百詩篇第5巻30番


原文

Tout à1 l’entour de la2 grande cité3,
Seront4 soldartz5 logés par champs & ville6:
Donner l’assault Paris, Rome incité,
Sur le pont7 lors sera8 faicte9 grand pille.

異文

(1) à : a 1588Rf 1589Me 1672
(2) de la : de 1653 1665
(3) cité : Cité 1620PD 1672
(4) Seront : Serons 1597, Se sont 1665 1840
(5) soldartz 1557U : soldats T.A.Eds.(sauf : soldarts 1589PV, soldatz 1568A 1590Ro)
(6) ville : villes 1568 1590Ro 1597 1600 1610 1627 1644 1650Ri 1653 1665 1716
(7) pont : Pont 1672
(8) lors sera : sera 1672
(9) faicte : fait 1620PD

日本語訳

大いなる都市の辺り一面で、
兵士たちが野に町に駐留するだろう。
パリを襲撃するために、ローマが唆される。
その時、橋の上では大掠奪が行われるだろう。

訳について

 4行目 pont は通常 「橋」 の意味だが、ノストラダムスはギリシア語ないしラテン語からの借用で 「海」 の意味に使うことがあった (同じ百詩篇第5巻では54番でその例が見られる)。そのため、リチャード・シーバースは「海」と訳しており、ピーター・ラメジャラーも2003年の時点ではそう訳していた。ラメジャラーは2010年には「橋」を第一義にするが、「海」もカッコ書きで併記している。
 他方、ジャン=ポール・クレベールも指摘するように、昔のヨーロッパの橋は日本のそれと異なり、住居や店舗がひしめく巨大建造物であったことも忘れてはならない。そこで大掠奪が行われたとしても、文脈として不自然とは言えないのである。

 既存の訳についてコメントしておく。
 大乗訳については、3行目 「パリは襲撃され ローマは扇動される」*1が微妙である。確かにノストラダムスは動詞の不定形を、(直説法単純未来の語尾音消失などとして) 通常の動詞と同じように使った可能性は指摘されており、そのような訳が定訳化している詩篇はある。しかし、この場合は、扇動される目的を示す不定法 (英語の to + 不定詞と同じ) として使われているとみるのが一般的であり、ラメジャラーやシーバースの英訳、クレベールの釈義などではそうなっている。
 ただし、シーバースのみは扇動の扱いに違いがあり、「ローマはパリを襲撃するように彼らを扇動する」というように読んでいる。

 山根訳について。
 3行目 「パリが攻撃を仕掛け ローマは煽動される」*2は、大乗訳について述べたことが同じように当てはまる。
 4行目 「法王に対して大略奪が行なわれる」 は pont を pontif (高位聖職者)の語尾音省略と解釈した結果だろう。

信奉者側の解釈

 匿名の解釈書『1555年に出版されたミシェル・ノストラダムス師の百詩篇集に関する小論あるいは注釈』(1620年)は、1580年代後半、ヴァロワ王朝末期の国王アンリ3世とパリのカトリック同盟の対立と解釈した *3
 この解釈は後に、ドゥドゥセが1790年に刊行した解釈書でも踏襲された*4。1800年の匿名の解釈書『暴かれた未来』も時期はほぼ同じで、アンリ4世によってパリが封鎖されたことと解釈した*5

 アナトール・ル・ペルチエは1798年2月11日のベルチエ将軍率いるフランス軍のローマ入城と解釈した*6。この解釈はチャールズ・ウォードジェイムズ・レイヴァーによって踏襲された*7
 エリカ・チータムも踏襲したが、彼女の場合、1808年から1809年にかけてのフランスへの教皇領併合も含めて解釈している*8。もっとも、その解釈はエドガー・レオニが示唆していたことを盗用しただけであろう。1798年と1808年の2つを想定する解釈は、ジョン・ホーグも踏襲した*9
 ル・ペルチエから多大な影響を受けたとしているヴライク・イオネスクは一連の著作でこの詩を扱っていない。

 マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)(1938年)は、ごく近い時期のパリ壊滅の予言のひとつとして扱っていた*10。一見、1940年のパリ陥落を的中させたかのようだが、むろん前後の状況は一致しない。アンドレ・ラモン(1943年)も、近未来のパリへの攻撃と解釈していた*11
 ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ(1980年)も1980年代に起こると想定していた世界大戦の一場面として扱っていたが*12、晩年の著書では触れていなかった*13

 セルジュ・ユタンは1870年の2つの動き、すなわち普仏戦争でのパリ包囲戦と、イタリア統一運動の中でのローマのイタリア併合を予言したものとした*14

同時代的な視点

 エドガー・レオニはノストラダムスの後の時代で当てはめられるのは1798年と1808年の動きだけとしつつも、むしろ1527年のローマ掠奪がモデルになっている可能性を示した。ローマに唆される、というのは、当時のローマ市内での確執を指したものだという*15
 もっとも、ローマ掠奪は神聖ローマ帝国によるものであって、パリとの関連性は不明瞭である。

 ピーター・ラメジャラーは『ミラビリス・リベル』に収録された偽メトディウスをモデルにしたものではないかとした。


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最終更新:2014年08月23日 22:56

*1 大乗 [1975] p.156

*2 山根 [1988] p.186 。以下、この詩の引用は同じページから。

*3 Petit discours..., p.13

*4 D'Oudoucet, p.27

*5 L'Avenir..., p.92

*6 Le Pelletier [1867a] p.201

*7 Ward [1891] p.282, Laver (1942)[1952] p.179

*8 Cheetham [1973], Cheetham (1989)[1990]

*9 Hogue (1997)[1999]

*10 Fontbrune (1938)[1939] p.187

*11 Lamont [1943] p.284

*12 Fontbrune (1980)[1982]

*13 Fontbrune [2006]

*14 Hutin [1978], Hutin (2002)[2003]

*15 Leoni [1961]