詩百篇第9巻99番


原文

Vent Aquilon1 fera2 partir le siege3,
Par murs4 geter5 cendres, chauls6, & pousiere7,
Par pluye8 apres9 qui10 leur fera bien piege11,
Dernier secours12 encontre13 leur frontiere14.

異文

(1) Aquilon : aquilon 1712Guy
(2) fera : sera 1672Ga
(3) siege : Siege 1672Ga
(4) murs : meurs 1606PR 1607PR 1610Po 1716PR, mur 1644Hu 1650Ri 1653AB 1665Ba 1720To 1840
(5) geter 1568 : ietter T.A.Eds. (sauf : getter 1590Ro 1591BR 1611A, iettez 1644Hu 1650Ri 1653AB 1665Ba 1720To)
(6) chauls : chaul 1627Di, chaulx 1568B 1590Ro 1605sn 1628dR 1649Xa 1649Ca 1650Le 1667Wi 1668 1672Ga 1712Guy 1720To 1772Ri
(7) pousiere 1568 1590Ro : poussiere 1591BR & T.A.Eds.(sauf : poussie 1650Mo)
(8) pluye : pluyes 1611B 1716PRb 1981EB, pluïe 1712Guy
(9) apres : aprês 1667Wi
(10) qui : qu’il 1611 1712Guy 1981EB
(11) piege : pege 1607PR 1610Po 1627Ma 1627Di 1644Hu 1650Ri 1653AB
(12) secours : seours 1716PRa
(13) encontre : encore 1644Hu 1650Ri 1653AB, entre 1665Ba 1720To
(14) frontiere : Frontiere 1672Ga, fronterie 1716PR

日本語訳

アクィロの風が攻囲を始めさせるだろう。
壁から灰、石灰、粉塵を投げる。
その後、彼らをうまく足止めする雨により、
最後の援軍が彼らの最前線に対峙する。

訳について

 アクィロは北西、北北東などの可能性もあるが(リンク先参照)、この場合の 「アクィロの風」 はおそらく普通の 「北風」 の詩語と理解して問題ないものと思われる。

 3行目の直訳は 「その後、彼らをうまく罠にかける雨により」 だが、日本語として自然なように意訳した。

 既存の訳についてコメントしておく。
 大乗訳について。
 2行目「かれらは 灰 石灰 ちりをなげ」*1は、par murs (壁を通じて、壁から) が訳に反映されていない。
 3行目「雨でみずからおとしあなにはいるとき」も意味不明で、関係詞 qui が完全に無視されている。
 4行目「まわりに対抗する最後の助けとなる」も、frontiere (前線) が「まわり」になる根拠が不明。

 山根訳について。
 1行目「北国が包囲をとかせ」*2は意味が逆である。
 3行目「のちに雨が降り 事態をさらに悪化させ」は、piege をプロヴァンス語の piegiと理解し、「より悪い」と読んだエドガー・レオニの訳を踏襲したものである (この種の読みの一番古い例はおそらくバルタザール・ギノー)。ただし、現代ではあまりこういう読み方は見られないようであり、プロヴァンス語を積極的に取り入れているジャン=ポール・クレベールも普通にフランス語の piège として理解している。
 4行目「最後の頼みの綱には辺境にてめぐり逢う」は、いくつか言葉を補った上でなら成立するが、実証的な論者の読みからは少し離れている。

信奉者側の見解

 テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は都市の攻囲戦の有名な戦術の描写として、具体的な事件とは結び付けなかった*3
 バルタザール・ギノー(1712年)も未来のフランス軍がある都市に対して行う攻囲戦の描写と解釈したが、具体的な時期や地名は挙げなかった*4
 のちのヘンリー・C・ロバーツ(1947年)の解釈も同系統である。

 その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、ジャック・ド・ジャンD.D.テオドール・ブーイフランシス・ジローウジェーヌ・バレストアナトール・ル・ペルチエチャールズ・ウォードアンドレ・ラモンジェイムズ・レイヴァーの著書には載っていない。

 マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)(1938年)やロルフ・ボズウェル(1942年)は教皇庁にかかわる近未来の詩篇として紹介していたが、かなり漠然とした解釈だった*5
 ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ(1980年)はこの解釈を基本線で引き継ぎ、1980年代前半に起こる(はずだった)大戦の序盤で、ソ連の侵攻でローマ教皇が逃げることになる予言としていた*6
 なお、彼らがこの詩と教皇を結び付けているのは、1行目の siege を 「攻囲」 ではなく、「(教皇の)座」 と理解していることによる。

 エリカ・チータム(1973年)は、「大半の解釈者」がこれをナポレオンのモスクワ退却に結び付けていると紹介した*7

 セルジュ・ユタン(1978年)は普仏戦争中のプロイセンによるパリ攻囲ではないかと解釈した*8
 この解釈は、ボードワン・ボンセルジャンの補注では、ソ連のアフガニスタン侵攻のことではないかとする解釈に差し替えられた*9

懐疑的な視点

 チータムの紹介は不可解である。
 上で見たように、19世紀の主だった解釈者たちも特に注目しておらず、20世紀のチータムに先行する論者にも、そういう解釈は見られない。
 当「大事典」があまり積極的に活用していない、英語圏の論者にはそういう解釈もあったのかもしれないが、ボズウェル、レイヴァー、ロッブ、ロバーツといった比較的知名度が高かったであろう面々の中で誰もそういう解釈をしていない状況で、「大半の解釈者」(most commentators) とまとめるのは事実に反しているだろう。

 なお、チータムはエドガー・レオニらのコメントを一知半解に引き写すことがあるが、レオニの著書では、特にナポレオンと結びつけた解釈例は紹介されていない。

同時代的な視点

 ルイ・シュロッセ(未作成)は、1553年のメス攻囲戦がモデルだろうと判断した*10

 ピーター・ラメジャラーは出典未特定としている*11

 シュロッセが指摘するようにメス攻囲戦がモデルと見なすのもひとつの可能性だが、実際のところ、詩の情景はかなり漠然としており、正確な特定は難しいように思われる。


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  • 日露戦争の一場面(奉天会戦)を予言か?? 勿論、まったく違う予言かもしれない。 -- とある信奉者 (2013-08-09 20:11:36)
最終更新:2020年03月30日 00:25

*1 大乗 [1975] p.283。以下、この詩の引用は同じページから。

*2 山根 [1988] p.314。以下、この詩の引用は同じページから。

*3 Garencieres [1672]

*4 Guynaud [1712] pp.289-291

*5 Fontbrune (1938)[1939] p.241, Boswell (1942)[1943] p.286

*6 Fontbrune [1980]

*7 Cheetham [1973], Cheetham [1990]

*8 Hutin [1978]

*9 Hutin (2002)[2003]

*10 Schlosser [1986] p.192

*11 Lemesurier [2010]