百詩篇第8巻37番


原文

La forteresse1 aupres de la Tamise2
Cherra par3 lors le Roy dedans serré,
Aupres du pont4 sera veu en chemise
Vn5 deuant mort, puis dans le fort6 barré.

異文

(1) forteresse : Forteresse 1712Guy
(2) Tamise : tamise 1611B
(3) par : pour 1590Ro
(4) pont : Pont 1712Guy
(5) Vn : Au 1665, Un peu 1715DD
(6) fort : sort 1590Ro, Fort 1772Ri

(注記)1715DDは、D.D.による異文。

日本語訳

テムズ川近くの城砦は
王がその中に閉じ込められている頃に陥落するだろう。
橋の近くで目撃されるだろう、下着姿で
死を前にした男が。そして砦の中で妨げられる。

訳について

 4行目の後半は、barré が fort に係っていると見て、「そして妨げられた砦の中で」 と訳すことも可能である。ただし、ジャン=ポール・クレベールピーター・ラメジャラーリチャード・シーバースはいずれもそのような訳を採用していない。

 既存の訳についてコメントしておく。
 大乗訳は1行目以外に問題がある。2行目「落とされて、王はそれを守ったが」*1は不適切。serrer を守ると訳す根拠が不明。
 3行目「王の下着が橋の近くで見られるだろう」も、「王の下着が」の部分がおかしく、en が訳に反映されていない。
 4行目「その人は砦にとじ込められて そのまえに死ぬ」も、devant mort でひとまとまりと捉えるべきで、繋がり方がおかしいように思われる。

 山根訳は許容範囲内である。

信奉者側の見解

 現代では、イングランド国王チャールズ1世の処刑を見事に的中させたと解釈されている。チャールズ1世はピューリタン革命によってウィンザー城に幽閉されたのち、1649年に下着姿で処刑された。

 しかし、同時代に彼の処刑の予言として有名だったのは百詩篇第9巻49番であり、こちらの詩篇はあまり注目されていなかったようである。
 テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は解釈の必要なしということなのか、旧約聖書のダニエル書第4章10節からの引用として、「夢は汝を嫌う者たちへ、その解釈は汝の敵たちへ」 というフレーズを示している以外、何も書いていない*2。なお、少なくとも新共同訳のダニエル書第4章10節は、「更に、眠っていると、頭に浮かんだ幻の中で、聖なる見張りの天使が天から降って来るのが見えた」 と、ガランシエールの引用とはまったく異なっている。
 その後、特に名誉革命(1689年)前後に、イギリスではいくつものノストラダムス関連パンフレットが出されているが、当「大事典」で確認している6種9点*3の中に、この詩に触れているものは一つもない。

 バルタザール・ギノー(1712年)はロンドン塔にて下着姿で処刑される王を描いているとしていたが、過去の事件とは結び付けていなかった*4

 一方、英語圏では、D.D.(1715年)がウィンザー城に幽閉された後に処刑されたチャールズ1世とする解釈を提示した*5。当『大事典』で確認している範囲内では、これがチャールズ1世処刑と結び付けている最初の解釈例である。

 しかし、フランス語文献では1800年に刊行された匿名の 『暴かれた未来』 においても、ノストラダムスがこれを書いてから当てはまる事件は起こっていないとされていた*6。また、テオドール・ブーイ(1806年)は、近くナポレオンが英国を征服するときに挙げる戦果を予言したものだろうとしていた*7

 さらに英語圏でも、チャールズ・ウォード(1891年)は、名誉革命に関連し、ジェームズ2世がアイルランドに逃れ、イングランドと対峙したが敗北した時期に対応させ、チャールズ1世とはしていなかった*8
 20世紀に入っても、ジェイムズ・レイヴァーは、ブーイの解釈を批判する文脈でこの詩を扱っているが、解釈は読者に委ねている*9
 アンドレ・ラモンは、未来にロンドンが脅かされ、ロンドン塔が崩落するような事態になると解釈していた*10。この解釈はフランス語圏のマックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)に影響されたものだろう*11。なお、未来のロンドン攻撃の予言とする解釈は、ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌも展開することになる*12

 ロルフ・ボズウェル(1943年)はチャールズ1世の処刑と解釈した。そこでは国王が下着姿で処刑されたことや、死後、ロンドン橋の近くに彼の血まみれの下着が掲げられたことなどを紹介した*13
 ヘンリー・C・ロバーツエリカ・チータムジョン・ホーグらもチャールズ1世の処刑と解釈し、以降はそれが有力になる。非英語圏でも、セルジュ・ユタンクルト・アルガイヤー竹本忠雄などがこの説を採っている*14(ユタンは1981年に第三次世界大戦の予言かもしれないとする解釈を併記したことがあったが、ボードワン・ボンセルジャンの補訂では削られた*15)。

懐疑的な視点

 エドガー・レオニは、確かにチャールズ1世が下着姿で処刑されたことなどは認めたが、「橋の近く」 に疑問を呈した。処刑場の近くのウェストミンスター橋は1750年まで建設されておらず、次に近い橋となると2マイル (約 3.2 km) 離れたロンドン橋になってしまうからだ。
 レオニは 「ガランシエールが」 ロンドン橋に血まみれの下着が掲げられていたと主張していることを引き合いに出し、それについては史実か疑わしい主張としている*16

 なお、上記のように、ガランシエールはこの詩を何も解釈していない(この詩の解釈欄だけでなく、百詩篇第9巻49番などでの言及がないかも確認し、再版である1685年版も確認したが、ガランシエールは何も言及していない)。おそらく 「ガランシエール」 としていたのは 「ボズウェル」 の誤りではないかと思われるが、ホーグもこれをガランシエールによるとしている。
 当「大事典」が、ガランシエールの著書のどこか別の場所に出ているのを見落としているのか、レオニが誤っていて、ホーグは単にそれを引き写しただけなのかは、断言しかねる。

同時代的な視点

 ピーター・ラメジャラーは、ばら戦争におけるイングランド王ヘンリー6世がモデルと推測した*17。ヘンリー6世は1461年にヨーク家のエドワードに王位を奪われ、1470年に復位したものの再びエドワード (エドワード4世) に盛り返されてロンドン塔に幽閉され、処刑された。
 リチャード・シーバースもこの見解を踏襲した*18


コメントらん
以下のコメント欄はコメントの著作権および削除基準を了解の上でご使用ください。

  • 1時間歩けば、1里(4Km)だから、2マイルくらいは近いとも言える。 -- とある信奉者 (2013-01-14 09:31:13)

名前:
コメント: