百詩篇第6巻26番


原文

Quatre ans 1 le siege quelque 2 peu bien tiendra 3 ,
Vn suruien ra 4 libidineux de vie 5 :
Rauenne 6 & Pyse 7 , Veronne 8 soustiendront 9 ,
Pour esleuer la croix 10 de 11 Pape 12 enuie.

異文

(1) ans : an 1557B
(2) quelque : que 1557B
(3) tiendra : yra 1588-89
(4) suruien ra 1557U : suruiendra T.A.Eds.
(5) vie : Vie 1653
(6) Rauenne : Ravenna 1672
(7) Pyse : Pese 1568C, pise 1665
(8) Veronne : Verrone 1981EB
(9) soustiendront : soustiendra 1588-89 1611B 1981EB
(10) croix : Croix 1672
(11) de : du 1649Ca 1650Le 1668
(12) Pape : pape 1665

校訂

 2行目 suruien ra は明らかに d の脱漏で、suruiendra (surviendra) が正しい。
 4行目 enuie (envie) をブリューノ・プテ=ジラールは en vie と校訂している。ただ、彼のテクストを踏襲しているリチャード・シーバースも英訳に際して desire を当てており、en vie とする校訂を支持していないことが明らかである。

日本語訳

四年間、いくらか立派な人物が御座を保つだろう。
生活の不品行な一人が後に続くだろう。
ラヴェンナピサヴェローナは支持するだろう、
十字架を掲げたいという教皇の熱望を。

訳について

 2行目 surviendra>survenir を「後に続く」の意味にとるのはあまり一般的ではないが、エドガー・レオニピーター・ラメジャラーリチャード・シーバースが一致して succeed と英訳していることを踏まえた。

 既存の訳についてコメントしておく。
 大乗訳について。
 1行目 「四年間彼は教皇の座をよくまもり」 *1 は不適切。le siege (椅子、座) が教皇の聖座を指しているというのはほぼ異論のないところなので、「教皇の」を補うことには何の問題もないものと思われるが、quelque peu (幾らか、少々) が訳に反映されていない。
 2行目 「好色な生活を続ける」は不適切。2行目の主語は un で、その形容が行の後半に位置しているのである。
 3行目 「ラベンナ ピサはベロナの一部となり」も不適切。仮にヴェローナを目的語とするにしても、「ラヴェンナとピサはヴェローナを支えるだろう」とでもすべきだろう。
 4行目 「教皇の十字架をひきあげる」は pour も envie も訳に反映されていない。

 山根訳について。
 2行目 「跡を継ぐのは色を好む男」 *2 は de vie (生活の、生命の) が訳に反映されていない。
 3行目 「ラヴェンナ ピーサ ヴェローナが彼を支持するだろう」は意訳としては許容されるかもしれないが、「彼」が原文にない。むしろ、3行目の目的語は4行目全体と見るべきだろう。
 4行目 「法王の十字架の価値を高めたいのだ」 は envie が訳に反映されていない。de Pape は確かに基本文法通りなら croix に係らせるべきだろうが、むしろ語順を整えて envie de Pape pour enlever la croix と理解すべきだろうし、実際、ラメジャラーやシーバースの英訳ではそう理解されている。

信奉者側の見解

 テオフィル・ド・ガランシエールは、ほとんどそのまま敷衍したようなコメントしかつけていなかった *3
 その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、ジャック・ド・ジャンバルタザール・ギノーD.D.テオドール・ブーイフランシス・ジローウジェーヌ・バレストアナトール・ル・ペルチエチャールズ・ウォードマックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)アンドレ・ラモンロルフ・ボズウェルジェイムズ・レイヴァーの著書には載っていない。

 エリカ・チータムは、4年半在位した教皇ヨハネス23世 (在位1958年 - 1963年) とそれを継いだパウルス6世 (在位1963年 - 1978年) としていた *4 。この解釈はジョン・ホーグも踏襲した *5

 セルジュ・ユタンはナポレオン3世と解釈した *6 。詳述していないので細かい対応関係が分からないが、おそらく「4年」は第二帝政開始直前の第二共和政が約4年(1848年2月 - 1852年12月) だったことと結びつけたのだろう。

 ヴライク・イオネスクは教皇ヨハネ・パウロ2世 (在位1978年 - 2005年) の次の教皇が選出されるときに、問題のある人物がもう一人選ばれる事態になることの予言としていた *7 。これは外れたが、イオネスクはヨハネ・パウロ2世の在位期間に没したので、改訂された解釈などが出されることはなかった。

 ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌは、1行目を教皇ピウス6世 (在位1775年 - 1799年) の在位期間末期の4年間およびその途中で起こった教皇のローマからの追放と解釈した *8

同時代的な視点

 4行目の「十字架を掲げる」が十字軍を組織する意味であろうということは、エドガー・レオニピーター・ラメジャラーが指摘している。

 特にラメジャラーは、4年在位した「ユリウス3世」と、第三次十字軍を組織したグレゴリウス8世 (在位1187年) のことだと指摘している。ユリウス3世 (在位1550年 - 1555年)は時期が離れすぎている上に4年の在位でもないので、おそらくそれはルキウス3世(在位1181年 - 1185年) の誤りだろう。

 ルキウス3世は4年2ヶ月ほどの在位で、「真正直な人だったと言われ」 *9 ているので、確かに1行目には当てはまる。彼は神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世から第三次十字軍参加の約束を取り付けることに成功するが、彼の治世には十字軍派遣は実現せず、教会会議を開催した地ヴェローナで没した。
 その次の教皇ウルバヌス3世 (在位1185年 - 1187年) のときは、教皇から見てフリードリヒ1世が縁者を殺した仇敵であったため、教皇と皇帝の対立が深まるばかりで十字軍計画に進展はなかった。
 しかし、グレゴリウス8世はイスラーム勢力によるエルサレム再占領の直後に教皇に選出されたことから、十字軍遠征に強い意欲を抱いていた。そして、その遠征の下準備として、当時強大な海軍力を有していたピサとジェノヴァの対立を解消しようとピサを訪れた際に客死した。
 第三次十字軍は次のクレメンス3世 (在位1187年 - 1191年) のときに実現したが、足並みが揃わず失敗に終わった *10

 グレゴリウス8世がルキウス3世の直後でないことや、(ラメジャラーも認めるとおり)グレゴリウス8世には私生活上の問題が指摘されていないことなど、若干整合しない要素はあるが、ある程度の一致が見られるのは事実だろう。

 なお、上で触れたとおり、実際に十字軍を派遣したクレメンス3世も在位4年である。その次の次に教皇になったのが、クレメンスの甥であり中世の教皇の中で突出した知名度を誇るインノケンティウス3世である。彼は第4回十字軍とアルビジョワ十字軍の派遣に関わっており、想定外の結果に終わった悪名高い第4回に続く新たな十字軍の派遣も模索していた。
 ある程度の一致ということで言うのなら、こちらの組み合わせも相応に興味深いように思われる。


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