アントワーヌ・デュ・ローヌ(Antoine du Rosne, 生没年未詳)は、確認されている範囲では1545年から1562年までリヨンで出版業を営んでいた人物である。あだ名は「リズロ」(Lizerot)。彼が手がけた出版物で、確認されているものはそれほど多くない。
ノストラダムスとの関わり
ノストラダムスは1553年11月に自分の原稿をいい加減な形で出版した業者を提訴し、出版権を取り上げ、「リズロ」というあだ名を持つアントワーヌ・デュ・ロワイエ(Antoine du Royer)という人物に出版を任せている。この「アントワーヌ・デュ・ロワイエ」は、デュ・ローヌの誤記とされる。これが事実なら、ノストラダムスが著作を発表し始めた時期に、既に接点があったことになる。
その後、1557年と1558年にはノストラダムスが自由訳した著書『
ガレノスの釈義(未作成)』も出版している。ここでも、書斎から星を眺めるノストラダムスの木版画が使われているが、これを最初に使っていた
マセ・ボノム(未作成)との関係は分かっていない。
ジェラール・モリス(未作成)は、この木版画はノストラダムスの出資で作成されたものであり、ノストラダムスが引き取ってデュ・ローヌに譲渡したという可能性を想定しているが、史料上の裏付けはない。
なお、デュ・ローヌは、ジャン・スコンネル(Jean Sconners)という無名の占星術師の暦書を1559年に手がけたときにも、ノストラダムスを図案に用いた木版画を使ったようである。
後継者
1560年代半ばからは事業を引き継ぐ形で兄弟のアンブロワーズ・デュ・ローヌが、後には息子のエチエンヌ・デュ・ローヌがそれぞれ活動しているが、アントワーヌ自身の没年等についてはよく分かっていない。なお、これらの後継者はノストラダムスの関連書は出版していない。
最終更新:2008年12月11日 20:31