ラ・クロワ・デュ・メーヌによる書誌情報

 ラ・クロワ・デュ・メーヌの書誌 『ラ・クロワ・デュ・メーヌ殿の蔵書第1巻』(パリ、1584年) は、16世紀の著述家たちについて、貴重な情報を多くもたらしてくれる。ノストラダムスや偽ノストラダムスの一人ノストラダムス2世についての項目もあり、以下のように紹介されている *1

「ミシェル・ド・ノートルダム、通称ノストラダムス」の全訳

ミシェル・ド・ノートルダム、通称ノストラダムス (MICHEL DE NOSTRE-DAME, dit NOSTRADAMUS) は、プロヴァンス州サロン・ド・クロー出身 1 の医学博士、(前述の)ジャン・ド・ノートルダムの兄弟、同じく前述のセザール・ド・ノートルダムの父。

 このミシェル・ド・ノートルダムは、まさしく当代の最も偉大な占星術師たちの一人と目されていた。彼は数え切れないほどの暦書や占筮を執筆した。それは非常にもてはやされ、大変によく売れたが、その人気と評判にあやかって、彼のものを真似たり、彼の名を借用しただけのものも多かった。(無知な輩によって構成され、その結果でたらめに満ちていた)彼の名を冠した作品が多かったので、彼を批判する論者が多く現れる事態となった。その一人に、ガティネ地方ロリ近郊パヴィヨンの領主アントワーヌ・クイヤールがおり、パリの出版業者シャルル・ランジュリエから1560年に『ノストラダムスへの反駁』を公刊した 2

 ほかには、ラテン語詩とフランス語詩で抜きんでているパリのエチエンヌ・ジョデルが、ノストラダムスに対して次の二行詩を作成した。それは、ノストラダムスの名前を織り込んだもので、一部の人々からは褒め称えられた 3

Nostra damus, cùm verba damus, nam fallere nostrum est :
Et cùm verba damus, nil nisi Nostra damus.
(我らが言葉を与えるとき、我らは自らのものを与えるのだ、欺くのが我らの性質なのだから。
ゆえに我らが言葉を与えるとき、自らにないものは与えられないのだ) 4

 学識ある人々は皆ノストラダムスをほとんど評価しなかったが、その中では、私は当代の誉れであった宮廷詩人ドラ師の名を挙げたい。彼は、ノストラダムスを預言者に次ぐ者として扱い、その精髄であったらしい四行詩集および予言集の類まれなる翻訳者にして忠実な解釈者であった 5 。好きなように解釈されるその予言集を、その 〔聖書の預言に次ぐものと位置づける〕 ような見方で例えたりしない人々がいることは、疑うべくもない。

 ノストラダムスの四行詩集すなわち予言集は、1556年にリヨンシクスト・ドニーズによって印刷され、様々な年次にパリ及び他の 〔複数の〕 場所でも印刷された 6
 『1583年まで歴年続く20年間の予言集』は、彼の予言の多くを刊行したパリのギヨーム・ニヴェールによって1567年に印刷された 7 。加えて、ジャック・ケルヴェールや他の業者たちも彼の暦書や占筮の印刷を手がけた。『人体の健康のための独特の処方』は1556年にポワチエで印刷された。二部構成の『極秘の処方を多く含む白粉を使った真実の完全な美顔および全身の保持』は、1557年にアントウェルペンのクリストフ・プランタン(未作成)によって印刷された。ノストラダムスはその著書を兄弟であるエクス高等法院検事ジャン・ド・ノートルダムに捧げた。彼はまた『学芸および医学等へのメノドトスの勧告に関するガレノスの釈義』をラテン語からフランス語に翻訳し、これはリヨンのアントワーヌ・デュ・ローヌによって1557年に印刷された。それら以外の著書については、私は知らない。

 彼の死に際して作成された墓碑から私が知ったところによると、彼は1566年7月に62歳6か月17日で亡くなった。彼には1562年、59歳のときの肖像画があり、そこには Felix ovium prior oetas と記されている。

注記


  • (2) アントワーヌ・クイヤールのこの著書の正式名は『ノストラダムスや他の占星術師たちのでたらめ予言に対する、ガティネ地方のパヴィヨン・レ・ロリ殿の反駁』(Les Contredicts du Seigneur du Pavillon, lez Lorriz, en Gastinois, aux faulses & abusifues propheties de Nostradamus, & autres astrologues) であって、むしろノストラダムスは有名だったために代表例として言及されているだけで、本文での批判の中心ではないらしい。

  • (3) ラ・クロワ・デュ・メーヌがこの二行詩をジョデルに結び付けている根拠は不明である。現在ではヘント (ゲント、ガン) の詩人シャルル・ユテノーヴの作と見なされている *2

  • (4) 和訳に際しては、ブランダムールのフランス語訳を参照した。ブランダムールによれば、「言葉を与える」云々は人を欺くことをいっているらしい *3 。それを踏まえて、原語の「ノストラダムス」をもじった地口に似せて無理やり戯訳すれば、たとえば以下のようになるだろうか。
    • そなたらだます 言葉に内面、乗せたら だます だますは自然
    • 乗せたらだます 乗せとらん? なら駄目っす

  • (5) ドラはジャン・ドラのこと。彼は1570年にパリで両性具有者 (結合双生児) が誕生した際に、ノストラダムスの詩を引き合いに出したラテン語詩を作成し、公刊した *4


  • (7) ギヨーム・ニヴェールが手がけた関連文献は、ノストラダムス2世の著書しか確認されていない。実際、ここでラ・クロワ・デュ・メーヌが挙げているのは、ノストラダムス2世の著書である。ラ・クロワ・デュ・メーヌは便乗した偽者が多かったと指摘するが、彼自身、明らかにここで二者を混同している。

「ミシェル・ド・ノートルダムあるいはノストラダムス2世」の全訳

 ミシェル・ド・ノートルダムあるいはノストラダムス2世 (MICHEL DE NOSTRE-DAME, OU NOSTRADAMUS le jeune) は前記 〔ノストラダムス〕 の息子で、1568年にパリおよび他の場所で印刷された1冊の暦書もしくは予言書を作成した。

注記

 ノストラダムス2世は「ミシェル・ド・ノストラダムス」と名乗りはしたが、「ノートルダム」を名乗ったことはなかった。

 偽者に過ぎない彼を、ノストラダムスの実子と誤認した証言の例といえる。1656年の解釈書の著者はラ・クロワ・デュ・メーヌの書誌を引用しているので、彼が誤認した原因はこの言及であろうと思われる。

 なお、ノストラダムス2世の著書一覧から明らかなように、彼が 「1568年にパリおよび他の場所で」 刊行したのは、『予言あるいはその年の四季の驚異の展開』 以外にありえないが、果たして本当にこの文献についての言及なのかは断言しかねる。

「セザール・ド・ノートルダム、通称ノストラダムス」の全訳

セザール・ド・ノートルダム、通称ノストラダムス (CÆSAR DE NOSTRE-DAME, dit NOSTRADAMUS) は、プロヴァンス出身で、占星術師等であったミシェル・ノストラダムスの息子。この人物は、その父親が自身の四行詩集すなわち予言集で言及しており、彼 〔=セザール〕 にそれを捧げるとともに、魔術のわざや他の排斥された科学に没頭することを思いとどまらせていた。私は刊行されたこの人物の作品を見たことがない。

注記

 セザールへの手紙の第26節「だから我が息子よ、肉体を干からびさせ、魂を失わせ、弱い感覚をかき乱す夢想や空虚なものに、お前の理解力を使うことは決してしないでほしい。それはかつて聖書や神の規範によって排斥された忌まわしき魔術についても同じことである」 以下の数節分を念頭に置いた叙述であろうと思われる。

 ラ・クロワ・デュ・メーヌがセザールの作品を見たことがないのは道理で、遅咲きの詩人であった彼の作品は、1590年代にならないと公刊されなかった。

「ジャン・ド・ノートルダム、通称ノストラダムス」 の全訳

ジャン・ド・ノートルダム、通称ノストラダムス (JEAN DE NOSTRE-DAME, dit NOSTRADAMUS) は、プロヴァンス州の高等法院検事、占星術師 (Astrologue & Mathématicien) として非常に有名なミシェル・ノストラダムスの兄弟。

 このジャン・ド・ノートルダムは、さまざまな著者の作品を元に、プロヴァンス伯領で活動した最も有名な古プロヴァンス詩人たちの生涯を纏め上げた。それは最初プロヴァンス語で書かれ、次いで彼自身の手で我らの言語であるフランス語に翻訳され、1575年にリヨンの 〔印刷業者〕 バジル・ブーケ (Basile Bouquet) によって、アレクサンドル・マルシリイ (Alexandre Marsilii) 〔書店〕 のために出版された。

 本書では、彼が引用している前述の 〔著名な古プロヴァンスの〕 詩人たちの名前を利用しているが、3人の偉大なフィレンツェ人、ダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョや、彼らが言及しているベンボ枢機卿の作品、あるいは現代の他の作品と同じように、彼 〔ジャン〕 以前にその主題について書いた人々について、我々もまとめたのだということを考える必要がある。
 知識は I Marmi del Doni という題のイタリア語書籍に属し、その書物においてはプロヴァンス詩人アルノー・ダニエルについての多くの言及が見られ、その生涯と、当時プロヴァンス地方で常用されていた言語で書かれた作品について語られている。そして私は、その人物についてを、古プロヴァンス詩人たちの生涯について書かれたその本からとったことを認める。その本は、前記のベンボ枢機卿の蔵書からとられた本が、ヴェネツィアにて、教皇特使ルイ・ベッカテル閣下 (Messire Loys Beccatel) の手に渡った。

 〔さて、〕 ジャン・ド・ノートルダムは以下に示すように、〔他のいくつかの〕 本も書いた。『プロヴァンスの歴史』(Histoire de Provence) は、リヨンや他の場所で刊行された。
 彼は1575年にはエクス・アン・プロヴァンスの町で活動していたが、まだ生きているかどうかは分からない。私は、彼に長く幸福な生涯を与えたまえと、また、彼の故郷やフランスの他の地域で活動した文学上の古代の著名人たちに関する、大いに賞賛されるべき興味深い調査を継続できる恩寵を与えたまえと、神に祈る。

注記

 アルノー・ダニエル前後のくだりは、当「大事典」の管理者に予備知識がないために文意を掴みづらく、翻訳の正確性について自信がない。ただ、一読して明らかなように、その部分はジャンの生涯に直接関わる箇所ではない。

 いわゆる 『古プロヴァンス詩人列伝』 は、確かに1575年にリヨンで刊行された。しかし、『プロヴァンスの歴史』 なる著書は刊行されたことはない。『プロヴァンスの年代記』 と題する手稿ならば、確かに現存しており、のちにセザールの 『プロヴァンスの歴史と年代記』 の主要な参考文献にもなった。

 ジャンは1577年に没していたため、ラ・クロワ・デュ・メーヌが長寿を祈った時点で、すでにこの世にはいなかった。

全体の注記・補足

 上記の全訳のうち、( ) は原文にある注記で、〔 〕 は当「大事典」で補ったものである。

 ラ・クロワ・デュ・メーヌの紹介はごく簡略なものではあるが、実在しないいくつかの作品についての言及が、後の時代の論争を生み出した。 


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