百詩篇第10巻11番


原文

Dessous Ionchere 1 du dangereux passage
Fera passer 2 le posthume 3 sa bande,
Les monts 4 Pyrens 5 passer hors son bagaige
De Parpignam 6 courira 7 duc 8 à tende 9 .

異文

(1) Ionchere : Ioncbere 1653 1665
(2) passer : passe 1653
(3) posthume : postume 1627 1981EB
(4) monts : Monts 1672
(5) Pyrens : pyrenes 1590Ro, Pirens 1611B 1627 1644 1650Ri 1665 1840 1981EB, Pyrenes 1650Le
(6) De Parpignam 1568 1590Ro : De Parpignan T.A.Eds., De Porpignan 1628, Parpignan 1653, De Perpignan 1772Ri
(7) courira : couurira 1649Ca, couvrira 1650Le 1668
(8) duc : Duc 1605 1611 1628 1649Xa 1650Le 1653 1665 1668 1672 1716 1772Ri 1840 1981EB
(9) tende 1568 1590Ro : Tende T.A.Eds., Cende 1653

日本語訳

ラ・フンケラの危険な小道から、
遺児がその手勢を通らせるだろう。
軍用荷物を除いてピレネー山脈を越える。
ペルピニャンから公爵がタンドへと駆けるだろう。

訳について

 1行目の Ionchere (Jonchere) は、フランス語の一般名詞としては「イグサの生えている場所」 の意味だが、この場合はそれに対応するスペイン語 (La) Junquera (フンケラ) のことと考えられている。ラ・フンケラ(カスティーリャ読み。カタルーニャ読みは「ラ・ジュンケラ」のようだが、当「大事典」管理者はカタルーニャ語には不案内なので、とりあえずカスティーリャ読みをしておく)は、ピレネー山脈のペルチュス峠のスペイン側の地名であり、3行目のピレネーとも整合する。
 この読み方はアナトール・ル・ペルチエが最初に示したものである (ル・ペルチエ自身はフランスのジョンシェール(ヴォクリューズ県)という都市名の可能性も示していたが、ミシェル・デュフレーヌマリニー・ローズなどの例外を除くと、そちらの可能性は無視された)。ラ・フンケラとする読みは、エドガー・レオニピーター・ラメジャラージャン=ポール・クレベールリチャード・シーバースらも一致しており、定説化していると見てよいだろう。

 それに付いている前置詞 dessous はかつては sous と同じにも使われ、直訳は 「下に、下から」 だが、この場合はラ・フンケラの市内・勢力圏内の、という意味だろう。

 3行目の bagage には旅行用の手荷物のほか、軍用荷物の意味もあった *1 。クレベールらの読みに従い、後者を採る。

 既存の訳についてコメントしておく。
 大乗訳について。
 1行目 「祝典の花のしたで危険な通行が」 *2 は誤訳。「祝典の花」は、おそらく Jonchere を jonchée と読み替えたのだろう。しかし、jonchée は婚礼や葬礼の際に撒かれる草花の山や、それらを敷き詰めて作る花道の意味で、その 『下』 を通るのは不自然なので、二重に不適切だろう。なお、大乗訳のもとになったヘンリー・C・ロバーツの英訳では、そのままJonchere となっている。
 2行目 「父の死後生まれた王子は軍を進め」 は微妙。posthume は単に 「父の死後に生まれた(子ども)」の意味しかなく、「王子」とは限らない。
 3行目 「荷物はピレネー山を越えて」 は不適切。原文で山が複数になっていることや客観的な地理用語から言っても、「ピレネー山」はおかしい。
 それ以上に問題なのは、hors の処理の仕方である。大乗訳はロバーツ (さらにはその参照元のガランシエール) の英訳に忠実だが、これは英訳自体が誤っている。レオニ、ラメジャラー、クレベール、シーバースのいずれも、「軍用荷物を除いて」(without) の意味に理解している。
 4行目は「パーピニアン」「テンデ」 といった固有名詞の表記を除けば、さほどの問題はない。

 山根訳について。
 1行目 「ロンシェールの下 危険な通り路にて」 *3 は誤訳。元になっているエリカ・チータムの原文が Debbouz louchere という誤植だらけだったことに引き摺られたのだろう (ただし、チータムの英訳ではきちんと Junquera と表記されている)。
 2行目 「死後の者 仲間の群を通りぬけるだろう」 はオカルト的に理解しすぎだろう。前述の通り、posthumeは遺児・忘れ形見の意味であって、語源に遡って極端に訳す必然性が感じられない。

信奉者側の見解


 テオフィル・ド・ガランシエールは、スペインから進軍する遺児を恐れた公爵がペルピニャンからタンドへと逃れるという、ほとんどそのまま敷衍したような訳しかつけていなかった *4

 ヘンリー・C・ロバーツは、スペインを征服することになり、周辺諸国を恐れさせる暴君についての予言とした *5

 セルジュ・ユタンは、「現時点」 で解釈不能としており、彼の死後に増補したボードワン・ボンセルジャンも、それをそのまま踏襲した *6

 ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌは1980年の時点で、近未来の戦争の情景と解釈しており、フランスに現れる大君主 (ブルボン王家の忘れ形見) がラ・フンケラ経由でスペインを制圧し、勢力をスペイン、イタリアに広げる予言としていた *7

 ジョン・ホーグは、1939年にフランコがスペイン内戦で勝利したことについての予言とした *8

同時代的な視点

 エドガー・レオニ百詩篇第10巻9番(未作成)と関連があるとし、第10巻10番とも関係あるかもしれないと見た。彼は、公爵がラ・フンケラからピレネーを越え、ペルピニャン経由でタンドに向かうと理解した *9
 ジャン=ポール・クレベールも、「遺児」がラ・フンケラからピレネーを越え、ペルピニャンからタンド攻撃に向かうと理解した *10

 ピーター・ラメジャラーも、モデルは特定していないが、スペインからフランス南西部への進撃を描いたものと理解していた *11

 なお、タンドは現在こそフランス領だが、正式な帰属は1947年のことであった。ノストラダムスの時代にはサヴォワ公国の都市だったため、4行目の 「公爵」 は2行目の 「遺児」 とは別で、遺児の進撃を受けて逃げ帰るサヴォワ公のことを描写しているように見えなくもない。

【画像】 関連地図


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