百詩篇第3巻17番


原文

Mont Auentine1 brusler nuit sera veu :
Le ciel2 obscur3 tout à vn coup en Flandres4,
Quand le monarque5 chassera son nepueu6 :
Leurs7 gens d’Eglise8 commetront les esclandres.

異文

(1) Auentine : Auentiue 1588Rf 1589Rg, Auentin 1627 1644 1650Ri 1650Le 1668, Auantin 1653 1665
(2) ciel : Ciel 1653 1672
(3) obscur : obcur 1981EB
(4) Flandres : Flendres 1590Ro, Frandres 1597
(5) le monarque : le Monarque 1557B 1588-89 1605 1611 1628 1644 1649Ca 1649Xa 1650Le 1653 1665 1672 1716 1772Ri, le monarche 1568I, de Monarque 1668
(6) nepueu : Neveu 1649Xa 1672 1716 1772Ri
(7) Leurs : Leur 1611B 1981EB, Les 1649Ca 1650Le 1668, Lors 1672
(8) d’Eglise : d’eglise 1557B 1589PV, dEglise 1650Le

校訂

 1行目 Mont Aventine はアウェンティヌスの丘 (Mons Aventinus) のフランス語化。ただし、普通は Mont Aventin と綴る。ノストラダムスは百詩篇第5巻57番百詩篇第9巻2番(未作成)では Aventin と綴っており、なぜ初版収録分のこの詩でだけそうなっているのかはよく分からない。
 そういうわけで、17世紀以降の一部の版に Aventin という異文があるのは、フランス語としては誤りではないが、ピエール・ブランダムールピーター・ラメジャラーらは初版どおり Aventine を採用し、Aventin とは直していない。

日本語訳

アウェンティヌスの丘が夜に燃えるのが目撃されるだろう。
フランドルでは突然に空が暗くなる。
君主が自らの甥を追い出すであろう時に、
教会の連中が醜聞を起こすだろう。

訳について

 1行目の 「アウェンティヌス」 は現在のイタリア地名ではアヴェンティーノなので、「アヴェンティーノの山 (丘)」 と訳しても問題はないだろう。ちなみに、高田勇伊藤進訳では 「アヴェンティーノ山」 となっており、ピエール・ブランダムールの釈義の訳出のほうで 「アヴェンティーノの丘」 とされている*1

 既存の訳についてコメントしておく。
 大乗訳について。
 1行目 「アベンチーン山は夜 焼かれ」*2は、sera veu (目撃されるだろう) が訳にまったく反映されていない。「アベンチーン」 は後述するように英語読みに引きずられたのかもしれないが、不適切な表記だろう。残りの行は特に問題はない。

 山根訳について。
 1行目 「アヴェンティーネ山が夜燃えるのが見えるだろう」*3 は、構文理解は正しいが、「アヴェンティーネ」がどの言語の読みかよく分からない。ラテン語ならアウェンティヌス、イタリア語ならアヴェンティーノ、フランス語ならアヴァンタン、英語ならアヴェンタインないしアヴェンティンである。
 4行目「教会の連中が騒ぎたてるだろう」は特に問題ない。現代語の esclandre には 「(醜聞に結びつくような) 騒ぎ」 という意味があり、「騒ぎ」を意味する語義は中期フランス語にも存在した。

信奉者側の見解

 テオフィル・ド・ガランシエールは、「アウェンティヌスの丘はローマ七丘のひとつ。残りは平易である」 とだけ述べていた*4
 1691年ルーアン版『予言集』に掲載された「当代の一知識人」の解釈では、当時のフランス王ルイ14世とオランダ情勢に関する詩とされていた。

 その後、20世紀に入るまで、この詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、ジャック・ド・ジャンバルタザール・ギノーD.D.テオドール・ブーイフランシス・ジローウジェーヌ・バレストアナトール・ル・ペルチエチャールズ・ウォードの著書には載っていない。

 マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)は、2行目を1999年8月11日の日食と結びつけ、そのころに起こる事件の予言と解釈した*5
 息子のジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌは、そこまで時期を限定しなかったが、近未来に起こると想定していた戦争において、ローマが炎上することや、ローマ教皇が枢機卿を追放する事件が起こることの予言だと主張していた*6

 エリカ・チータムは、1行目はナポレオンのローマ攻略と結び付けられるかもしれないとし、3行目はナポレオン3世が父ルイ・ボナパルトのオランダ王退位後に各地を転々としたことと結び付けられる可能性を示した*7

 セルジュ・ユタンはローマの火災やカトリック教会内の不和などを予言している可能性を、疑問符つきで表明するにとどまった*8

同時代的な視点

 ピエール・ブランダムールは前半2行の出来事が後半2行に対応すると解釈していて、フランドルの空が暗くなるというのは1544年1月24日の日食を踏まえているのではないかとした。その日食はフランス、フランドル、ドイツ北部、ポーランドなどで観測されたものだったという*9。この読み方は高田勇伊藤進が支持した*10

 ピーター・ラメジャラーはフランドルの日食のモデルが1544年1月のものとする見解を踏襲しつつ、1行目のアウェンティヌスの丘の火災は西暦64年のローマの大火が投影されているのではないかとした*11。この見解は、リチャード・シーバースも疑問符つきで紹介している*12


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最終更新:2013年08月30日 21:44

*1 高田・伊藤 [1999] p.229

*2 大乗 [1975] p.101。以下、この詩の引用は同じページから。

*3 山根 [1988] p.122 。以下、この詩の引用は同じページから。

*4 Garencieres [1672]

*5 Fontbrune [1939] pp.276-277

*6 Fontbrune (1980)[1982]

*7 Cheetham [1973], Cheetham [1990]

*8 Hutin [1978], Hutin (2002)[2003]

*9 Brind'Amour [1993] pp.272-273, Brind'Amour [1996]

*10 高田・伊藤 [1999]。なお、この文献で日食が「1554年1月24日」とされているのは、単純な誤記だろう。

*11 Lemesurier [2003b], Lemesurier [2010]

*12 Sieburth [2012]