日本のノストラダムス現象>1970年代まで
『ノストラダムスの大予言』まで
ノストラダムス本人については、戦後になって紹介が行われた。仏文学者の
渡辺一夫が『人間』1947年11月号に寄稿した論考「
ある占星師の話 - ミシエル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)の場合」において、時代背景を適切に踏まえる形で紹介したのが最初のようである。
その一方、晩年の
黒沼健は、「私にとってノストラダムスに執着があるのは、戦後最初に書いた原稿ということにもある」とコメントしている。黒沼のノストラダムス紹介の中には、1947年の日ソ戦争の見通しについて述べたものもあるので、黒沼は1947年までに紹介していた可能性があるが、確認が取れない。
少なくとも、実証的な評伝は渡辺、通俗的な予言解釈の紹介は黒沼が、それぞれ最初のケースだったということはできるだろう。渡辺の紹介はルネサンス期の人文主義者としてのノストラダムスを描くものであったのに対し、「予言者」ノストラダムスの予言解釈の紹介を最初に行ったのが、作家の
黒沼健である。彼は 「
七十世紀の大予言」(初出は1952年の『探偵実話』か。少なくとも単行本への収録は1957年) を手始めに、1970年ごろまでに刊行した著書において、欧米の信奉者の著書に依拠する形で予言解釈の紹介を行なった。
このほか仏文学者の
澁澤龍彦(未作成)も 『黒魔術の手帖』 所収の 「星位と予言」、『妖人奇人館』 所収の 「ノストラダムスの予言」 など、1960年代から70年代初頭にかけてノストラダムスに関するエッセイなどを発表していた。
ほかに、カート・セリグマン『魔法 - その歴史と正体』(平凡社、1961年)、ジェス・スターン『予言』(弘文堂、1965年)など、予言を扱った著書で言及されることもあったが、この段階では、ノストラダムスの知名度も限定的なものであった。
【画像】 セリグマン 『魔法』(人文書院版)
『ノストラダムスの大予言』
五島勉の著書『
ノストラダムスの大予言』(祥伝社、1973年11月) の出現は、日本のノストラダムス現象の実質的な幕開けとなった。当時は小松左京の『日本沈没』のヒットなどに代表される終末ブームで、その時流に乗って、この本は発売から3か月程度で100万部を突破する売れ行きを示した。
【画像】 五島勉 『ノストラダムスの大予言』
当時の新聞・雑誌記事には、ブームを報じた(あるいは便乗した)ものがいくつもあった。たとえば、
- 「えっあと26年でオシマイだって?ノストラダムス『1999年7月人類滅亡』予言の的中率」 (『サンデー毎日』1973年12月9日号)
- 「この戦慄のベスト・セラー『大予言』に何を読むべきか!?」 (『週刊プレイボーイ』1973年12月18日号)
- 「ノストラダムスの大予言は本当か あと26年後『1999年7の月に人類絶滅』をコンピュータで分析する」 (『週刊ポスト』1973年12月21日号)
- 「『ノストラダムスの大予言』=『1999年7の月に人類絶滅』ブーム子供を生まない宣言が女子中高生に大蔓延!」 (『週刊ポスト』1973年12月28日号)
- 「何を語る? 超能力ブーム」(『朝日新聞』1974年1月14日夕刊)
- 「特集『ノストラダムスの大予言』恐怖の未発表部分!『滅亡の詩』には何が書かれてあったか!?」 (『微笑』1974年1月26日)
などがその例である。なお、出版社のグループのうち、祥伝社が属するのは小学館や集英社と同じ一ツ橋グループであった。『週刊プレイボーイ』は集英社、『週刊ポスト』は小学館、『微笑』は祥伝社が出版する (していた) 雑誌である。
ほかにも、比較的好意的な書評として、
- 「悪魔の予言か 神の警告か」(『財界』1974年3月15日号。評者は当時の積水化成社長)
- 「ノストラダムスの大予言」(『地方行政』1974年4月22日号。評者は当時の鹿児島県知事)
などがあった。
その一方で、比較的早い段階から、著書の問題点を指摘したり、終末予言ブームを批判する記事もあり、
- 「トップ屋五島勉氏に"滅亡教始祖"にされた16世紀の奇人ノストラダムスの有難迷惑」 (『週刊文春』1974年1月21日号)
- 「街のベストセラー 予言ものがなぜ売れるか」 (『週刊朝日』1974年1月25日号)
- 「あと25年後の7月に世界の人類は滅亡するという大予言は実現するのか」 (『週刊現代』1974年2月7日)
- 「終末ゲーム論」(福島正実、『マネジメント』1974年3月号)
- 「『大予言』 を斬る!1999年の7月人類は滅亡しない」 (高木彬光、『宝石』1974年4月号)
- 「"終末"予言商売大繁盛」 (佐木隆三、『問題小説』1974年5月号)
- 「『終末』予言と『超能力』ショー」 (佐木秋夫、『文化評論(日本共産党中央委員会文化誌)』1974年8月号)
などはその例といえる。
変り種としては、若者向けの映画雑誌に掲載された
- 「私たちの一九九九年? スターが占う大予言」 (『近代映画』1974年4月号)
などという記事もあった。これは、森田健作、和田アキ子、南沙織、森昌子、にしきのあきらなど、当時人気のスターたちに1999年人類滅亡予言についてインタビューしたものである。なお、『ノストラダムスの大予言』について、怖くなって(あるいは気持ち悪くなって)最後まで読めなかったと答えていたのが和田アキ子やにしきのあきらで、存在自体知らずにインタビュアーに逆質問したのが森田健作であった。
このブームに乗って作成されたのが
映画版の『ノストラダムスの大予言』(1974年)で、『日本沈没』に次いでその年の邦画2位になった。
この映画については、学習雑誌である 『小学五年生』1974年9月号のカラーグラビアで 紹介され、「1999年7の月 地球はほろぶ?」などという見出しが躍っている。
なお、『小学六年生』1974年4月号では、ノストラダムスの予言そのものについて、ジーン・ディクソンやペーター・フルコスとともに紹介する記事が掲載されている (構成は南山宏)。
こうして広められた 「1999年七の月」 に 「
恐怖の大王」 によって人類が滅亡するという言説は、特に若い世代に大きな影響を及ぼした。小学生時代にこのブームに直面した人々の中には、当時話題になっていた他のオカルト現象と同じように、あくまでも軽い気持ちで受け止めていたとする初見健一のような者もいるし、
さくらももこのように、一時的には真剣に恐れていたと述懐している者もいる。
こうした見方はどちらが正しいということではなく、どちらの受け止め方もありえたということだろう。『ノストラダムスの大予言』はそれ自体が200万部以上を売り上げたベストセラーだが、前述のように、学習雑誌や芸能雑誌の特集、さらにはテレビの特番などを通じ、直接的に本を見ていない人々にも広まっていた (とくに小学生の場合、そういう間接的な伝播や友人間の口コミのほうが大きかったのではないかと思われる)。
それだけ広まったブームの受け止め方を均質的・画一的に語れないのはむしろ当然であろうし、初見健一のように当時の子供の 「誰もが」 器用に恐怖を楽しむリテラシーを身に着けていたと位置づけるのは、自身の体験を後知恵も混じえて不適切に一般化 (ないし美化) しているのではないかと思われる。
【画像】 さくらももこ 『まる子だった』
なお、真剣に受け止めていた者の中でも、時間が過ぎるに従い適度に折り合いをつけた者と、そうでなしに宗教・オカルトの方面に真剣にのめり込んで行った者とに分かれるように思われる。後者の代表例は、いうまでもなくオウム真理教だろう。もっとも、オウムについては
川尻徹の影響も指摘されるし、時期も異なるので、別の記事で扱う。
『ノストラダムスの大予言』以後
1970年代のノストラダムスブームの特色は、五島勉の『ノストラダムスの大予言』が突出し、前述のように雑誌の特集記事でも賛否両論、大きな議論を巻き起こしていたにもかかわらず、関連書籍の出版がほとんど見られなかったことである。
むろん、まったく見られなかったわけではない。1974年には五島に対する批判書として
高木彬光の『
ノストラダムス大予言の秘密』や山本杉広『終末のスターをつく』が刊行されているし、
フェニックス・ノアが占星術的スタンスからの解釈書『神の計画』を刊行したのも同じ年である。
また、『
ノストラダムス大予言原典・諸世紀』の刊行は1975年のことだが、この『原典』が、(その原文校訂の拙さ、訳文の問題点などにもかかわらず) のちの日本人解釈者たちに重宝がられたのを除けば、この時期の関連書で、のちの論者に影響を及ぼしたと思われる文献は見られない。
田窪勇人は、1973年から1978年までの関連書籍が少なかった理由として、「日本ではノストラダムスの実体がまだよく理解されていなかったこと、彼に関する資料が不明だったことを意味している」と指摘している。
1979年末には、
五島勉の『
ノストラダムスの大予言II』が刊行された。奥付は1979年12月5日となっており、実質的に1980年代のノストラダムス現象の幕開けとなった文献といえる。実際、田窪の論文では、1979年からが「第二期」と位置づけられている。
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最終更新:2013年11月28日 18:36