ノストラダムスの遺言書・遺言補足書

 ノストラダムスは1566年6月17日に遺言書 (testament) を口述で作成させ、1566年6月30日に遺言補足書 (codicille) を作成させた。この項目ではそれらについて概説する。それぞれの原文・全訳は以下のリンクを参照のこと。


概要

 ノストラダムスは1566年6月17日に、公証人ジョゼフ・ロシュと、証人 (立会人) として8人の知人を呼び、遺言を口述した。その内容をごく簡単に要約すると以下の通りである。
  • 埋葬場所をサロンのフランシスコ会修道院内にする。
  • 葬儀を遺言執行人 (パラメド・マルク、ジャック・シュフラン) の裁量にゆだねる。
  • 13人の貧者 (選定は遺言執行人に委ねられる) に6スーずつ施しをする。
  • サロン市内や近郊の修道院などにも1、2エキュ程度ずつ寄付をする。
  • 近親者マドレーヌ・ブゾディーヌが結婚するときに10エキュを与える (結婚しないときは無効)。
  • アンヌ・ポンサルドには、400エキュの現金、住居の3分の1の使用権、居間の「大箱」と寝台近くの小箱、寝台と付属品・関連調度品、いくらかの食器類や地下室の樽、彼女が欲する衣類や宝飾品などを遺す (再婚時は無効)。あわせてアンヌを子供たちの唯一の後見役とし、後述の基金の利益から食費や被服費を得てよいものとする。ノストラダムスの兄弟は、遺産の扱いにもアンヌの後見にも、一切の干渉をできないこととする。
  • 長女マドレーヌ・ド・ノートルダムに600エキュ、次女アンヌと三女ディアーヌ・ド・ノートルダムに500エキュずつ、それぞれ結婚時に後述する基金から与える (結婚しないときは無効)。
  • 長男セザール・ド・ノートルダムには金箔を二重に貼った銀杯、木製と鉄製の椅子1脚ずつ、三男が25歳になるまでの住居の共同使用権と、その後の独占的使用権 (アンヌ・ポンサルドの使用分を除く) を与える。
  • 次男シャルルと三男アンドレには、アンドレが25歳になるまでの住居の共有権と、25歳になって家を出る際に100エキュずつ与える。
  • すべての蔵書は、息子たちのうちで最も学問に長じることになる者が得ることとするが、それらの蔵書と手紙類は、その者が受け取るに相応しい時期まで封印され、目録なども作成してはならない。
  • 上記3人の男児を相続人と指定し、跡継ぎのないまま死去した者が出たら、残った者たちで権利を引き継ぎ、全員がそうなったら、上記の3姉妹で置き換える。
  • 妻アンヌが男児を懐妊していたら、その子 (双子ならその子たち) も相続人とする。女児を懐妊していたら、その子ないしその子たちにも上記の3姉妹と同じやり方で500エキュの結婚持参金を持たせる。
  • 不動産と家財以外で遺産を構成する総額3444エキュ10スーの現金と1000エキュ (異本では1600エキュ) 分の債権は、数人の商人にあずけて基金を作り、適切な資産運用を行わせる。その現金はノストラダムスが死ぬまで家の金庫3つにおさめられ、その鍵は遺言執行人でもあるマルクとシュフランに加え、市の執政官であるマルタン・ミアンソン (異本ではマルタン・マンソン) の3人に預けられる。

 続いて13日後の6月30日に同じ公証人ロシュと、証人として5人の知人 (うち遺言書の証人と重複するのは1人のみ) を呼び、遺言補足書を作成させた。その内容は、遺言補足書の有効性と手続きに関する記述を除けば、以下の3点に要約できる。
  • 長男セザールには、天体観測儀と、紅玉髄を嵌めこんだ金環を追加で残す。
  • 長女マドレーヌには、ノストラダムスの書斎にある、衣類や宝飾品を入れたクルミ材の木箱2個を追加で残す。この箱は、誰の干渉も受けずに、ノストラダムスの死後すぐにマドレーヌのものとなる。
  • それ以外の事項は、すべて6月17日の遺言書が効力を持つ。
 つまり、実質的には、長男と長女への遺贈の追加を定めただけである。ピーター・ラメジャラーは、遺言書の時点では (長男と長女は他の兄弟姉妹よりも優遇されていたものの) ノストラダムス自身の形見といえるものを貰えなかったので、それに不満が出たのではないかと推測していた*1

コメント

 それらの内容には、書かれていることと書かれていないことのそれぞれに興味深い点がある。

 まず、遺言書に書かれている点で興味深いのは、蔵書と手紙の扱いである。イアン・ウィルソンも指摘するように、ノストラダムスが予言能力を持っていたのなら、なぜここで具体的に誰に残すと明言できなかったのかが疑問である*2。もちろん信奉者側からすれば、あらかじめ明示せずに切磋琢磨させるため、ということになるのだろうが、蔵書や手紙というのは息子たちから見て、先を争って相続したいと思うほどに魅力的な遺贈品だったのだろうか。なお、ノストラダムスの署名入りの蔵書にセザールの署名が添えられている事例が確認されていることや、手紙を保管することになったのがセザールだったことから言って、実際に相続したのはセザールだったようである。
 また、ここで言われている手紙がBN ms. Lat. 8592の原本だったことはほぼ間違いないだろうから、ノストラダムスがその封印を希望したというのは、異端視されることと、それによって子供たちに被害が及ぶことを恐れたためだろう。蔵書もろとも封印しておくことを希望したということは、蔵書にも何か異端を疑われる文献が含まれていたのかもしれない。この点は、セザールへの手紙において、一部の文献を燃やしてしまったと主張していたこととの関連からも興味深い。

 次に興味深いのはノストラダムスの弟たちの位置付けである。1566年の時点で少なくとも商人ベルトラン、法曹家ジャン、法曹家アントワーヌ、おそらく商人のエクトールらが存命だったというのに、彼らを遺産から遠ざけ、アンヌ・ポンサルドの後見人としての行為にさえ干渉させないというのは、少々不自然に思える。特にジャンは、ノストラダムスが1555年の『化粧品とジャム論』で献辞をあてていたくらいなので、兄弟仲が悪かったとは思えない。
 そして、アンヌ・ポンサルドへの遺言では、くどいくらいに再婚した場合や死去した場合の規定を盛り込んでいるにもかかわらず、後見人についての規定では、すべての子供たちが被後見子でなくなる前にアンヌが死去した場合に誰が後見役となるのかについて、ひとことも触れていない。結果的にアンヌの逝去は1582年のことで、末っ子だったディアーヌも20歳を過ぎていたので、その規定がなくても大きな障害にはならなかったが、弟たちに協力を仰ごうとしなかったのは、なんとも不可解な話である。

 弟たちについては、「書かれなかったこと」の点でも興味深い。ノストラダムスはマドレーヌ・ブゾディーヌという詳細不明の近親者 (姪?) への遺贈を行っているのに、弟たちやその妻子には何も遺していないのである。これもまた、不可解というほかはない。
 それ以上に不可解なのは、(元)秘書ジャン=エメ・ド・シャヴィニーの位置付けである。シャヴィニー自身は、のちにノストラダムスから死の前夜、最後に言葉をかけられたのは自分だと主張するようになる。それが事実なら、当然遺言書が作成された時点でも居合わせたはずだが、遺言の代筆人としても、立会人のひとりとしても、ましてや何かを遺贈される者としても、一切言及されていないのである。イアン・ウィルソンは、シャヴィニーがノストラダムスとの親密さを誇張して語ったか、ノストラダムスが、報酬を払って雇い入れていた存在だったシャヴィニーには、遺贈の必要を感じなかったかではないかとしている*3

 遺言補足書がセザールへの天体観測儀 (アストロラーベ) の遺贈を主眼とするものであったことは、ほぼ疑いのないところであろうと思われ、この点からすれば、ラメジャラーの指摘が正しいのかもしれない。
 さて、この天体観測儀は1561年9月9日付の手紙 (BN ms. Lat. 8592の30番) で、「母方の曽祖父ジャン・ド・サン=レミから私へと受け継がれた天体平面図 (planisphere) および他の道具を使い」*4という形で言及されている占星術道具に含まれていたのかもしれない。もっとも、そこにおいて、曽祖父譲りの占星術道具の中で唯一明言されていた天体平面図がどうなってしまったのかは、遺言書や遺言補足書からは読み取れない。
 なお、加治木義博は、天体観測儀だけでは占星術上の見立てが行えないことから、ノストラダムスが占星術を嫌っていた証拠だと決め付けていたが*5、上記のように複数の道具を使っていることを示す手紙が残っているほか、他の占星術師の星位計算を参照していたことが明らかになっているので、的外れな評価であるように思われる。

 また、遺言補足書で目を引くのは、立会人に医師、外科医、薬剤師が1人ずつ含まれていることである (後出の日本語文献ではジローという人物も医学博士にされているが、dict の解釈を間違えたのだろう。ジローは文盲とされているので、博士号を持っていたはずがない)。ラメジャラーは、この3人はノストラダムスに付き添っていた医師たちではないかと推測していた*6
 その推測が事実だとすると、町の名士を集める余裕もないほどに、遺言補足書は急いで作成が決定されたということでもあるのかもしれない。

原本と謄本・抄本

 遺言書と遺言補足書の原本とされるものは、現在マルセイユのブーシュ=デュ=ローヌ県立古文書館に現存している。Fonds 375E no2 (Giraud) des notaires de Salon, registres 675 et 676 がそれで、676番の507葉から512葉が遺言書と遺言補足書の原本ないし謄本、ノンブルのついていない675番がそれらの抄本を含んでいる(以下、便宜的に当「大事典」では前者をマルセイユ原本、後者をマルセイユ抄本と呼ぶ)。

 複写も複数作られた。フランス国立図書館には17世紀の系図学者ピエール・ドジエ (Pierre d’Hozier) が作成した写本が残っている。そこには「ベラール氏によって伝えられた。1659年」 とあるが、実際にはベラールではなく、サロンの公証人ピゾン・ベルナール (Pison Bernard) のことであろうと考えられている。ドジエの写本は、そのベルナール、別の公証人、サロン市の判事ジャン・ド・バロ (Jean de Barros) らによって複写されてきた写本 (現存せず) に基づいているようである。
 フランス国立図書館には、ピゾン・ベルナールによる写本を複写した別の写本も現存している。

 18世紀後半にはアルル大司教デュロー (Dulau) のもとで司書をつとめていたローラン・ボヌマン師 (l’abbé Laurent Bonnement) によって、別の写本が作成された。これがアルル市立図書館に現存する写本 (以下、便宜的に当「大事典」ではアルル写本と呼ぶ) で、1920年にユージン・パーカーの求めに応じて、同図書館の古文書係であったアンリ・デール (Henri Daire) がタイプライターで複写した。パーカーはハーヴァード大学に提出した博士論文にそれを収録した*7

 マルセイユ原本・抄本の紹介は、1962年にダニエル・ルソが雑誌記事で初めて行い、のちの著書にも収録された。彼はマルセイユ原本を底本としつつ、マルセイユ抄本との対照も行い、抄本では公正証書としての冗長な表現がかなり削られていることなどを示した。

 なお、当「大事典」でマルセイユ原本・抄本とアルル写本を比較したところ、アルル写本の遺言書はマルセイユ抄本と非常によく似ているのに対し、遺言補足書はマルセイユ原本とほぼ同じであった。現在のマルセイユ原本・抄本はそれぞれ遺言書と遺言補足書がセットになっているので、そのような結果は少々不自然なものに思われる。

埋葬場所の指定に関する予言

 遺言書では、ノストラダムスが当初サン=ローラン教会を指定したのを打ち消して、フランシスコ会修道院付属聖堂に変更したという話が知られており、墓暴きの結果、実際にサン=ローラン教会に移されたため、予言の的中例として指摘されることがある。
 たしかに、遺言書にはその打ち消された文言があるが、それはマルセイユ原本ではなく、マルセイユ抄本のみに存在している*8

 大幅に省略された抄本であるマルセイユ抄本に、なぜ原本に存在しない文言が挿入され、打ち消されているのかという点は、実に不可解なことである。現在の原本が署名などまで忠実に複写された謄本なら、失われた原本にその文言があったと理解することもできようが、そうでないのなら、その打ち消された文言はノストラダムス本人に由来するものなのかどうか、慎重に検討されるべきだろう。
 なお、その打ち消された文言が本当にノストラダムスの発言だったとしても、予言の的中例とみなせるのかには疑問も残る。その点は当「大事典」管理者が共著 『検証 予言はどこまで当たるのか』 でも論じたとおりである。

研究史

 前記のユージン・パーカーをはじめ、伝記的検討の一環で取り上げられることはあった。エドガー・レオニもアルル写本を孫引きし、対訳も掲載していた。
 エドガール・ルロワもノストラダムスの伝記研究の一環で取り上げ、適宜引用をまじえつつ、要約的に紹介した。明記されていないが、内容を見比べる範囲では、アルル写本をもとにしたように思われる。
 ルロワの要約はピーター・ラメジャラー竹下節子の著書でも利用された (ラメジャラーらははっきりそう明言していないが、いくつかのルロワの誤りがそのまま踏襲されているので、そう判断できる。一例を挙げると、彼らは共通して遺言補足書が遺言書の3日後に作成されたとしているが*9、13日後の誤りだろう)。
 伝記的視点での位置づけは、竹下による 「いたれりつくせりのこの遺言状にはノストラダムスの他の著作のようなペダントリーもレトリックも曖昧さもない。明快で実用的で、しかも年をとってからできた家族を愛し守ろうという気持ちが良く伝わってくる」*10という評価につきるだろう。

信奉者側の見解

 ダニエル・ルソは伝記的な受容に異議を唱え、遺言書と遺言補足書にこそ 『予言集』 の謎を解く鍵があると主張した。ルソは遺言書などに含まれる (あるいはそれらから算定できる) 数字に着目し、様々な 「暗号」 を読み解いていった。
 そうした読み方は、もちろん実証的には全く支持できないのだが、日本語文献で遺言書の訳が載っている唯一の著書が彼 (日本語文献では 「ダニエル・ルゾー」 と表記) の著書の抄訳である『ノストラダムスの遺言書』 (二見書房) だったため、あれこれと勝手な暗号解釈をほどこす論者は日本でも見られた。

 たとえば、浅利幸彦は遺言補足書の日付1566年6月30日は6を9にひっくり返して並べ替えると、自分の誕生日である1956年9月30日を導けるとした上で、遺言書と遺言補足書の間隔である13日などは、自分の名前をアルファベットで表記したときに13文字になることと対応するとして、それらを自分が最終解読者であることの証拠とした*11
 彼の論法では他の日付も多く出てきてしまうし、そもそもなぜ遺言書本体ではなく、遺言補足書の日付なのかも説明されていない。また、特に母音が多い日本人名の場合、アルファベットで13文字になる人物など珍しくもないので、証拠というにはあまりにも薄弱であるように思われる。

 また、加治木義博は、遺言書でセザールに「銀メッキの皿」が遺贈されていることに注目し、そんな安物をわざわざ特筆したのは、そこに未来予知の鍵があるからだと主張した。加治木はノストラダムスがいわゆる「コックリさん」に似た手法で予言をしたと主張しており、「銀メッキの皿」 はその際に油性の絵の具で文字を書いて、振り子に示させるための文字盤代わりにしたのだという*12
 しかし、遺品に 「銀メッキの皿」 など存在しない。実際に原文にあるのは 「金箔を二重に貼った銀杯」(coppo d’argent surdorée) で、それは前掲の関連書にあった問題の多い日本語訳にさえ 「銀メッキの盃」 と書かれていた。加治木はそれを見間違えたか、自身の解釈に合わせて勝手に読み替えたのではないだろうか。
 杯 (coppo / coupe) にはボウルのような器の意味もあるが、文字盤の代わりになる平皿ではない。アンヌ・ポンサルドへの遺贈品には「大皿」(plat) があるので、安物の(?)皿をセザールに贈りたかったのなら、そちらを挙げたはずである。
 そして、実際に贈られた 「金箔を二重に貼った銀杯」 は字面からすれば、どうみても安物には思えない。おそらくそれは顧客であった大実業家ハンス・ローゼンベルガーから贈られた銀杯と同じものだろう。1561年7月15日付の手紙でノストラダムスはその銀杯を受け取った礼を述べているが、その銀杯はより詳しくは「純金で被われた銀のカップ」*13だったからである。
 ローゼンベルガーはノストラダムスを深く信奉していた大実業家であり、その人物が占いの謝礼として支払った銀杯が安物だったはずはないだろう。実際、仲介役だったロレンツ・トゥッベは銀杯についてドイツの貴族が持つような代物と評していたし*14、ノストラダムス自身、それを手がけた職人の腕前の見事さと、そのような逸品を贈ってくれたローゼンベルガーの厚意を絶賛していた*15。大事にしていた長男セザールへの遺贈品の中で、そのような高価な品を真っ先に挙げるのは、父親の心遣いとして実に自然なことのように思われる。


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最終更新:2013年02月27日 22:32

*1 ラメジャラー [1998a] p.78

*2 Wilson (2002)[2003] pp.305-306

*3 Wilson (2002)[2003] p.308

*4 Wilson (2002)[2003] p.9 の英訳から転訳。

*5 加治木『真説ノストラダムスの大予言2』p.46

*6 ラメジャラー [1998a] p.79

*7 以上の経緯のほとんどは Ruzo [1982] pp.17-18 に依拠している。その説明は Benazra [1990] でもほとんどそのまま利用されている。

*8 Ruzo [1982] p.28, n.8

*9 竹下 [1998] p.134、ラメジャラー [1998a] p.78、Lemesurier [2003a] p.137

*10 竹下 [1998] p.136

*11 浅利『ノストラダムスは知っていた』pp.276-280 etc.

*12 加治木 『真説ノストラダムスの大予言2』p.82、同『真説ノストラダムスの大予言 あなたの未来予知篇』pp.94-95

*13 竹下 [1998] p.259

*14 cf. ランディ [1999] p.142

*15 cf. 竹下 [1998] p.259