1656年に刊行された匿名の解釈書 『
ミシェル・ノストラダムス師の真の四行詩集の解明』 には、「ミシェル・ノストラダムスのための弁明」(Apologie pour Michel Nostradamus) というくだりがある (pp.1-68)。この一部で伝記や関連するエピソードを扱っているので、ここではそうした箇所、具体的にはその第8章と第9章のみを訳出しておく。なお、原書の各章はいっさい節に区切られていない。ここでは便宜的に節に区切りつつ、見出しをつけた。段落は基本的に原書の分け方を尊重したが、結果として内容的に多少不自然に思われる箇所もある。
第8章 ミシェル・ノストラダムス殿の生涯 (Vie du sieur Michel Nostradamus)
第1節 誕生と家系
〔以前の章で〕 ミシェル・ノストラダムスが本当に聖霊に照らし出される存在であったことの基礎を確認した。次に、最初の5つのパラグラフで言い立てられていた異議に答える前に、我々が知るところの彼の生涯、素行、職業、死について、簡潔に述べておく必要がある。
彼はプロヴァンス地方の
サン=レミという、小さいけれども、とても魅力的な町で生まれた。それは1503年のことで、彼の両親は町で最も尊敬される人々であった。父親の名は
ジャック・ノストラダムス、母親は
ルネ・ド・サン=レミで、父方も母方も、そのサン=レミの町では、敬虔さ、知識、世俗的財産の面でよく知られている先祖を持っていた。
一族の紋章は、黄金で4分割されており、銀の支柱で構成される8本の輻を持つ折れた車輪と黒い鷲の頭が描かれている。
彼には
ジャン・ノストラダムスという兄弟がおり、その人物の精髄は、デュ・メーヌ・ド・ラ・クロワ殿がその『蔵書』 において言及していた彼の著書の中に表現されている。
第1節注記
紋章についての一文は、古語辞典にない単語を含んでいる上に、当時の適切な紋章用語を調査し切れていないため、かなり大雑把な訳になっている。
第2節 モンペリエ大学時代
学業を修める中で、彼の父親は彼を医師にしようと考え、モンペリエ市の教程に送った。彼はそこで、その教授となるにふさわしいだけの成長を遂げた。彼は我々に、その医学の能力の証拠、つまり、いくつもの著作を残してくれていた。以下はその目録である。
彼は諸学問、とりわけ医学に専心するためのメノドトスの勧告に関するガレノスの釈義を、ラテン語からフランス語に翻訳した。その作品は、1557年に
リヨンで
アントワーヌ・デュ・ローヌによって刊行された。
それらの作品群は、医学教育 (sa Lecture de Medecine) の期間、つまり彼が年齢的に最も盛んな時期に作成されたものであり、のちに友人たちの執拗な要求を受けて公刊されたものである。
第2節注記
ノストラダムスがモンペリエで教鞭を執ったという、現代でもよく言われる俗説のルーツは、おそらくこの節に由来するものと思われる。しかし、そのような記録はなく、実証的にはきわめて疑わしい俗説と見なすほかない。
ここで挙げられている書目はほぼ間違いなく
ラ・クロワ・デュ・メーヌによる書誌情報を踏まえたものだろう (1556年ポワチエ版は現存せず、そもそも実在したかどうかの確証がない。1656年の匿名の著者がたまたま実物を手に入れたと考えるのは不自然だろう)。
それらには、確かにかつて医学部時代に知り合った友人と思われる複数の人名に言及している事例が見出されるが、彼が医学部時代にそれらを書いていたという証拠はない。
なお、Lecture は古くは「教育」(enseignement) の意味もあったが、医学部生時代ということなのか、医学部の教員時代ということなのか、判然としない。
第3節 ノストラダムスの結婚と子ども
この時期に彼はアンヌ・ポンス・ジュネル (Anne Ponce Genelle [sic.]) と結婚し、小さいけれども、とても魅力的なプロヴァンス州サロン・ド・クラニー (Salon de Crany [sic.]) に隠棲した。その町の住民たちは生来の戦士で、大きな栄誉と大きな賞賛をともなって、多くの攻囲戦をしのいでいた。
彼は三男一女をもうけた。
第一子はその 〔父と同じ〕 名のミシェル・ノストラダムスで、1563年にパリで出版された占星術に関する何らかの作品 (quelque piece d'Astrologie) を執筆した。
第二子は
セザール・ノストラダムスで、プロヴァンスについてものした大著によって、フランスの歴史家たちの中に列せられる資格がある。
第三子はカプチン会修道士で、そのためにセザールは自身の史書の中で、プロヴァンスにおける同修道会の布教についての記述を挿入したのである。第四子は娘だった。
第3節注記
冒頭の 「この時期」 というのは著書を発表するようになった時期ということだろう。しかし、
アンヌ・ポンサルドと再婚した1547年の時点では、出版されることがなかった『
オルス・アポロ』を執筆していた可能性があるくらいで、ノストラダムスは著述活動をほとんどしていなかった。
残る息子たちの情報の出典は不明である。そこでは、長男セザールを次男としたため、本来の次男である
シャルル・ド・ノートルダムが脱落している。 ただ、三男
アンドレはフランシスコ会修道士だったので、カプチン会修道士 (カプチン会はフランシスコ会の分派) という位置づけは、的外れなものではないだろう (三男は普通フランシスコ会修道士とされるので、カプチン会に属していたかまでは確認できない)。
娘が一人で末っ子というのも出典が分からない。後述するように、1656年の解釈書の著者は
セザール・ド・ノートルダムの年代記 (1614年) を参照していた可能性が非常に高いが、そこで
マドレーヌ・ド・ノートルダムが 「姉」 と位置づけられていることは見落としたのだろう。
第4節 暦書の刊行と偽物の氾濫
ノストラダムスは、その実践において占星術の知識に頼る完全な医学を修得しており、自身の研究の一部をそれ 〔=占星術〕 にも捧げていた。そして、その知識が実に魅力的であり、彼の魂がそれへと特別な気持ちを向けたから、彼はそのことに非常に没頭し、その結果、幸運なことに功を成し、その職業ではフランスきっての著名人となった。それで彼は気晴らしにいくらかの暦書を作成したのだが、それらが大いに驚くべきことに諸事件の予測を的中させたので、四方八方からそれらが求められた。
しかし、この幸運は彼の名声を並外れた規模で失墜させることにつながった。というのは、出版業者たちや書籍商たちは、自身の手で作り出した作品を売ることで膨大な利潤を得ようとしたために、彼の名前を使って偽の暦書を大量に売り捌いたからである。それらは未来の出来事になんら対応しておらず、彼が夢想家、詐欺師、ペテン師などと言われるようになってしまったのである。それ 〔=偽暦書の氾濫〕 は、彼を非難したパヴィヨン殿の著書や、彼の人格を批判したジョデルの辛辣で風刺的なラテン語の二行連句を生み出した。
第4節コメント
この節の内容のうち、前半の医学に占星術が用いられたなどの背景については正しい。また、ノストラダムスが後に私信の中で占星術のキャリアを誇っていたことなどからすれば、占星術に関心があったというのも誤りではないだろう。
暦書が諸事件を的中させたということについては、当「大事典」は無条件に支持できない。
その一方で、ノストラダムスが暦書を刊行してまもなく、その内容を剽窃した 『
クロード・ファブリ師によって構成された1552年向けの新たなる新の占筮』 が刊行されたことが明らかになっており、比較的早い段階からノストラダムスの暦書が評価されていたらしいことが窺える。また、後述する国王との謁見も、暦書の成功が元になっており、どういう理由かはともかく、彼の暦書が 『
予言集』・『
化粧品とジャム論』 といった主著の刊行前から十分に売れていたこと自体は確かなようである。
偽物の出版は事実だが、現存する偽物はいずれも1560年向け以降のものである。
ニコラ・ビュフェ未亡人が1558年におそらく偽の暦書の出版で訴えられていることから、現存しない偽版は1550年代にもあったと思われるが、本物を駆逐するほどの氾濫ぶりが見られたかは疑わしい。
このあたりは、ノストラダムスその人を擁護しようとするあまり、彼のネガティヴな評価を必要以上に偽物に押し付けているような印象がある。
第5節 王宮へ
しかし、真実は中傷の雲間から光が放散されるままにはしておかず、彼はとりわけ貴人たちから評価された。すべての善良な魂がそうであるように、未来の物事の知識に関心を持っていた王妃カトリーヌ・ド・メディシスは、彼に対し、王宮へ来るために故郷を離れなさいと使者を出した。
彼は1555年7月14日、53歳の時に
サロンを発ち、8月15日にパリに到着した。着くやいなや、モンモランシー大元帥閣下が彼の 〔泊まっていた〕 宿屋を訪れ、彼自身を国王へと拝謁させた。陛下は彼を大いなる満足とともにもてなし、彼がサンス大司教であったブルボン枢機卿の邸宅に泊まるように命じた。
陛下が彼に金貨100エキュとビロードの財布を下賜し、王妃もほぼ同じだけを下賜した後、彼はそこ 〔=ブルボン枢機卿宅〕 で10日か12日の間、通風に悩まされた。両陛下はなおも、彼が
ブロワに赴き、そこで令息である王子たちと会い、彼が知りえた事柄を秘密裏に述べることを望んだ。彼がブロワに赴くと、誰彼からとなく豪奢にもてなされた。彼は王子たちを視ると、彼らについての秘密の所見を国王と王妃に伝えるべく、そこから 〔パリに〕 戻った。
彼は、彼らについて知りえた事柄や、それについて最初の7巻の
百詩篇集にすでに収めていた事柄は、彼らにはいっさい伝えず、ただ両陛下のみを満足させるためだけのものであると保証させられた。さて、まさにそれについては事実に反する断言であった。そうして、
百詩篇第8巻ではアンリ3世について語る形でそれをやり、彼 〔=アンリ3世〕 のことを 「健康も死も略奪も知らない、生活について幸いなる者、フランス王国にて幸いなる者」 等と呼んだ。
第5節注記
ノストラダムスの国王との謁見を正しく1555年7月14日としている。こうした日付、滞在先、褒美の内容などは
セザール・ド・ノートルダムの年代記に登場することと一致しており、おそらくそれを参考文献にしたと思われる。
しかし、セザールが記載しているのはブロワに赴いたことまでで、そこで見た未来の内容や、それについてどのようなやり取りを国王夫妻と交わしたのかには触れられていない。その辺りの出典は不明だが、むしろ無根拠に膨らませたものではないかと思われる。
なお、第8巻の詩とされている引用句は、実際には
百詩篇第10巻の16番から採られており、省略や修正が施されている。
ブロワに赴いたこと自体は実証的な研究でもおおむね支持されているが、その内容は不明である。
ジョヴァンニ・ミキエルの報告書 (1561年) からすれば、「全員が国王になる」 と占った可能性も否定できないものの、確証はない。
なお、言うまでもないが、ブロワに赴いて息子たちの運勢を見たというこの話は、
ブロワ城の問答の史実性を裏付けるものでは全くなく、シチュエーションは全く一致しない。
第6節 サロン=ド=プロヴァンスでの生活
宮廷で大いに栄誉を受け、彼は
サロンに戻ると、最後の百詩篇集の残りを 〔書き上げることを〕 続行し、2年後の1557年に国王
アンリ2世へとそれらを捧げた。そして、その冒頭の献辞で、神の恩寵を受けた国王ルイ14世の生誕から反キリストによる迫害の終焉までの未来の秘密全てを開示したのである。
サロンにいた時に、彼はその町でサヴォワ公、および公がカンブレジでの全面講和条約 〔=カトー・カンブレジ条約〕 で得た内容に従い、彼と結婚したアンリ2世の妹君マルグリット・ド・フランス殿下をお迎えした。公爵は10月に、公妃は12月に到着し、彼 〔=ノストラダムス〕 は彼らの御臨席の栄を賜り、どちらとも個別に会談を持った。王国全土を巡幸していたシャルル9世は、プロヴァンスに赴いた際には彼に会いにサロンへ行くことを当然欠かさず、そこでは町の側から畏敬を表明され、あわせて演説を受けた。時に1564年10月17日のことであった。
その著者 〔=ノストラダムス〕 との会談を再び持った国王と王太后の満足は並外れたものであったので、二人が
リヨンに滞在したときに、ノストラダムスにまたも 〔サロンを〕 離れるようにと使者を送り、〔リヨンに来た〕 彼に国王は金貨200エキュを、王太后もほぼ同額を下賜し、あわせて王附常任侍医の資格とその俸給も下賜した。彼はサロンに戻ると、なおも16か月ほど生き、秘蹟を全て受け、よきキリスト者としての義務を全て果たすと、1566年7月2日、聖母訪問の祝日に冥府へ旅立った。
第6節注記
この節の冒頭は「
アンリ2世への手紙」のことを言っているのだろうが、その奥付は1558年6月27日である。1557年に献上というのは疑わしいが、文中に1557年3月14日という日付があるので、そちらに影響されたのかもしれない。
サヴォワ公夫妻が1559年の10月と12月にそれぞれ訪問したという話は、前節同様にセザールの年代記が出典だろう。現代でも史実と見なされている。
1564年の謁見についても、セザールの記録を参照したものと思われる。もっとも、セザールは常任侍医の称号を得た場所をリヨンではなく
アルルとしており、現代の実証的にもそちらだったのだろうと考えられている。1656年の解釈書でリヨンとされているのは、何らかの誤認であろう。
第7節 ノストラダムスの墓
彼はコルドリエ派の教会で、その扉の左側に葬られた。そこには未亡人が作成した大理石板に刻まれた墓碑が、実物どおりに描かれた肖像画や紋章とともに、壁に据えつけられている。その文面は以下の通りである。
{{注記・ラテン語の碑文は省略}}
これをフランス語訳 〔=当然ここでは日本語訳〕 しておこう。「ここに、いとも高名なるミシェル・ノストラダムスの骨が安置されている。彼は人々の中にあって、星辰の影響による半ば神のような筆で全世界の未来の諸事件を記載したと、万民から判断されるにふさわしい一人である。彼は62年6か月10日を生き、1566年にサロンで没した。
後世の人々よ、彼の安息を羨まないように。アンヌ・ポンス・ジュメル (Anne Ponce Gemelle) は最愛の夫に真の至福を望む」
第7節注記
ここでも明らかにセザールの年代記が利用されている。そう判断できる根拠は 「62年6か月10日」 である。正しくは 「62年6か月17日」 であり、これは (おそらく墓碑の文面についての最古の言及であろう)
ラ・クロワ・デュ・メーヌによる書誌情報 (1584年) でもそう書かれている。「10日」 とするのはセザールの年代記の誤記をそのまま引き写してしまったのだろう。
第9章 カトリックの信仰とキリスト教的敬虔さが示されているノストラダムスの生涯のこまごまとした話 (Particularitez de la vie de Nostradamus, où la Religion Catholique, & la piété Chrestienne paroissent)
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最終更新:2014年06月03日 00:09