市街にはキリスト教の大聖堂をモスクに転用したアヤ・ソフィア (現在は無宗教の博物館)、オスマン帝国の名建築家ミマル・スィナンの手になるスレイマニエ・モスクなど、ビザンティン建築やオスマン建築の代表的傑作との呼び声の高い建造物群が残り、「イスタンブルの歴史地区」の名で世界遺産に登録されている。
 アジア側はユスキュダル(ウスキュダル)地区で、住宅地や商工業地区が展開している。イスタンブルの工業は造船、製陶、織物、皮革などである。また、その港に搬入される物資は、トルコの輸入品の約 60% を占めている*1


【画像】 井上浩一 『生き残った帝国ビザンティン』

ノストラダムス関連

 ノストラダムスが生きていた時代は、スレイマン大帝が治めるオスマン帝国の首都であった。オスマン帝国の侵攻への警戒がたびたび織り込まれていたノストラダムスの詩には、この都市が頻出する。
 その際の呼び方は一貫してビュザンティオン (ビュザンティウム) のフランス式の綴りであるビザンス (Byzance) およびその住民を指すビザンタン (Byzantin) などである。

 以下の詩に登場しているほか、暦書の散文で数回登場している。



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最終更新:2012年10月15日 22:09

*1 以上は『コンサイス外国地名事典』第3版、『世界遺産検定公式テキスト1』による。